空間感
2011年8月刊
杉本博司著
杉本博司の経歴
杉本博司は1948年東京生まれの現代美術家・写真家である。立教大学経済学部卒業後に渡米し、ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学んだ。1974年からニューヨークを拠点として活動し、ジオラマ劇場海景建築などのシリーズによって国際的評価を確立した。写真を単なる現実の記録として扱うのではなく、時間、記憶、歴史、知覚、人間の意識といった哲学的問題を写真という媒体によって問い続けてきた作家である。杉本の活動は写真だけにはとどまらない。古美術収集、彫刻、建築、造園、茶、書、舞台芸術、伝統芸能などへと領域を広げ、2008年には建築家の榊田倫之とともに建築設計事務所新素材研究所を設立した。その名称には、コンクリートや鉄だけを新素材と考える近代建築とは逆に、石、木、漆喰、硝子など古来の素材を現代における新しい素材として再発見しようという思想が込められている。長年構想してきた小田原文化財団江之浦測候所を2017年に開館し、建築、庭園、古美術、自然、天体、時間を一つの空間へ統合する試みを具体化した。本書は写真家が外部から建築を評論した本ではない。作品を世界中の美術館に展示してきた美術家であり、自ら建築設計にも関与する杉本が、美術を見るための空間とは何かを実体験から論じた書物である。
本書の内容
1.美術館は建築家の作なのか
本書の出発点にあるのは、極めて素朴でありながら本質的な疑問である。美術館はいったい誰のためにあるのか、という問題である。20世紀後半以降、世界各地で著名建築家、いわゆるスターアーキテクトによる美術館が相次いで建設された。美術館が観光資源となり、建築家の個性を示す巨大な彫刻作品のような建物も珍しくなくなった。しかし美術家である杉本にとって、美術館は抽象的な建築作品ではない。そこは自分の作品を展示し、鑑賞者に見せなければならない実用空間でもある。そのため本書で杉本は、美術館建築を建築史上の価値だけでは評価しない。そこに作品を置いた時、本当に作品が生きるのかという、展示する側の目から建築を評価する。
2.スター建築家との攻防
第1章には象徴的にスター建築家攻防記という題が付けられている。登場するのはダニエル・リベスキンド、ミース・ファン・デル・ローエ、磯崎新、ピーター・ズントーをはじめとする著名建築家たちである。攻防という言葉には杉本らしい皮肉が込められている。建築家は建物それ自体を作品として完成させようとする。一方、美術家はその内部に自分の作品を置かなければならない。両者の美意識が一致すれば素晴らしい空間が生まれるが、建築の自己主張が強すぎる場合、展示作品と建物が競争することになる。ここに建築の芸術性が高ければ高いほど、よい美術館になるのかという逆説が生じる。杉本はスター建築家の権威に遠慮しない。美術館として使いにくければ批判し、作品と建築が響き合えば高く評価する。その姿勢には、建築界の評価基準とは異なる現代美術家独自の感覚が貫かれている。
3.ダニエル・リベスキンド
第1章冒頭のアンビルドの裏切りでは、ダニエル・リベスキンドが取り上げられる。リベスキンドは鋭角的な形態や断裂した壁面などによって、強い物語性を持つ建築で知られる。杉本がここで問題にするのは、建築が強烈な表現を持つこと自体ではない。問題は、美術館という空間において建築があまりにも強く自己主張した場合、中に置かれる美術作品が建築の装飾物になってしまう危険である。建築家にとって劇的な壁や斜めの床、変則的な空間は創造性の表現かもしれない。しかし美術家の立場からすると、作品を展示するための壁がなくなったり、作品と建築が不必要に競合したりする。杉本はここから、建築作品として成功した美術館と、美術を展示する空間として成功した美術館は必ずしも同じではないことを示している。
4.ミース・ファン・デル・ローエ
