米国の外国政権介入と政権転覆

2026年9月25日

目次

外国干渉国家・米国

第二次世界大戦後、米国は冷戦期の反共政策、石油・安全保障上の利益、民主化、人道、テロ対策など、時代ごとに異なる理由を掲げ、外国政府の交代を目的とする介入を繰り返してきた。CIAが直接クーデターを組織した事例もあれば、反政府勢力を秘密支援した事例、現地軍の政変を支援した事例、米軍が直接侵攻して政権を倒した事例もある。

1.イラン-モサデク政権転覆
1953年
1951年、イラン首相モハンマド・モサデクは、英国系アングロ・イラニアン石油会社が支配していた石油産業を国有化した。英国と対立する中、米国アイゼンハワー政権は、イランが政治的混乱を通じてソ連側へ傾くことを警戒した。1953年、CIAは英国情報機関と協力してTPAJAX作戦を展開し、反モサデク勢力への資金提供、宣伝工作、政治家・軍人への働きかけなどを行った。8月の政変によってモサデクは失脚し、国外に逃れていた国王モハンマド・レザー・パフラヴィーが復権した。その後、国王は親米的な権威主義体制を強化した。1953年政変は、現在に至るイランの対米不信を理解する上で重要な歴史的事件である。

2.グアテマラ-アルベンス政権転覆
1954年
民主的選挙で成立したハコボ・アルベンス政権は大規模な農地改革を進め、未利用地を接収して農民に分配しようとした。この政策は米国企業ユナイテッド・フルーツの土地にも及んだ。アイゼンハワー政権は、グアテマラで共産主義勢力の影響が拡大することを警戒し、CIAにPBSUCCESS作戦を実行させた。CIAはカルロス・カスティージョ・アルマス率いる反政府部隊を訓練・支援し、心理戦、秘密宣伝、外交・経済圧力を展開した。CIA契約パイロットによる空爆も行われ、米国が大規模介入するとの印象がグアテマラ軍内部に広がった。1954年6月、軍の支持を失ったアルベンスは辞任し、最終的にカスティージョ・アルマスが大統領となった。

3.コンゴ-ルムンバ排除とモブツ支援
1960-65年
1960年にベルギーから独立したコンゴでは、首相パトリス・ルムンバが国内危機への対応でソ連に援助を求めたため、アイゼンハワー政権はコンゴがソ連陣営に入ることを警戒した。米政府は同年8月、ルムンバを権力から排除し、親西側勢力に置き換える秘密政治工作を開始した。CIAは反ルムンバ勢力に資金を提供し、宣伝工作を行い、ルムンバ暗殺計画まで検討した。ルムンバは最終的には米国ではなくコンゴ側の敵対勢力によって1961年に殺害されたが、米国はその後も親西側政治家やジョゼフ・モブツを秘密裏に支援した。モブツは1965年のクーデターで権力を掌握し、その後約30年間にわたる権威主義体制を築く。ルムンバ排除と親米政権形成を目的とした秘密工作である。

4.キューバ-カストロ政権転覆工作
1960-62年
1959年のキューバ革命によってフィデル・カストロ政権が成立すると、米国との関係は急速に悪化した。1960年3月、アイゼンハワー大統領はCIAにカストロ政権転覆計画の策定を指示した。CIAは亡命キューバ人を訓練・武装し、ケネディ政権発足後の1961年4月、約1,400人規模の部隊がピッグス湾に上陸した。しかし作戦は失敗し、カストロ政権はむしろ強化された。その後ケネディ政権はマングース作戦を開始し、反政府宣伝、破壊工作、反カストロ武装勢力への支援などによって政権を不安定化させようとした。カストロ暗殺を含む構想も検討されたが、最終的に失敗し、カストロ政権を権力から排除することができなかった。

