絵画の方法

絵画の方法
1994年刊
宇佐美圭司著

宇佐美圭司の経歴

宇佐美圭司(1940–2012年)は戦後日本を代表する現代画家である。1960年代以降、日本の前衛美術運動の中で独自の抽象絵画を展開し、記号、身体、空間、言語などの問題を横断しながら絵画の可能性を追究した。画家として活躍する一方、絵画論、心象芸術論、二〇世紀美術、絵画空間のコスモロジーなど数多くの理論書を執筆し、日本では数少ない制作と思索を高度に統合した画家として知られている。本書は、その長年の制作経験と理論的探究を集大成した重要な著作であり、単なる技法書ではなく、絵画という行為を根底から問い直した思想書である。

宇佐美圭司
山々は難破した舟に似てNo.2
宇佐美圭司
アテネの学堂

本書の内容

1.方法とは技法ではなく思考である

本書の冒頭で宇佐美は、方法という言葉を一般的な技術論の意味では用いていないことを明確にする。通常、絵画の方法と言えば遠近法や構図法、色彩理論や描画技術を指す。しかし宇佐美にとって方法とは、画家が世界をどのように認識し、それをどのような構造として画面に成立させるかという思考そのものである。したがって本書はどう描くかを説明する実用書ではない。なぜ描くのか、絵画とは何か、絵画はどのように世界を成立させるのかという問いを追究する哲学的考察として始まる。

2.絵画と世界認識

宇佐美は、絵画を単なる視覚的再現装置として捉えない。彼によれば、絵画とは世界を再現するものではなく、世界を再構成する行為である。私たちは現実を見ているようでいて、実際には文化、言語、記憶、経験によって形成された認識を通じて世界を理解している。画家はその認識の仕組を問い直し、新たな世界像を構築する。その意味で絵画は自然の模写ではなく、人間の認識構造を可視化する行為である。

3.近代絵画の変革

本書では十九世紀末から二十世紀にかけての絵画革命が詳細に論じられる。印象派によって絵画は客観的再現から知覚の表現へ移行した。セザンヌは視覚の構造を問い、キュビスムは複数の視点を導入することで空間概念を変革した。宇佐美はこうした流れを単なる様式変化としてではなく、人間の認識の変化として理解する。モダニズム絵画とは、何を描くかではなく、見るとはどういうことかを問い続けた歴史である。

4.抽象絵画の意味

宇佐美は抽象絵画についても深く論じている。彼は抽象を具象の否定とは考えない。抽象とは対象を排除することではなく、対象の背後にある構造や関係性を明らかにする方法である。カンディンスキーやモンドリアンの仕事を参照しながら、抽象絵画は現実から離れるのではなく、むしろ現実の深層へ向かう試みであると説明する。絵画が目指すべきものは対象の模写ではなく、世界を成立させている原理そのものである。

5.記号と形態

宇佐美自身の作品とも深く関わるのが、記号と形態の問題である。現代社会は言語や記号によって構成されている。しかし絵画は言葉では表現できない領域を扱う。画家は記号的意味を超えたところで形態を作り出し、新しい知覚体験を生み出さなければならない。そのため絵画は文学とも哲学とも異なる独自の思考形式として存在する。

6.身体と絵画空間

本書では身体性についても重要な議論が展開される。絵画を見るという行為は単なる視覚体験ではない。観る者の身体全体が空間を経験する行為である。巨大な絵画作品の前に立つとき、私たちは画面を眺めるだけではなく、その空間に包み込まれるような感覚を持つ。宇佐美は絵画空間を静止した平面ではなく、身体と相互作用する生きた場として理解している。

7.二十世紀美術への批判的考察

本書ではデュシャン以後の現代美術についても論じられている。宇佐美は概念芸術やインスタレーションの意義を認めながらも、絵画が依然として独自の可能性を持っていると考える。二十世紀後半には絵画の死が何度も宣言された。しかし彼はむしろ、そうした危機を経ることで絵画は新たな意味を獲得してきたと主張する。絵画は過去の遺物ではなく、現代においてもなお世界認識の方法として有効である。

8.創造行為としての絵画

終盤では、創造とは何かという根本問題が扱われる。創造とは無から何かを作り出すことではない。既存の世界を新たな関係性の中で再編成し、それまで見えなかった意味を発見することである。画家は世界を描くのではなく、世界を生成する。絵画は完成された答えを示すものではなく、新たな問いを生み出す装置である。

本書が言いたかったこと

絵画とは単なる視覚表現や技術ではなく、人間が世界を理解するための根源的な思考方法である。宇佐美は、絵画を再現芸術としてではなく、認識と存在を問い直す知的営みとして捉えた。抽象や具象、伝統や前衛といった対立を超えて、絵画は常に世界の新しい見方を創造し続ける。そのため画家の仕事とは対象を写すことではなく、世界の構造を発見し、それを新たな形として提示することである。本書は技法書の形を取りながら、実際には絵画哲学の書である。宇佐美は絵画を通じて、人間の知覚、身体、言語、空間、存在を問い直そうとした。絵画とは、世界を再現するためではなく、世界を新たに生成するための方法である。

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