モダニズムの神殿では、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが取り上げられる。ミースの建築はLess is moreに象徴される簡潔な構造と、ガラス、鉄、石などの素材を厳密に組み合わせた空間によって知られる。杉本はモダニズムを無条件には信奉しないが、その空間が到達した純粋さには強い関心を寄せる。余計な装飾を取り払い、柱、壁、床、光の関係を極限まで単純化すると、空間が一種の精神性を帯びてくる。そこには杉本自身の写真と共通する感覚がある。海景シリーズが海と空を水平線だけで構成するように、要素を削減することによって、逆に空間の本質が浮かび上がる。
5.磯崎新
輪廻するプラトンでは磯崎新を取り上げる。杉本にとって磯崎は単なる建物の設計者ではなく、建築を思想として考える知識人である。建築とは建物を成立させる技術だけではなく、歴史、哲学、美術、都市、文明を考える方法でもある。この点は杉本自身の姿勢とも重なる。杉本の作品も、写真という技術の問題に閉じていない。人間が最初に見た海とはどのようなものだったのか時間を写真に写すことは可能なのかといった問いへ向かう。したがって杉本が建築家を見る時にも、建物の形だけではなく、その背後にどのような世界観があるのかを見ようとする。
6.ピーター・ズントー
光り溜まりで論じられるピーター・ズントーは、本書の思想を理解する上で重要な建築家である。ズントーの建築では、建築物の奇抜な形より、素材の感触、光の入り方、温度、音、歩く速度など、人間の身体によって経験される空間が重視される。これは杉本のいう空間感と極めて近い。空間は平面図や写真だけでは理解できない。そこへ入り、歩き、光の変化を経験し、壁の質感を感じ、時間を過ごした時、初めて空間が人間の内部に立ち現れる。杉本が求めているのは、視覚的に派手な建築よりも、このように身体の感覚と静かに共鳴する建築である。
7.建築は視覚だけの芸術ではない
ここから本書の題名空間感の意味が明らかになる。杉本が用いる空間感とは、単なる空間の広さや形状を意味していない。人間は空間を眼だけで知覚している訳ではない。光の強さ、足音の響き、床の感触、壁との距離、天井の高さ、空気、温度、時間、外部の景色などを身体全体で感じている。したがって建築は写真では十分に伝わらない。建築写真を見て素晴らしいと思った建物が、実際に入ってみると不快な場合もある。逆に写真では地味に見える建築が、そこに身を置くと深い感動を与えることもある。杉本は、この身体的に経験される空間の質を空間感として捉えている。
8.作品を受け入れる沈黙
本書を通して浮かび上がる杉本の美術館観は、極めて明快である。優れた美術館は、建築家の自己表現だけで成立してはならない。建築は作品を受け止める器である必要がある。しかし単なる白い箱であればよいという意味でもない。作品、建築、光、鑑賞者の身体、周囲の自然が相互に響き合うような空間が必要である。杉本の批評には、建築が作品より前に出すぎることへの警戒が繰り返し現れる。言い換えれば、優れた美術館には一種の沈黙が必要である。建築が黙ることによって、作品が語り始める。その静かな均衡こそ杉本が理想とする展示空間である。
9.日本文化における空間
第2章空間感になると、議論は海外のスター建築家批評から杉本自身の空間制作へと移っていく。杉本にとって日本の伝統空間は、西洋近代建築とは異なる原理によって成立している。日本建築では、壁によって内部と外部を完全に分離するのではなく、障子、簾、庭、縁側などによって境界を曖昧にする。更に花、布、器、光など一時的なものによって、その場の意味が変化する。空間は固定された容器ではなく、人間の行為と時間によって生成する。
10.IZU PHOTO MUSEUM