5.ブラジル-ゴラール政権と軍事クーデター
1964年
ジョアン・ゴラール大統領は土地改革、外国企業規制などの基礎改革を進め、米国のジョンソン政権はブラジルの左傾化を警戒した。1964年3月末にブラジル軍部がゴラール政権に対して蜂起すると、米政府は反ゴラール勢力を支援する準備を進めた。ブラザー・サム作戦では、石油を積んだタンカー、空母を含む海軍部隊、弾薬・装備を積載した輸送機などを準備し、必要なら反政府軍を支援する態勢を整えた。実際にはゴラールが抵抗せず国外へ逃れたため、本格的な米軍支援は不要となった。ジョンソン政権がゴラール失脚を歓迎し、クーデター勢力を支援する具体的軍事準備を行っていたことは機密解除された。

6.インドネシア-スカルノ失脚とスハルト台頭
1965-67年
1965年、インドネシアで9月30日運動と呼ばれる軍内部の事件が発生し、スハルト将軍率いる陸軍が共産党PKIとその支持者に対する大規模な弾圧を開始した。数十万人が殺害され、その後スカルノ大統領は政治的実権を失い、スハルト体制へ移行した。米政府はインドネシア陸軍によるPKI壊滅を支持し、共産党指導者が殺害されていることを把握しながら、陸軍側への支援を続けた。

7.チリ-アジェンデ政権への秘密工作
1970-73年
1970年、社会主義者サルバドール・アジェンデが選挙で大統領となると、ニクソン政権はチリの社会主義化を阻止する政策を採った。CIAは反アジェンデ政党、新聞・ラジオなどのメディア、民間組織に秘密資金を提供し、政権内部の対立を拡大する政治工作を実施した。ニクソンはCIAにアジェンデの就任阻止・クーデター促進を秘密裏に指示していた。1973年9月11日、アウグスト・ピノチェトら軍部がクーデターを起こし、アジェンデは死亡した。米国はアジェンデ政権を弱体化させ、反政府勢力が活動できる政治環境を長期間にわたって支援した。

8.アフガニスタン-ムジャヒディン支援
1979-89年
1979年12月にソ連軍がアフガニスタンへ侵攻すると、カーター政権はパキスタンを経由して反ソ連武装勢力ムジャヒディンへの秘密軍事援助を開始した。レーガン政権はこれを大幅に拡大し、アフガニスタンをソ連にとって高コストの戦場にする政策を進めた。武器、資金、訓練支援がパキスタン情報機関ISIなどを通じて供給され、1980年代後半には携帯式対空ミサイルなども投入された。米国は1979年のアフガニスタン革命を起こした訳ではないが、ソ連占領下の親ソ政権を打倒しようとする反政府勢力を支援した。1989年にソ連軍は撤退したが、その後も内戦は続き、国家崩壊とタリバン台頭へつながる複雑な過程に入った。

9.ニカラグア-コントラ政権転覆工作
1981-90年
1979年、サンディニスタ民族解放戦線がソモサ独裁政権を倒すと、レーガン政権はニカラグアがソ連・キューバ陣営の拠点になることを警戒した。CIAはホンジュラスなどを拠点とする反政府武装勢力コントラに資金、武器、訓練を提供した。1982年には米議会が、サンディニスタ政府転覆を目的とする資金使用を制限したが、レーガン政権は支援継続を追求した。CIAがニカラグア港湾の機雷敷設に関与したことも大きな問題となった。更に議会の制限を迂回して、イランへの秘密武器売却代金をコントラへ流したイラン・コントラ事件が発覚した。国際司法裁判所は1986年、米国によるコントラ支援や機雷敷設などについて国際法違反を認定した。最終的には軍事的政権転覆ではなく、長期内戦と経済危機を経て1990年の選挙でサンディニスタが敗北した。

