Sam Szafran
1996年刊
Jean Clair著
著者とサム・シャフランの経歴
著者はフランスの美術史家ジャン・クレール(Jean Clair)である。本書はサム・シャフランの芸術を本格的に体系化した最初期の決定的モノグラフである。
サム・シャフラン(Sam Szafran)は1934年パリ生まれの画家であり、ユダヤ系ポーランド人の家庭に生まれた。第二次世界大戦期には迫害を避けるため潜伏生活を送り、家族の離散や不安定な幼少期を経験した。この原体験は、後の彼の作品における不安定な空間や内面化された迷宮的構造として深く刻印されている。戦後は独学に近い形で絵画を学び、1960年代初頭には抽象表現を試みるが、やがて具象へと回帰する。特にパステルの古典的技法を徹底的に再解釈することで独自の表現を確立した。以後、階段、温室、アトリエといった限定された主題を反復しながら、空間と視覚の問題を執拗に追究した。
本書の内容
本書においてジャン・クレールは、シャフランの芸術を単なる写実主義の系譜としてではなく、知覚と記憶の変容を描く現代的絵画として位置づけている。シャフランが活動した1960〜80年代が、ミニマリズムやコンセプチュアル・アートといった非絵画的潮流の時代であった。その中で彼は、あえて伝統的な支持体と技法(紙・パステル)に固執し、しかもそれを極限まで推し進めることで、逆説的に極めて現代的な作品を提示した。
本書は、パステル技法の再評価とその物質性、階段や室内における歪んだ遠近法、記憶と視覚の相互作用の三つの軸で構成される。シャフランの描く空間が現実の再現ではなく、精神の内部構造の投影である。また、作品の反復性についても重要な分析がなされる。階段、植物、アトリエといった主題は、単なるモティーフではなく、画家自身の存在を支える執着であり、その反復こそが作品の深度を生み出している。
サム・シャフランの絵画
シャフランの絵画の最大の特徴は、空間の不安定化にある。階段シリーズにおいては、螺旋状に歪んだ構造が観者の視覚を巻き込み、重力や方向感覚を失わせる。この空間は正確な遠近法に基づいているように見えながら、微細なズレの積み重ねによって崩壊寸前の均衡を保っている。


アトリエを描いた作品においては、内面的性格が強まる。雑然とした室内、歪んだ家具配置、入り組んだ構図は、制作の場であると同時に、画家の精神の内部を可視化したものである。

温室や植物を描いた作品では、過剰に繁茂する葉が画面を埋め尽くし、空間の奥行きを消失させる。ここでは自然は秩序ある対象ではなく、制御不能な増殖として表現される。


技法的には、パステルを層状に重ねることで油彩に匹敵する深みを生み出しつつ、同時に粉体としての脆さと柔らかさを保持している。この二重性が、シャフランの画面に独特の緊張感を与えている。
絵画史における位置づけ
サム・シャフランは、20世紀後半の美術においてきわめて特異な位置を占める画家である。彼は、抽象と概念芸術が支配的であった時代において、具象絵画を徹底的に深化させることで、別の現代性を提示した。その意味で彼は、単なるリアリズムの継承者ではない。むしろ、視覚の不確かさや記憶の歪みを描き出す点において、ポストモダン的な知覚論に接続する画家である。また、空間の歪みや心理的密度という点では、バルテュスやジャコメッティと同様に、存在の不安や孤独を空間表現へと転化した系譜に位置づけることができる。彼の独自性は、これをパステルという繊細な媒体によって実現した点にある。シャフランは、伝統技法を用いながら最も現代的な視覚体験を生み出した画家である。その作品は、絵画という形式がなお更新可能であることを証明するものであり、20世紀後半における静かな革新として評価される。
