スペイン絵画

The Spanish School
1909年刊
Aureliano de Beruete y Moret著

目次

著者とスペイン絵画

本書は、スペイン美術史研究の先駆者として知られるアウレリアーノ・デ・ベルエーテによって著されたスペイン絵画研究の古典的名著である。ベルエーテは1845年にマドリードに生まれ、1912年に死去したスペインの画家、美術史家、批評家である。もともとは法律と政治学を学び、政界にも関わった人物であったが、後に絵画研究へと転じ、とりわけディエゴ・ベラスケス研究の第一人者として世界的評価を得た。彼自身も画家であり、スペイン印象派の重要人物として知られるが、同時にスペイン絵画をヨーロッパ美術史の中に正当に位置づけた学者でもあった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ美術史は長らくイタリア中心、フランス中心に語られていた。その中でベルエーテは、スペイン絵画には独自の精神性と歴史的連続性が存在すると考え、それを体系的に論じた。

スペイン絵画とは、単なる地域様式ではない。そこには、カトリック信仰の強烈な宗教性、イスラム文化との長い接触、帝国としての栄光と没落、異端審問の暗い影、死と現実を凝視する独特の感覚が存在する。エル・グレコの霊的激情、リベーラの苛烈な写実、スルバランの静謐、ベラスケスの空気感、ムリーリョの民衆性、ゴヤの狂気と不安は、その巨大な精神史の中で連続している。本書は、そのようなスペイン絵画を単なる様式史ではなく、スペイン精神の表現として論じた最初期の本格研究書であり、後のスペイン美術研究の基礎を築いた重要著作である。

本書の内容

本書は、中世末期から19世紀に至るスペイン絵画の流れを時代順に辿りながら、主要画家たちの作品と精神性を論じる構成となっている。ベルエーテはまず、スペイン絵画がフランドル絵画やイタリア・ルネサンスから影響を受けながらも、やがて独自の道を形成したことを説明する。特に16世紀から17世紀にかけての黄金世紀をスペイン絵画の絶頂期として位置づけ、エル・グレコ、リベーラ、スルバラン、ベラスケス、ムリーリョらを中心に論じている。エル・グレコについては、ビザンティン的精神性とスペイン的宗教情熱が融合した特異な画家として描かれる。リベーラにおいては、肉体と苦痛の写実が強調され、スルバランでは修道院的静寂と禁欲精神が論じられる。

そして本書の中心を成すのがベラスケス論である。ベルエーテはベラスケスを、単なる宮廷画家ではなく、空気そのものを描いた画家として高く評価する。人物と背景を統合する空間感覚、視線の曖昧さ、光の自然性、絵画内部に漂う沈黙などが詳細に分析されている。ムリーリョについては、一般に流布していた甘美な宗教画家という理解を超え、セビーリャ民衆社会との関係や、宗教と日常生活の融合が指摘される。最後にゴヤへ至ることで、スペイン絵画が近代へ接続される。ベルエーテはゴヤを、旧時代の宮廷画家であると同時に、近代人の不安と暴力を描き出した最初の画家として評価している。ここにおいてスペイン絵画は、宗教的世界から近代的内面世界へと移行していく。本書全体を貫いているのは、スペイン絵画は現実を超えて人間存在を描こうとしたという認識である。本書は単なる画家解説ではなく、スペイン精神史の書として読むことができる。

スペイン絵画の特色

スペイン絵画最大の特色は、現実への苛烈な凝視にある。イタリア・ルネサンス絵画が理想的肉体美や調和を追求したのに対し、スペイン絵画は、老い、死、苦痛、貧困、沈黙といった人間存在の根源を直視した。そこには装飾的快楽よりも、精神的緊張が存在している。この特色は、宗教画に顕著に現れる。スペインの宗教画は、単なる聖書物語の描写ではない。異端審問と対抗宗教改革の時代において、宗教は現実そのものだった。スルバランの修道士像には、静寂の中に恐るべき精神集中が宿る。リベーラの聖人たちは、美化された理想像ではなく、苦痛に耐える肉体として描かれる。またスペイン絵画には、闇の表現が極めて重要である。カラヴァッジョ的明暗法を取り入れながらも、スペインではそれがさらに精神化された。闇は単なる背景ではなく、人間存在を包み込む深淵として機能する。そこでは光は救済であると同時に、死を照らす光でもある。

聖アポロニアスルバラン
スルバランの絵画
哲学者クラテース
マグダラのマリアリベーラ
リベーラの絵画
聖家族と聖アンナ
マグダラのマリア
エルグレコ受胎告知
エル・グレコの絵画

スペイン絵画には、独特の静寂がある。ベラスケスの宮廷画には、大げさな演劇性が存在しない。人物たちは静かに立ち、沈黙の中に存在している。その沈黙こそが、スペイン絵画の深みを形成している。

ベラスケス
ベラスケス
ベラスケス
ベラスケス
ベラスケスの絵画

スペイン絵画は現実の重さを描く。ベラスケスの侍女たち、ムリーリョの街の子供たち、ゴヤの民衆。彼らは理想化された存在ではない。そこには生活の疲労、時間の経過、歴史の重みが刻まれている。ゴヤに至ると、その現実感覚は近代的恐怖へ変貌する。黒い絵では、人間は理性ではなく、狂気と暴力に支配される存在として描かれる。ここにおいてスペイン絵画は、近代芸術の暗い源流となったのである。

貝殻の子供たち
貝殻の子供たち
ムリーリョ
ゴヤ
ゴヤ
ゴヤの絵画

美術史上の位置づけ

スペイン絵画の最大の歴史的意義は、人間存在の深層を絵画の主題へと押し広げた点にある。ベラスケスは、絵画を単なる再現技術から、見るとは何かを問う知的空間へ変えた。ラス・メニーナスは後のマネ、ピカソ、フーコーにまで巨大な影響を与え、近代視覚論の原点となった。ゴヤは、近代人の不安、狂気、暴力、無意識を最初に描いた。彼が切り開いた暗い人間観は、後の表現主義、シュルレアリスム、フランシス・ベイコン、更には現代映画にまで影響を与えている。スペイン絵画は、写実を単なる技巧ではなく、精神表現へ高めた。ベラスケスからアントニオ・ロペスに至る系譜では、現実描写とは単なる外見再現ではなく、存在そのものを描く行為とされている。そして何より重要なのは、スペイン絵画が美を理想化された調和だけに限定しなかったことである。老いも、闇も、死も、沈黙も、人間の苦痛もまた芸術たり得るという認識を、西洋美術史の中に深く刻み込んだ。その意味においてスペイン絵画とは、単なる国民美術ではない。それは、人間存在の極限を凝視し続けた、西洋精神史そのものである。

私のスペイン絵画(付記)

スペインの古都セビリアで今も愛されているムリーリョを模写した私の聖母子を一枚。

ムリーリョのロザリオの聖母
ロザリオの聖母
國井正人作
パステル

未来の輪郭

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