10.パナマ-ノリエガ政権打倒
1989年
1980年代末、米国とパナマの実力者マヌエル・ノリエガとの関係は急速に悪化した。ノリエガは長年CIAなどと協力関係を持っていたが、麻薬取引疑惑、選挙をめぐる問題、米国との対立が深まり、ブッシュ政権は退陣を要求した。1989年12月20日、米軍はジャスト・コーズ作戦を開始してパナマへ侵攻した。ここでは米軍が直接外国領土へ侵入し、事実上その政権を倒した。ノリエガはバチカン大使館へ逃れた後に投降し、米国へ移送され、麻薬関連犯罪で裁判を受けた。一方、米国が支持していたギジェルモ・エンダラが大統領として就任した。米政府は米国民とパナマ運河の保護、民主主義の回復、ノリエガ逮捕などを介入理由として掲げたが、外国への武力介入の合法性をめぐって国際的な批判が生じた。

11.アフガニスタン-タリバン政権打倒
2001年
2001年9月11日の米同時多発テロ後、ブッシュ政権はアルカイダ指導者ウサマ・ビンラディンを保護していたタリバン政権に対し、アルカイダ指導部の引き渡しなどを要求した。10月、米国は英国などとともに軍事作戦を開始し、CIAと米特殊部隊は反タリバン勢力である北部同盟を支援した。空爆と地上部隊の進撃によってタリバン政権は短期間で崩壊し、米国の支援を受けた新しい政治体制が形成された。その後、米国はテロ組織の排除だけでなく、民主的国家制度、治安機構、軍隊の建設などへ目的を拡大し、約20年間に及ぶ国家建設に関与した。しかし2021年の米軍撤退とともにタリバンが再び全国を掌握した。この事例は、軍事力による政権転覆には成功しても、長期的に安定した政治体制を外部から構築することの困難さを示す代表例となった。

12.イラク-サダム・フセイン政権打倒
2003年
2003年3月20日、米国のジョージ・W・ブッシュ政権は英国などとともにイラクへ侵攻した。政権はサダム・フセイン政権が大量破壊兵器を保有していること、国連決議に違反していることなどを主要な根拠として軍事行動を正当化した。米英軍は短期間でバグダッドを制圧し、サダム政権は崩壊した。ところが、戦争の主要な根拠となった大量破壊兵器は発見されなかった。米国はその後、連合国暫定当局(CPA)を設置し、旧イラク軍の解体やバアス党員の公職追放など、大規模な国家制度再編を実施した。しかし国家機構の急速な解体は政治的空白を生み、武装反乱、宗派対立、アルカイダ系勢力の拡大などが深刻化した。2003年のイラク戦争は、第二次大戦後の米国による体制転換を目的とした軍事介入を考える上で最も重要な事例の一つである。

13.イラン-現体制への軍事圧力
2026年2月-現在
2026年2月28日、米国とイスラエルはイランに対する大規模軍事作戦を開始し、最高指導者アリー・ハメネイを含む政権・軍事中枢を攻撃した。トランプ大統領は攻撃後、イラン国民に自国を取り戻す機会だとの趣旨を述べ、政権交代にも公然と言及したため、軍事作戦には体制転換を促す側面があるとの見方が強まった。一方、米政府が掲げた作戦目的は、イランの核兵器保有阻止、弾道ミサイル能力と海軍力の破壊、国外武装勢力への支援能力の遮断である。戦争はその後も長期化し、9月現在、米国はイランへの経済的孤立を要求する一方、イランは軍事圧力と封鎖の緩和を条件にホルムズ海峡再開と外交交渉への意思を示している。軍事攻撃による体制弱体化と政権交代への期待が表明されたものの、最終的な政治的帰結がまだ確定していない。

英国の外国干渉(付記)

英国の場合、米国とは少し性格が異なる。20世紀前半には帝国・植民地支配を背景として、外国政府や保護国の君主を直接動かすことが多く、第二次大戦後はMI6による秘密工作、現地勢力への武器・資金援助、特殊部隊、同盟国との共同軍事介入へと手法が変化した。

