画商の想い出

Souvenirs d’un marchand de tableaux
1937年刊
Ambroise Vollard著

アンブロワーズ・ヴォラールの経歴

アンブロワーズ・ヴォラール(1866-1939年)は、フランス領レユニオン島に生まれ、ヴェルサイユで没した画商である。ブルジョワ家庭に育ち、法律を学ぶためフランス本土へ渡ったが、次第に美術への関心を強め、法律家への道を捨てて画商となった。1890年頃からパリで近代絵画を扱い始め、ラフィット街6番地に画廊を開いた。ヴォラールの名を一躍有名にしたのが、ポール・セザンヌの大規模な個展である。当時セザンヌは画家仲間からは高く評価されながら、一般市場では十分な地位を確立していなかった。ヴォラールは約150点を集めて展覧会を開き、大きな危険を負ってセザンヌを世に問うた。この展覧会は成功し、セザンヌの評価を決定的に高める契機となるとともに、ヴォラール自身をパリ有数の画商へ押し上げた。その後ヴォラールはゴーギャン、ルノワール、ドガ、ボナール、ルドン、マイヨール、ルオー、マティス、ピカソなど、近代美術史を代表する芸術家たちと関係を結んだ。その後ゴーギャン展、若きピカソのパリでの重要な展覧会を開催する。単に既に評価された作品を販売するのではなく、まだ評価の定まらない芸術家を市場へ送り出す役割を果たした。ヴォラールは単なる絵画商ではなく、美術出版の革新者でもあった。画家に版画や挿絵を依頼し、文学と美術を融合した豪華な画家の本を制作した。こうしてヴォラールは、画家から作品を買って顧客へ転売する旧来型画商から、芸術家を発見し、育て、展覧会を企画し、作品を出版し、最終的には美術史の形成に関与する近代的画商への転換を象徴する人物となった。

本書の内容

1.画商になるまで

本書は体系的な美術市場論ではなく、ヴォラール自身が半世紀近くに及ぶ美術界での経験を、人物、事件、逸話を中心に回想した自伝的作品である。若きヴォラールがパリへ出て法律を学びながら、次第に美術品の魅力に取りつかれ、遂には画商として生きるようになる過程から物語は始まる。当初から豊富な資本や名門画廊の看板を持っていた訳ではない。作品を見て、画家を訪ね、売れるかどうか分からない絵を買い、自分自身の眼を頼りに商売を作り上げていく。この部分から浮かび上がるのは、画商とは完成した価値を売る職業ではなく、まだ誰も確信していない価値に自ら賭ける職業だということである。

2.セザンヌとの出会い

本書で最も重要な人物の一人がセザンヌである。今日では近代絵画の父と呼ばれるセザンヌも、ヴォラールが彼に接近した時代には、その価値が社会的に確立していた訳ではなかった。ヴォラールは作品を集め、1895年に大規模なセザンヌ展を開催する。画商の仕事とは、既に有名だから売るのではなく、まだ有名ではないが重要だと信じて、その評価が成立する場所を作ることである。結果としてセザンヌの評価上昇はヴォラールの成功にもつながり、芸術的価値と市場価値が相互に形成されていく。

3.巨匠たちの素顔

本書の魅力は、今日では美術史の教科書に載る巨匠たちが、生身の人間として登場する点にある。彼らは気難しく、金銭に困り、他の画家を批判し、画商と交渉し、時には嫉妬し、冗談を言う。ヴォラールは芸術家を神格化するのではなく、自分が実際に会った人間として描いている。そのため本書を読むと、近代美術史が印象派の後にポスト印象派が現れ、その後フォーヴィスムやキュビスムが登場したという抽象的な様式史ではなく、画家、画商、批評家、コレクターが互いにぶつかり合いながら形成した人間の歴史として見えてくる。

