禅僧とめぐる京の名庭
2008年10月刊
枡野俊明著
枡野俊明の経歴
枡野俊明は1953年、横浜市生まれの曹洞宗僧侶、庭園デザイナーである。玉川大学農学部を卒業後、曹洞宗大本山總持寺で修行し、現在は横浜市の徳雄山建功寺住職を務める。また長年、多摩美術大学で教鞭を執り、現在は同大学名誉教授である。枡野は、禅を研究するだけでなく、実際に庭を造ることで禅を表現してきた。カナダ大使館庭園、セルリアンタワー東急ホテル日本庭園閑坐庭、ベルリン日本庭園融水苑など国内外で多数の庭園を設計した。本書は、美術史家や庭園史家が外部から禅庭を分析した本とは性格が異なる。禅僧であり、同時に現代の作庭家でもある人物が、過去の禅僧や作庭家の庭を見ながら、なぜこの石をここに置いたのかという創作者の側から庭を読み解いた本である。


水戸市



本書の内容
1.禅の庭は見る庭ではなく心で読む庭
本書が取り上げるのは、京都に残る21の禅寺の名庭である。大徳寺龍源院、大仙院、黄梅院、龍安寺、妙心寺退蔵院、大心院、南禅寺本坊、南禅院、金地院、天授庵、天龍寺、西芳寺など、日本庭園史を代表する庭が登場する。各庭には平面図も添えられ、配置や石組を確認しながら読める構成になっている。枡野が強調するのは、禅庭を単に美しい風景として見てはならないということである。禅の庭は、限られた空間の中に自然を再現するのではなく、自然を極度に抽象化することで、人間の心の中に無限の世界を生じさせる装置である。
2.石と白砂に宇宙をつくる
その典型が枯山水である。枯山水では実際の山も川も海も存在しない。しかし石は山となり、白砂は水となり、砂紋は波となる。見る者が想像力を働かせることによって、小さな庭の中に巨大な山河や海洋が現れる。大徳寺龍源院の北庭では、限られた空間の中に仏教的宇宙観が表現される。一方、大仙院の庭では石と砂によって山から水が流れ出し、川となって大海へ至るような世界が構成される。それは立体化された水墨山水画のようでもある。本書では大仙院を石と砂で描かれた破墨山水画絵巻として読み解いている。
3.龍安寺
龍安寺石庭は、本書の思想を理解する上で象徴的な庭である。白砂と15個の石という極端に限定された要素しかない。滝や池、花木による華やかな演出を捨て、徹底的に余分なものを削ぎ落としている。枡野はこうした庭を、単純な風景の縮小模型としてではなく、禅の無の思想に接近する空間として捉える。何を表しているかを一つの答えに固定するのではなく、見る人自身が庭と向き合うことが重要である。本書が龍安寺を「無」を表現する枯山水庭園の傑作と位置づける理由もここにある。

4.禅庭と水墨画禅の庭と水墨画との関係も重要である。水墨画は色彩を捨て、墨の濃淡と余白だけで山、水、霧、空気、距離まで表現する。同じように禅庭も、自然の要素を増やすのではなく、逆に削ることによって世界を広げていく。その意味で白砂の白は何もない空白ではない。そこには水にも雲にも海にもなり得る可能性が残されている。庭園における余白は、水墨画の余白と同様、鑑賞者の想像力によって完成する空間である。
5.庭は禅の修行空間
本書では、庭と寺院建築との関係も重視される。妙心寺大心院では三尊石を中心とした庭がもうひとつの本堂として捉えられる。庭は本堂に付属した装飾物ではなく、それ自体が仏教的世界観を表現する宗教空間である。禅では経典や言葉だけで悟りに到達しようとはしない。坐禅し、掃除し、食事をし、自然を見るという日常の行為を修行と考える。その思想から見れば、庭を見ることもまた自己の心を見る行為となる。
6.自然を模倣せず本質を表す
天龍寺や西芳寺のような庭では、枯山水とは異なって実際の水や植生が大きな役割を果たす。しかしここでも重要なのは、自然をコピーすることではない。山を借景として取り込み、池や石、樹木を配置することによって、実際の敷地を超えた空間を生み出す。庭の境界の外にある山まで庭の一部にしてしまう。日本庭園における借景は、限られた土地を精神的には無限の空間へ変える技法である。
7.小堀遠州と構成美
南禅寺本坊などでは小堀遠州に代表される作庭思想が論じられる。本書では、石の大きさ、方向、間隔、建築からの見え方などを読みながら、庭が偶然できた自然ではなく、周到に構成された造形作品であることを明らかにしていく。しかし重要なのは、人工的に構成したことを感じさせないことである。人間が石を配置しながら、最終的には石がそこにあるべくしてあるように見せる。そこに日本庭園独特の自然観がある。

8.余白が庭を完成させる
本書を貫いている重要な考え方の一つが、何も置かれていない空間の価値である。西洋庭園ではしばしば植物、彫刻、噴水などによって空間を構成するが、禅庭では何も置かないこと自体が積極的な表現となる。石だけを見るのではなく、石と石の間を見る。白砂が生み出す静寂を見る。庭を理解するとは、そこに存在するものだけではなく、存在しないものを感じ取ることである。こうして枡野は、京都の21の庭を紹介しながら、禅庭とは自然の縮小模型ではなく、石、砂、水、苔、樹木、建築、借景、そして何もない空間を使って、人間の内面に無限の世界を生じさせる芸術であることを示している。
本書が言いたかったこと
禅の庭は鑑賞する対象である以前に、自分自身の心を見るための場所である。禅庭では、自然を豊富に再現するのではなく、むしろ徹底して削ぎ落とす。石と砂だけになった時、見る者はそこに山や川や海を想像する。何も描かれていない余白があるからこそ、無限の世界を感じることができる。禅の美とは、何かを付け加える美ではなく、余分なものを捨てることによって本質を浮かび上がらせる美である。そしてこの思想は庭園だけの問題ではない。人間もまた、欲望、執着、先入観、過剰な情報を抱え込むほど、本当に大切なものが見えなくなる。庭から余計なものを取り除いていくように、自分の心から不要なものを取り除いていけば、物事の本質が見えてくる。したがって禅庭を見るという行為は、美しい庭を眺める観光ではなく、静寂の中で庭と対話し、その庭を媒介として自分自身と向き合うことである。小さな庭の中に無限の宇宙を見いだすこと、それこそが禅の庭を見るということである。