1.エジプト-ファルーク国王への強制介入
1942年
第二次世界大戦中のエジプトは形式上独立国であったが、英国軍が駐留し、英国は政治に強い影響力を保持していた。1942年、北アフリカでドイツ軍が迫る中、英国はファルーク国王周辺の親枢軸的傾向を警戒し、親英的で大衆的基盤を持つワフド党のムスタファ・ナハスに組閣させるよう要求した。2月4日、英軍は戦車と兵士でカイロのアブディーン宮殿を包囲し、駐エジプト英国大使マイルズ・ランプソンは国王に、ナハスを首相に任命するか退位するかを迫った。ファルークは屈服してナハスを首相に任命した。これは政権を倒したクーデターではないが、外国軍が武力を背景として独立国の首相人事を事実上決定した典型的な政権介入である。

2.イラン-モサデク政権転覆
1953年
1951年、モハンマド・モサデク首相は英国のアングロ・イラニアン石油会社が事実上支配していた石油産業を国有化した。英国は経済制裁と外交圧力を加えたがモサデクを屈服させられず、やがて政権転覆へ政策を転換した。英国は1952年の段階で米国にモサデク排除のクーデターを提案していた。チャーチル政権とMI6は米CIAと協力し、軍人、政治家、王党派などへの秘密工作を進めた。1953年8月、モサデクは失脚し、国王パフラヴィーの権力が強化された。一般にはCIAのクーデターと呼ばれることが多いが、英国は石油国有化によって直接的な権益を失う当事国であり、むしろ米国に政権転覆を働きかけた重要な発案・推進主体であった。

3.エジプト-ナセル政権転覆スエズ戦争
1956年
1956年7月、エジプト大統領ガマール・アブデル・ナセルがスエズ運河会社を国有化すると、英国のアンソニー・イーデン政権はこれを中東における英国の影響力と石油輸送への重大な挑戦と受け止めた。英国はフランス、イスラエルと秘密協議を行い、イスラエルがシナイ半島へ侵攻した後、英仏が停戦と運河保護を名目に軍事介入するシナリオを作成した。軍事的には英仏イスラエル軍が優勢であったが、米国、ソ連、国連の強い反対と金融圧力によって英国は撤退を余儀なくされた。ナセル政権は逆に政治的威信を高め、イーデンは翌1957年に辞任した。これは英国が軍事力による外国指導者の排除を試みながら、国際政治上の圧力によって失敗した代表例である。

4.シリア-反政府クーデター工作
1956年
スエズ危機とほぼ同時期、英国はシリアでも政権転覆工作を検討していた。冷戦下でシリア政府がソ連との関係を深め、アラブ民族主義が拡大すると、ロンドンはシリアを中東における西側の戦略的脅威と見るようになった。MI6はCIAと連携し、1956年にシリア政府を倒す秘密計画に関与していた。反政府軍人を利用して政権を転覆し、西側に協力的な政府を成立させようとする構想であった。しかしスエズ戦争の勃発などによって計画は実行段階で頓挫し、政権転覆には至らなかった。この事例は、英国の中東政策が公然たる外交や軍事介入だけではなく、MI6を通じた秘密工作を併用していたことを示している。イラン1953年が成功例なら、シリア1956年は失敗・未遂例として対照的である。

5.オマーン-イマーム排除とスルタン支配確立
1955-59年
当時のマスカット・オマーンでは、沿岸部を支配するスルタンと、内陸部で自治的権力を持つイマーム勢力が並存していた。石油利権と湾岸の戦略的重要性を重視する英国はスルタン側を支援し、1955年には英国の援助を受けたスルタン軍が内陸部へ進出した。1957年に反乱が再燃すると英国は軍事介入を強化し、RAFによる攻撃や英軍・特殊部隊の投入を通じてスルタン側を支援した。1955年の蜂起で英国の支援を受けたスルタン軍がイマームを排除した。最終的に1959年までに反乱勢力は敗北し、内陸部のイマーム体制は消滅した。英国は軍事力を用いてオマーン国内の政治秩序を変更し、親英的なスルタンの全国支配を確立した重要な事例である。

