アウラからセミ・アウラへ

From aura to semi-aura
Reframing authenticity in AI-generated art
2025年刊
David Salas Espasa & Mar Camacho著

著者の経歴

ダビド・サラス・エスパサは、スペイン・タラゴナにあるRovira i Virgili Universityに所属する研究者である。本論文では研究構想を立案し、体系的文献レビューを実施するとともに、主要部分の執筆を担当した中心的な研究者である。本論文からは、AIによる芸術生成を単なる技術問題としてではなく、美学、真正性、作者性、知的財産、倫理、芸術市場などを横断する問題として研究している。マル・カマチョもRovira i Virgili Universityに所属する研究者であり、本研究では理論的枠組の構築、研究全体の方向づけ、論文の整合性の検討などを担当した。本稿は、AI技術の性能評価というより、美学・文化研究・デジタル社会研究を交差させ、AIが芸術という概念をどのように変えるのかを考察した研究である。

本論文の内容

1.ベンヤミンのアウラを問い直す

本論文の出発点は、ヴァルター・ベンヤミンが1930年代に「複製技術時代の芸術作品」で提示したアウラである。ベンヤミンにとって伝統的な芸術作品は、特定の時間と場所に存在する一回的な存在であった。たとえば画家本人が描いた一枚の絵画には、その作品がその場所に実在してきた歴史があり、その唯一性、真正性、距離感がアウラを形成する。写真や映画などの複製技術は、この一回性を弱めた。作品のイメージが大量に複製され、世界中へ流通することで、ここにしか存在しないという芸術作品の特権的性格が失われる。しかし、生成AIの登場によって問題が更に複雑になった。AIは原作品を単純に複製するのではなく、大量のデータからパターンや様式を学習し、それまで存在しなかった新しい画像を生成するからである。

2.AI作品は原作のない複製

ここで本論文はジャン・ボードリヤールのシミュラークルの考え方も援用する。従来の複製には原作品があった。モナ・リザの写真にはルーヴル美術館に存在する原画がある。しかし生成AIによる画像の場合、それと完全に一致する原画が最初から存在しない場合がある。AIは数百万、数億という画像から学習したパターンを組み合わせ、存在しなかった画像を生成する。その意味でAI芸術は、ベンヤミンが想定した原作品―複製という二項対立そのものを崩してしまう。著者たちはこの問題を、ボードリヤール的な明確な原物を持たないコピーという観点から考察している。

3.真正性とは何か

そこで問題になるのが真正性である。従来の美術では真正性は比較的理解しやすかった。たとえばこの絵はレンブラント本人が描いたという作者との物質的・歴史的連続性が作品の真正性を支える。ところがAI作品では作者が曖昧になる。プロンプトを書いた人間なのか、AIモデルを開発した技術者なのか、学習データとなった過去の芸術家なのか、作品を生成したAIなのか、それとも人間とAIの共同制作なのか。この作者性の分散によって、誰が作ったかを基礎としてきた従来の真正性概念が揺らぐのである。

4.セミ・アウラという新しい概念

この問題に対して著者たちが提示する本論文最大の特徴がsemi-aura(セミ・アウラ)である。従来のアウラを100%人間の作者に由来するものと考え、AI作品を完全にアウラのないものと考えるだけでは、現在起こっている人間とAIの共同創造を説明できない。そこで著者たちは、アウラをある・ないという二者択一ではなく、程度を持ったものとして考える。人間の芸術家が作品の意図や方向を決め、AIが生成を担当し、人間が選択、修正、編集する。この場合、完成作品は純粋な人間作品でも純粋な機械作品でもない。そこには人間の意図と機械の生成能力が融合した部分的なアウラが成立する。これがセミ・アウラである。

5.作者は一人ではなくなる

この議論はポストヒューマニズムの思想とも結び付けられる。従来の芸術観では、一人の芸術家が自己の内面から作品を生み出すという作者中心主義が強かった。しかしAIとの共同制作では、創造性は複数の主体に分散する。人間が目的を設定し、AIが候補を生成し、人間が選択し、更にAIが修正するという往復運動が成立するからである。著者はこの状況を、人間と機械に分散した作者性として捉える。したがってAI時代には作者は誰かという問いを再定義する必要がある。