4.若きピカソとの遭遇

ピカソとの出会いも、本書を代表する場面である。ヴォラールは1901年頃、まだ二十歳そこそこだったスペイン人ピカソが、多数の作品を携えて展覧会を求めて訪ねてきたことを回想している。実際、1901年にヴォラールの画廊でピカソの展覧会が開催された。ここで興味深いのは、後世の読者には天才ピカソとの歴史的出会いと見える出来事が、その時点では将来の保証されていない若者との出会いにすぎなかったことである。ヴォラールの回想を読む面白さはここにある。我々は結果を知っている。しかし画商は結果を知らない時点で決断しなければならない。画商に必要なのは美術史の知識だけではなく、未来の美術史を予測する能力である。

5.画家と画商

本書には画家との価格交渉、作品の仕入れ、展覧会、コレクターとの関係などが繰り返し登場する。そこから分かるのは、画家と画商の関係が単純な売り手と買い手ではないということである。画家には制作能力がある。しかし作品を社会へ送り出し、コレクターに見せ、展覧会を開き、価格を形成し、作品を保存し、後世へ伝えるためには別の能力が必要になる。ヴォラールはこの領域を担った。芸術を理解しながら商売を行い、商売をしながら芸術史を作った。

6.画商ヴォラールの奇妙な商売術

ヴォラール自身も非常に特異な人物であった。画廊で居眠りをしたり、客が求める作品を素直に見せなかったり、重要作品を店の奥に隠していたりした。現代の営業理論から見れば、優秀な販売員とは到底思えない。しかし膨大な作品を所有し、急いで売るのではなく、作品と顧客を自分の判断で結び付けることで独特の立場を築いた。これはヴォラールの画商観を理解する上で重要である。彼にとって画商は顧客の注文通りの商品を提供する販売業者ではない。何が重要な芸術なのかについて、自ら判断する主体でもあった。

7.画家に描かれた画商

ヴォラール自身がセザンヌ、ルノワール、ボナール、ピカソなど多数の画家のモデルとなったことも、本書の興味深い部分である。セザンヌの肖像制作では、ヴォラールは長時間ほとんど動かずに座らなければならなかった。一方、ルノワールの場合は会話や動くことも比較的自由であり、ボナールは居眠りしやすいヴォラールを起こしておくため猫を膝に乗せたという逸話まで残っている。こうした肖像群は単なる画商の記念肖像ではない。ヴォラールという一人の人物を通して、セザンヌ、ルノワール、ピカソらの人物表現の違いを見ることができる。画商自身が近代美術の実験場になったともいえる。

8.芸術と価格

本書を読むと、美術品の価値は誰が決めるのかという問題が浮かび上がる。画家が傑作を描いただけでは市場価値は成立しない。画商が作品を発見し、展覧会を開催し、批評家が論じ、コレクターが購入することによって評価が形成される。その評価が蓄積され、最終的には美術館や美術史がそれを制度化する。ヴォラール自身が理論としてこの仕組を説明している訳ではない。しかし彼の回想を通して、芸術的価値が社会的価値、歴史的価値、市場価値へ転換されていく現場を見ることができる。

本書が言いたかったこと

本書は、成功した画商が自分の商売の秘訣を語った本ではない。むしろ、芸術の価値は最初から社会に認められている訳ではなく、それを信じる人間によって発見され、世に送り出され、時間をかけて歴史となっていく。偉大な芸術家が存在するだけでは、美術史は成立しない。作品を発見する者、それを購入する者、展覧会を開く者、批評する者、収集する者が必要である。ヴォラールはその結節点に立っていた。しかも重要なのは、ヴォラールが後世の評価を知っていた訳ではないことである。彼がセザンヌや若きピカソを扱った時、彼らが後に美術史上最大級の巨匠になる保証などなかった。画商とは、現在の価格を見る人間ではなく、まだ価格になっていない価値を見抜き、自分の資金と信用を賭けて未来の評価を先取りする人間である。ヴォラールの生涯が教えるのは、優れた画商とは芸術作品を売る人ではなく、芸術家を発見し、作品と社会を結び、最終的には美術史を形成する人である。

未来の輪郭