6.北イエメン-王党派への秘密支援
1962-67年
1962年、北イエメンで軍人による革命が起こり、イマーム制が倒されてイエメン・アラブ共和国が成立した。エジプトのナセル政権は共和派を大規模に軍事支援したが、英国は革命政権が隣接する英国支配下のアデンに革命思想を波及させることを警戒した。そのため英国は表向き不介入を掲げながら、旧王制復活を目指す王党派を秘密裏に支援した。英国は1962-65年に秘密工作を行い、民間軍事要員・傭兵の活動を黙認・支援し、サウジアラビアやイスラエルとも協力関係を形成した。目的は必ずしもイエメン全土を直接支配することではなく、王党派を利用してナセルのエジプト軍を消耗させ、英国のアデン権益を守ることにあった。最終的には王制復活には失敗したが、外国の内戦勢力を秘密裏に支援して敵対政権を弱体化させる、後の代理戦争に近い英国の代表的事例である。

7.シャルジャ-サクル首長の排除
1965年
現在のUAEを構成するシャルジャは当時、英国と条約関係を結んだ休戦国の一つであり、外交・安全保障面で英国の強い影響下にあった。1965年、英国はシャルジャ首長サクル・ビン・スルターン・アル=カシミを排除し、英国の政策に協力的なハーリド・ビン・ムハンマドを後継者として支持した。1965年から1970年にかけて英国外務省は湾岸で三件の政変(シャルジャ、アブダビ、オマーンの支配者交代)に深く関与した。その背景には石油、軍事拠点、湾岸秩序の維持、英国の助言を受け入れる統治者を確保するという目的があった。これはCIA型の大規模秘密作戦とは異なり、英国が長年構築してきた保護国的関係と現地支配層への影響力を利用して統治者を交代させる方式であった。大英帝国末期の湾岸支配の実態を象徴する事例である。

8.アブダビ-シャフブート首長の排除
1966年
1960年代、石油収入が急増し始めたアブダビでは、首長シャフブート・ビン・スルターンが石油収入を積極的な国家開発に使用することに慎重であり、英国政府との間で摩擦が生じていた。英国は弟ザーイド・ビン・スルターンを、近代化に積極的で英国とも協力可能な統治者と評価した。1966年8月、王族内部の合意を背景にシャフブートが退位させられ、ザーイドが首長となった。英国はこの支配者交代を政治的・実務的に後押しした。英国は1965年のシャルジャ、1966年のアブダビ、1970年のオマーンという三つの支配者交代を組織した。ザーイドはその後1971年に成立したアラブ首長国連邦の初代大統領となり、国家建設を主導した。結果的な成功とは別に、外国が自国の戦略的利益から統治者交代に関与した事例として位置づけられる。

9.オマーン-カブース国王宮廷クーデター
1970年
1970年のオマーンでは、保守的なサイード・ビン・タイムール国王の統治下で近代化が遅れ、南部ドファールでは左翼革命勢力の反乱が拡大していた。英国は、サイードでは反乱を鎮圧できず、オマーンが南イエメンなどの革命勢力の影響下に入る危険があると判断した。1970年7月23日、息子カブースが父を退位させて国王となった。長くカブース自身による宮廷革命と説明されてきたが、計画・実行に英国が深く関与し、国防省も承認していた。退位したサイードは英空軍機で英国へ送られた。カブースはその後、英国の軍事支援を受けながらドファール反乱を鎮圧し、国家近代化を進めた。英国が安全保障上の理由から、親密な外国君主をより統治能力の高い後継者に取り替えた、極めて明瞭な政権交代介入の一例である。

10.アフガニスタン-タリバン政権崩壊
2001年
2001年9月11日の米同時多発テロ後、米国はタリバン政権にウサマ・ビンラディンの引き渡しとアルカイダ排除を要求した。タリバンが応じなかったため、10月に米国主導の不朽の自由作戦が開始され、英国は主要同盟国として軍事作戦に参加した。英軍は米軍などとアルカイダ訓練施設への攻撃を開始し、英海兵隊はバグラム飛行場確保などにも投入された。11月にはタリバンがカブールから撤退し、12月には最後の主要拠点カンダハルも失った。その後ボン会議を通じて非タリバン勢力を中心とする暫定統治体制が構築された。英国単独による政権転覆ではなく、9・11後の米国主導の国際軍事作戦への参加である。2021年にはタリバンが復権し、20年間に及ぶ西側諸国の国家建設政策の限界が明らかとなった。