6.AI作品でも人間は感動する

興味深いのは、作品の評価が作品だけで決まらないという研究結果である。本論文が検討した先行研究には、鑑賞者が作者を知らない場合、AI生成作品も人間作品と同程度に評価される場合があることを示した。またAI作品に対して肯定的な感情反応が生じる研究も報告されている。ところがこれはAIが作ったと知らされると評価が変化する場合がある。芸術の価値判断には作品の美的性質だけではなく、誰が作ったのかという情報が大きく影響している。

7.人間作品には感情の背景がある

一方、多くの人々がAI作品に違和感を持つ理由も検討される。人間の芸術作品には、その背後に作者の人生が存在する。苦しみ、恋愛、死、病気、戦争、孤独などを経験した人間が作品を制作したという事実が、鑑賞体験の一部になっている。AIは悲しそうな絵を作ることはできるが、AI自身が悲しみを経験した訳ではない。したがって鑑賞者が作品の価値を作者の生きた経験と結び付ける限り、人間作品とAI作品の間には依然として重要な違いが残る。AI作品への懐疑には感情的真正性の不足が大きく関係している。

8.AIは芸術を民主化する

しかし著者たちはAI芸術を否定的にだけ評価してはいない。従来、一定水準の絵画を制作するには長期間の技術習得が必要であった。AIによって高度な画像生成が可能になれば、専門的な描画技術を持たない人でも自分のアイデアを視覚化できる。これは創造活動への参加者を飛躍的に増加させる可能性を持つ。その意味でAIは、写真や映画がかつて芸術の社会的範囲を広げたように、創造を民主化する技術になる可能性がある。本論文が検討した研究には、人間とAIの協働が新しい創造の可能性を開き、従来のアウラに含まれていたエリート主義的側面を問い直すと評価するものもある。

9.著作権と倫理の問題

AI芸術には当然ながら深刻な問題も存在する。AIが過去の芸術家の作品を学習して新しい作品を作る場合、その学習は合法なのか。AI生成作品の著作権は誰に帰属するのか。特定の芸術家の作風を極めて正確に再現した場合、それは創造なのか模倣なのか。こうした問題によって、作者性、知的財産権、創作への報酬といった従来の制度も再設計を迫られる。本論文はこれを美学だけではなく、倫理的・法的・哲学的問題として横断的に扱っている。

10.アウラの消滅ではなくアウラの変質

ここに本論文の最も重要な転換がある。ベンヤミン的な枠組を単純に当てはめれば、デジタル化とAIによって芸術のアウラは更に消滅すると考えることができる。しかし、それだけでは現在の状況を説明できない。人間がAIを選び、指示し、何百もの生成結果から一つを選択し、修正し、作品として社会へ提示する場合、そこには依然として人間の判断と意図が存在する。したがってAI時代に起きているのは、アウラの完全な消滅というより、純粋な人間的アウラから人間と機械によるハイブリッドなセミ・アウラへの変質である。

本論文が言いたかったこと

AIが作った作品は本物の芸術か、偽物かという単純な二者択一から抜け出す必要がある。生成AI以前であれば、作者、原作品、複製という関係は比較的明確であった。しかし生成AIは、膨大な過去の作品から学びながら、明確な原作品を持たない新しい作品を作る。このためオリジナルとは何か、作者とは誰か、真正性とは何かという近代美術を支えてきた概念が揺らいでいる。そこで著者たちは、アウラが完全に存在する人間作品と、アウラが完全に存在しない機械作品という二分法ではなく、その中間にセミ・アウラを置く。この考え方の重要性は、AIを芸術家として人間と同格に扱うことにあるのではない。むしろ、人間の意図、選択、経験とAIの生成能力が結び付いた時、真正性が新しい形へ変わる可能性を示した。更にこの議論を一歩進めれば、興味深い逆説も見えてくる。AIによって美しい画像が無限に近く生成できるようになれば、希少になるのは美しい画像ではなく、一人の人間が有限な人生の時間を費やし、身体を使い、試行錯誤しながら一つの作品を作ったという事実になる。この最後の点は本論文が直接証明した結論ではなく、本論文のセミ・アウラ論から更に導き得る考察である。しかし、ベンヤミンが複製技術によるアウラの衰退を論じた約90年後、生成AIが逆説的に人間が作ったもののアウラを再発見させる可能性を考える上で、本論文は極めて示唆的な研究である。

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