ここでは、杉本自身が空間設計に関与した経験が語られる。ここで重要になるのが導くという考え方である。建築とは展示室だけではない。入口から作品へ到達するまでの道、庭、壁、光、歩行の方向などすべてが鑑賞体験の一部となる。鑑賞者が作品の前に突然放り出されるのではなく、空間を移動する過程で徐々に意識が切り替わっていく。これは日本の茶室にも通じる考え方である。茶室だけでなく、露地を歩き、躙口を通り、外界から精神的に切り離されていく過程が茶の体験を構成する。杉本は現代美術館にも、この到達するまでの時間を取り戻そうとしている。
11.格子からの光子
写真家である杉本にとって、光は特別な意味を持っている。写真とは本来、光が感光材料に痕跡を残す現象だからである。しかし空間感では、光は写真だけでなく建築を成立させる重要な素材として考えられている。窓や格子から入った光は、時間によって方向を変え、壁や床の表情を変化させる。したがって建築は完成した瞬間に固定されるものではない。朝と夕方、夏と冬、晴天と曇天によって別の空間になる。杉本にとって優れた建築とは、そのような時間の変化を受け入れる建築である。
12.御正体
ここでは、杉本が長年取り組んできた古美術と現代美術の関係が現れる。杉本は古美術を単なる過去の遺物として扱わない。古い仏像、神像、器、建築部材などを現代の空間へ置くことによって、その物が本来持っていた精神性をもう一度浮かび上がらせる。これは美術史的分類とは異なる態度である。博物館では物は何世紀の何という作品として説明される。しかし杉本が関心を持つのは、その物を目の前にした時、人間が何を感じるかという問題である。古代と現代を時間的に切断するのではなく、同じ現在の空間で出会わせる。この考え方は後の江之浦測候所へとつながっていく杉本芸術の重要な原理である。
13.建築とは時間を設計すること
本書を読み進めていくと、空間感という題名でありながら、実は杉本が時間について考えていることに気づく。建物は空間を作る。しかし人間はその空間を時間の中で経験する。入口から歩き、庭を通り、光が移動し、作品の前で立ち止まり、再び外へ出る。そこには必ず時間がある。したがって優れた建築とは単に美しい形を作ることではなく、人間がその場所でどのような時間を経験するかを設計する。この点で建築と写真は杉本の中でつながっている。写真は時間を一枚の像として固定する芸術であり、建築は人間を時間の中で移動させる芸術である。両者は一見異なるが、人間は時間と空間をどのように知覚するのかという杉本の根源的な問いにおいて一つになる。
本書が言いたかったこと
よい建築とは何かという建築技術上の問題だけではない。杉本が本当に考えているのは、人間は空間をどのように感じるのかという問題である。現代建築ではしばしば、奇抜な外観、巨大な構造、建築家固有のデザインが評価される。その結果、美術館ですら建物が主役となり、中に置かれる美術作品が脇役になってしまうことがある。杉本はその状況に疑問を投げかける。美術館の価値は、建築家の名前や外観の斬新さだけでは決まらない。作品、光、素材、鑑賞者、自然、時間が互いを邪魔せず、むしろそれぞれの存在を強め合う場所こそ優れた空間である。そして杉本のいう空間感とは、建物を見る能力ではなく、空間の中に身を置いた時に生じる総合的な感覚である。それは視覚だけではない。歩行、距離、光、暗さ、音、素材、記憶、歴史、季節、時間までを含んでいる。この意味で空間感は建築評論であると同時に、杉本博司自身の芸術論でもある。海景で海と空だけを残し、劇場で一本の映画の時間を一枚の写真へ凝縮し、古美術と現代美術を同一空間に置いてきた杉本にとって、写真、建築、古美術、庭園は別々の領域ではない。すべては人間は時間と空間の中で何を見るのかという一つの問いにつながっている。したがって本書の核心は、建築は形を作る仕事ではなく、人間の知覚と時間を設計する仕事であるという考えにある。建築家が自分の造形を見せようとするほど、空間はしばしばうるさくなる。反対に、素材、光、自然、作品の声を受け入れながら、自らは静かに退く建築には深い空間性が生まれる。杉本が理想とする建築とは、人間に見せる建築ではない。そこへ入った人間自身の感覚を目覚めさせ、感じさせる建築である。