11.イラク-サダム・フセイン政権打倒
2003年
2003年、トニー・ブレア政権は米国のブッシュ政権とともにイラク戦争に参加した。英米両政府は、サダム・フセイン政権が大量破壊兵器を保有し、国連決議に違反していることなどを軍事行動の根拠とした。3月に侵攻が開始され、英軍は主としてイラク南部で作戦を展開し、バスラを占領した。サダム政権は短期間で崩壊したが、戦争の主要な根拠とされた大量破壊兵器の備蓄は発見されなかった。政権崩壊後には治安悪化、宗派対立、武装勢力の拡大が続いた。英国にとって、米国との特別な関係が外国の体制転換を伴う戦争への参加につながった最も重要な事例である。

12.リビア-反カダフィ勢力への軍事支援
2011年
2011年のアラブの春でリビアに反政府蜂起が発生すると、カダフィ政権は武力で鎮圧を図った。英国のキャメロン政権とフランスは、国連安保理決議1973に基づく民間人保護と飛行禁止区域の実施を主導し、NATOによる空爆を開始した。しかし軍事作戦は次第に反カダフィ勢力を直接支援する性格を強め、最終的にカダフィ政権は崩壊した。当初の限定的な民間人保護政策は体制転換という機会主義的政策へ移行したと。キャメロン政権は正確な情報に基づく一貫した戦略を欠いていたと結論づけた。カダフィ失脚後、リビアは統一された安定国家へ移行できず、東西の政治勢力、民兵、外国勢力が競合する長期的混乱に陥った。現代英国の介入政策を考える上で特に重要な事例である。

フランスの外国干渉(付記)

フランスの対外介入は、英国や米国とは異なる特徴を持つ。20世紀前半は植民地帝国の維持、第二次大戦後は旧植民地に対する政治・軍事・経済的影響力、いわゆるフランサフリックが中心となり、21世紀には国連・NATO・EUなど多国間の枠組みを利用する傾向が強まった。実際、1960-91年だけでもフランスはアフリカ16か国で30回を超える軍事介入を行った。

1.シリア-ファイサル王国の排除
1920年
第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、アラブ民族主義者はダマスカスを中心に独立国家建設を目指し、1920年3月、ファイサル・イブン・フサインを国王とするシリア・アラブ王国を成立させた。しかし英仏はサンレモ会議でシリア・レバノンをフランスの委任統治下に置くことを決定した。フランスはファイサル政府に軍の解体などを要求し、同年7月、アンリ・グロー将軍率いるフランス軍が進攻した。マイサルーンの戦いでシリア軍を破り、ダマスカスを占領、ファイサルを国外へ追放した。その後フランスはシリアを複数の政治単位に再編し、レバノンを分離して大レバノンを成立させた。これは秘密工作ではなく、帝国主義時代の軍事力によって成立直後の外国政府を直接消滅させ、自国の委任統治体制へ置き換えた事例である。

2.カメルーン-独立排除と親仏政権形成
1955-60年代
フランス委任・信託統治下のカメルーンでは、1948年に結成されたカメルーン人民同盟(UPC)が早期独立と英領カメルーンとの統一を要求した。フランスはUPCの勢力拡大を警戒し、監視、逮捕、選挙への介入などを行い、1955年にはUPCを非合法化した。これによって独立運動の一部は武装闘争へ移行し、フランス軍は大規模な掃討作戦を展開した。UPCの指導者ルーベン・ウム・ニョベは1958年に殺害された。一方フランスは、より穏健でフランスとの関係維持を重視するアマドゥ・アヒジョを支援し、1960年の独立後も軍事・政治面で新政権を援助した。植民地から独立国家へ移行する過程で、フランスが急進的独立勢力を排除し、親仏的政治秩序の形成を支えた事例と位置づけられる。

