Abstraction and Empathy
1908年刊
Wilhelm Worringer著
ヴィルヘルム・ヴォリンガーの経歴
ヴィルヘルム・ヴォリンガー(1881–1965年)はドイツの美術史家、美術理論家であり、本書を若干二十六歳の時に博士論文として執筆した。当時の西洋美術史は、古代ギリシアからルネサンスへと続く写実的芸術を最高の芸術と見なしていた。しかしヴォリンガーは、エジプト美術やゴシック美術、イスラム美術、原始芸術などの非写実的表現にも独自の精神的価値が存在すると考えた。彼は芸術を技術的進歩の歴史としてではなく、人間精神の歴史として捉え直した。その思想は後の表現主義、抽象芸術、更にはカンディンスキーやクレーなどの近代芸術家に大きな影響を与えた。
本書の内容
1.芸術はなぜ異なる様式を生み出すのか
本書の出発点となる問いは極めて根本的である。なぜ古代ギリシアの彫刻は写実的であり、エジプト美術は幾何学的であり、ゴシック芸術は歪んだ形態を持つのか。従来の美術史では、その違いは技術水準の差として説明されることが多かった。しかしヴォリンガーはこの考え方を否定する。彼によれば、芸術様式の違いは技術の発展段階によるものではなく、人間が世界に対して抱く精神的態度の違いから生じるのである。人間が世界と調和し、自然を親しみ深いものとして感じる時代には写実的芸術が生まれる。一方で、世界を不安定で脅威に満ちたものとして感じる時代には抽象的芸術が生まれる。芸術とは自然の模倣ではなく、人間精神の自己表現である。
2.感情移入の原理
ヴォリンガーはまず感情移入という概念を詳しく検討する。感情移入とは、人間が自然や外界の対象に自己を投影し、その中に自分自身を見出す心理的作用である。人は木々や山々、人体や動物の姿に生命感や親近感を感じる。そしてその感覚が芸術的快楽の基礎となる。古代ギリシア彫刻やルネサンス絵画は、この感情移入の欲求から生まれた芸術である。人間は均整の取れた人体や調和した自然の姿を見ることで、自らと世界との一体感を経験する。写実芸術とは、人間が自然との調和を感じているときに成立する芸術である。
3.世界への不安と抽象衝動
しかし人間は常に自然との一体感を感じている訳ではない。世界が混沌として見え、自然が脅威として感じられる時、人間は感情移入による安らぎを得ることができない。その代わりに生まれるのが抽象衝動である。抽象衝動とは、変化し続ける自然から離れ、不変で永遠の秩序を求めようとする精神的欲求である。自然界は常に変化し続ける。生と死、生成と消滅、偶然と混乱に満ちている。そのような世界に不安を感じる人間は、変化しない絶対的な形態を求めるようになる。幾何学的形態、対称性、規則性、反復性などは、そのような精神的要求から生まれる。抽象芸術とは現実逃避ではなく、存在の不安から精神的安定を獲得しようとする試みである。
4.エジプト芸術の意味
ヴォリンガーは古代エジプト芸術を重要な例として分析する。エジプトの彫刻や壁画は自然を忠実に再現しようとしていない。人物は正面と側面が同時に表現され、身体は厳格な法則に従って描かれている。従来の美術史では、この様式は未熟な写実技術の結果と解釈されてきた。しかしヴォリンガーは全く異なる見方を示す。エジプト人は自然を描けなかったのではなく、あえて描かなかったのである。彼らが求めたのは変化する現実ではなく、永遠に変わらない秩序であった。厳格な形式性は、その精神的願望の表れなのである。
5.ゴシック芸術と超越への憧れ
ヴォリンガーは中世ゴシック芸術にも抽象衝動の表現を見出している。ゴシック大聖堂の尖塔は天へ向かって伸び続ける。彫像は不自然に細長く引き伸ばされ、現実的な人体から離れている。これらは写実性の欠如ではなく、地上的な存在を超越しようとする精神的欲求の表現である。ゴシック芸術は自然を再現するのではなく、人間の魂が神へ向かって上昇しようとする運動を形にしている。ここでは芸術は視覚的再現ではなく、精神的運動の表現になっている。
6.近代芸術への架け橋
本書が後世に与えた最大の影響は、抽象芸術を理論的に正当化した点にある。十九世紀までの美術史では、写実から離れることは退歩と考えられていた。しかしヴォリンガーは、抽象芸術にも独自の心理的・精神的必然性があることを示した。この考え方は二十世紀初頭の芸術家たちに大きな解放感を与えた。カンディンスキーやモンドリアン、マレーヴィチらは、もはや自然を再現する必要はないという理論的根拠を得た。その意味で本書は、抽象芸術が誕生する直前に現れた最も重要な理論書であった。
本書が言いたかったこと
芸術の歴史とは写実技術の進歩の歴史ではなく、人間精神が世界とどのように向き合ってきたかの歴史である。人間が自然と調和していると感じる時には感情移入に基づく写実芸術が生まれる。しかし世界を不安や混乱の源として経験する時には、人間は永遠で不変な秩序を求め、抽象芸術を生み出す。抽象と写実は優劣の関係ではなく、人間精神の異なる応答である。ヴォリンガーは、抽象芸術を未熟な芸術や特殊な芸術としてではなく、人類に普遍的に存在する根源的欲求の表現として捉えた。人間は単に自然を模倣する存在ではなく、混沌とした世界の中に秩序や永遠性を見出そうとする存在である。この思想は二十世紀抽象芸術の哲学的基礎となり、後の近代美術全体に決定的な影響を与えることになった。