3.ギニア-セク・トゥーレ政権秘密工作
1958-60年代
1958年、シャルル・ド・ゴールがフランス共同体への参加を旧植民地に問うた際、ギニアのセク・トゥーレは唯一ノンを選択し、即時独立した。フランス政府はこれを自国のアフリカ支配への挑戦と受け止め、援助や技術者を急速に引き揚げた。更にフランス対外情報機関SDECEはペルシル作戦と呼ばれる秘密工作を実施した。当時のSDECEアフリカ部門責任者モーリス・ロベールは後年、目的がトゥーレを弱体化し、反対派による権力奪取を容易にすることだったと証言している。亡命ギニア人反政府勢力への武器供与・訓練、国内不安を生み出す工作、更に大量の偽ギニア紙幣を流通させて経済を混乱させる工作まで行われた。政権転覆には失敗したが、フランスが独立した旧植民地の政府を秘密工作によって弱体化させようとした代表例である。

4.ガボン-クーデター鎮圧と政権復活
1964年
1964年2月、ガボン軍の一部がクーデターを起こし、親仏的なレオン・ムバ大統領を拘束した。フランスのド・ゴール政権は直ちに軍事介入を決定し、空挺部隊を投入してクーデター勢力を制圧、ムバを大統領に復帰させた。これは政権転覆ではなく、逆に政変によって倒された親仏政権を外国軍が復活させた例である。独立直前のガボンはフランスと防衛、外交、経済、教育など多数の協力協定を締結しており、フランスは指導者を国内の脅威から事実上保護していた。ガボンには石油資源があり、その後もフランス企業が重要な地位を占めた。ムバ死後のオマール・ボンゴ政権とも緊密な関係が続いた。この事件は、独立後も旧植民地の政治体制を軍事力によって維持するフランサフリックを象徴する事例となった。

5.チャド-反乱鎮圧と政権介入
1968-90年代
チャドでは独立後、南部中心の政府と北部反政府勢力との対立が内戦へ発展した。1968年、フランソワ・トンバルバイ政権の要請を受けたフランスは軍事介入し、北部反乱勢力と戦った。その後も繰り返し介入し、時々の政府や政治勢力を支援した。特に1977-78年にはリビアの支援を受けた反政府勢力が首都ンジャメナへ迫ると、ジスカールデスタン大統領が軍事介入を決定し、政府崩壊を防いだ。その後、リビアのカダフィ政権との地域的対立も加わり、フランスはチャド政治の重要な外部プレーヤーとなった。特定政権を一度だけ転覆した事件ではなく、旧宗主国が数十年間にわたり軍事介入を繰り返し、国内の権力均衡そのものに影響を与え続けた典型例である。

6.中央アフリカ-ボカサ皇帝の政権転覆
1979年
中央アフリカのジャン=ベデル・ボカサは1966年にクーデターで政権を掌握し、1976年には自ら皇帝を称して中央アフリカ帝国を樹立した。当初フランスはボカサと緊密な関係を維持していたが、独裁の強化、人権侵害、リビアのカダフィへの接近などから関係が悪化した。1979年9月、ボカサが国外にいる間にフランスはバラクーダ作戦を実施し、軍を首都バンギへ投入した。ボカサを失脚させ、かつて大統領だったダヴィド・ダッコを政権に復帰させた。これはCIA型の秘密工作ではなく、旧宗主国が軍事力を用いて旧植民地の国家元首を排除し、後継指導者を事実上据えた極めて明確な体制転換介入である。

7.コモロ-政変とフランス人傭兵問題
1975-89年
コモロでは1975年の独立以降、フランス人傭兵ボブ・デナールが複数のクーデターに関与した。1978年にはデナールらがアリ・ソイリ大統領を倒し、旧大統領アーメド・アブダラを復権させた。デナールはその後、大統領警護隊を支配して政権内部に巨大な影響力を持った。1989年にアブダラ大統領が殺害されると、フランス軍約200人がコモロへ介入し、デナール勢力を排除した。政変を起こす側と秩序を回復する側の双方にフランス系勢力が登場する複雑な事例である。

8.ルワンダ-ハビャリマナ政権支援と介入
1990-94年
1990年、ウガンダを拠点とするルワンダ愛国戦線(RPF)がルワンダ北部へ侵攻すると、フランスはジュベナール・ハビャリマナ政権を軍事的に支援した。フランス軍は現地に展開し、政府軍への訓練・援助を行った。1994年4月、ハビャリマナ大統領の搭乗機撃墜後にジェノサイドが始まり、RPFが政府軍を追い詰めると、フランスは国連安保理決議929に基づいてターコイズ作戦を実施し、南西部に人道保護地域を設置した。これはフランスが革命を支援した例ではなく、親仏政権を支え、その崩壊過程でも軍事介入した、評価の分かれる重要事例である。

9.コートジボワール-バグボ政権崩壊軍事介入
2011年
2010年の大統領選挙後、現職ローラン・バグボとアラサン・ワタラの双方が勝利を主張し、深刻な政治危機と武力衝突が発生した。2011年3月、国連安保理決議1975はバグボに退陣を求め、民間人を攻撃する重火器の使用阻止を国連コートジボワール活動に認めた。フランス軍リコルヌも国連軍を支援し、バグボ側の重火器などを攻撃した。4月11日、ワタラ派部隊がバグボを拘束し、政権は完全に崩壊した。フランス側は国連決議に基づく民間人保護を介入根拠としたが、旧宗主国フランスの軍事力が最終局面で一方の政権崩壊に重要な役割を果たしたことから、フランスの旧植民地政治への影響力をめぐる議論を再燃させた。

10.リビア-カダフィ政権崩壊と軍事介入
2011年
2011年のアラブの春で反政府蜂起がリビアへ波及すると、カダフィ政権は武力で反乱を鎮圧した。サルコジ政権は反政府組織国民評議会を早期にリビア国民の正統な代表として承認し、国連安保理決議1973の成立を英国などと主導した。3月19日、フランス軍はNATO諸国に先駆けて軍事攻撃を開始した。国連決議の目的は民間人保護と飛行禁止区域の実施であり、外国軍による占領は認めていなかった。しかしNATOの航空攻撃は反政府軍の地上作戦と結合し、結果としてカダフィ政権崩壊を加速した。カダフィ失脚後には国家分裂と内戦が続き、介入後の国家建設を十分に構想しなかったことへの批判が生じた。

11.シリア-反アサド勢力政治支援
2011年以降
2011年、アサド政権に対する反政府運動が内戦へ発展すると、フランスは欧米諸国の中でも比較的早くアサド退陣を要求した。オランド政権は2012年、シリア反体制派の連合組織をシリア国民の正統な代表として承認し、政治・人道面で反政府側を支援した。フランス政府自身も、2011年の蜂起以降、シリア和平交渉で反体制派を継続的に支援してきた。その後フランス軍はイスラム国への軍事作戦にも参加したが、ロシアとイランがアサド政権を大規模に支援したため、リビアのような政権転覆には至らなかった。これはフランスが既に発生していた反政府運動に政治的・外交的支援を与え、アサド退陣を目指した事例である。

米英仏の外国干渉の根底にある思想

米英仏による外国への介入の根底には、自国の安全保障と経済的利益を守る大国の論理に加え、帝国主義・植民地主義時代から続く、自国が国際秩序を主導すべきだという意識が存在する。石油、資源、市場、軍事拠点を確保し、自国に協力的な政権を維持することが優先され、現地住民の民族自決や政治的意思は軽視される。冷戦期には反共、現代では民主主義、人権、テロ対策などが介入の根拠として掲げられてきた。これらには実際の安全保障上の懸念も存在するが、自国の利益と普遍的価値を同一視し、他国の政治体制を外部から変更できると考える姿勢には、植民地主義的な発想との連続性が認められる。歴史的に重要なのは、軍事力と経済力の優位を背景に、他国の主権や民族自決より自国の判断を優先してきた構造がある。

國井正人(文責)

歴史に関する考察

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