The History of the Decline and Fall of the Roman Empire
1776–1789刊
Edward Gibbon著
エドワード・ギボンの経歴
エドワード・ギボンは1737年、イングランドの裕福な地主階級の家庭に生まれた。若くしてオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学したが、大学教育には満足せず、独学によって古典、歴史、哲学、神学を広範に研究した。ギボンは典型的な18世紀啓蒙主義の知識人であった。超自然的説明よりも、人間の政治、社会、経済、軍事、宗教などの現実的要因によって歴史を説明しようとした。この姿勢が本書全体を貫いている。27歳のギボンはローマを訪問した。後年彼自身が回想したところでは、ローマのカピトリーノの廃墟で古代ローマ帝国の衰亡を書くという着想を得た。その後長期間にわたり史料を収集し、1776年、39歳で第1巻を刊行した。第1巻は大きな成功を収め、1781年には西ローマ帝国滅亡までを扱った第2・3巻、1788年には東ローマ帝国からコンスタンティノープル陥落までを扱った残り3巻を刊行した。構想から完成まで約20年を費やした大著であった。ギボンの特徴は、膨大な一次史料を批判的に読み比べたことである。1794年、ロンドンで死去した。56歳であった。
本書の内容
1.ローマ帝国はなぜ滅亡したのか
本書の中心には、一つの巨大な問いが存在する。なぜ、世界最強の国家であったローマ帝国は滅亡したのか。ギボンはこの問題を単純に蛮族に征服されたからとは説明しない。むしろ、外部からの攻撃によって帝国が滅びる以前に、帝国内部で長期的な弱体化が進行していたことを重視する。本書は、ローマ帝国の滅亡という一事件を描いた本というより、巨大国家が数世紀をかけて徐々に統治能力、軍事力、社会的活力を失っていく過程を描いた歴史書である。
2.最盛期のローマ帝国
物語は、トラヤヌス帝からアントニヌス朝に至るローマ帝国の最盛期から始まる。ギボンはこの時代の帝国の領土、軍事力、統治制度、人口、都市、経済、交通網などを詳しく描写する。ローマは地中海世界をほぼ統一し、道路網と都市を整備し、軍団によって国境を守り、法によって広大な領土を統治した。しかしギボンの関心は、その繁栄自体ではない。これほど強大な帝国が、なぜ崩壊したのかを理解するために、まず絶頂期を描いているのである。
3.皇帝政治の不安定化
五賢帝時代が終わると、帝位継承は次第に不安定になる。皇帝が軍隊によって擁立され、また軍隊によって殺害されるようになる。政治権力を決めるものが制度ではなく軍事力になると、皇帝は国家全体より軍隊の支持を優先せざるを得なくなる。特に3世紀には皇帝が次々と交代し、内戦が頻発した。ギボンが描く重要な衰退の兆候の一つは、国家制度が権力を統制するのではなく、権力を持つ者が制度を支配するようになることである。
4.市民精神と公共精神の衰退
ギボンが重視したもう一つの要素が市民的徳である。共和政以来のローマでは、市民が国家防衛や政治に参加するという理念が存在した。しかし帝国が巨大化すると、国家運営は皇帝、官僚、軍人に委ねられていく。市民は国家を自分たちで支える主体から、帝国によって統治される住民へと変化していった。ギボンはここに、巨大帝国が抱える逆説を見る。国家が成功して巨大化すると、専門的官僚制度と軍隊が必要になる。しかし、その制度が完成するほど一般市民は国家運営から遠ざかり、国家を自ら守る意識が弱くなっていく。
5.軍隊の変質と蛮族への依存
ローマ帝国後期になると、軍隊の構成も変化する。帝国は国境地帯のゲルマン系民族を軍事力として利用するようになり、軍内部で彼らの比重が高まった。これは短期的には合理的な政策であった。広大な国境を維持するには大量の兵士が必要だったからである。しかし長期的には、帝国自身が軍事力を十分に供給できなくなり、外部集団の軍事力に依存する構造が形成された。そして西ローマ帝国では、軍事指導者自身が皇帝を左右するようになる。
6.キリスト教の台頭
本書で最も有名で、同時に最も論争を呼んだ部分がキリスト教に関する議論である。ギボンはキリスト教の拡大をローマ史の重要な転換点として扱った。コンスタンティヌス帝以降、キリスト教は帝国の中心的宗教となり、教会は巨大な社会制度へ発展した。ギボンは、キリスト教が人々の関心を現世の国家や市民生活から来世の救済へ向けたこと、修道生活や聖職制度が拡大したこと、宗教論争が政治社会を分裂させたことなどが、帝国の市民的活力を弱める一因になったと考えた。この解釈は刊行当初から激しい論争を招いた。
7.帝国の分裂
巨大化したローマ帝国を一人の皇帝が統治することは次第に困難となった。ディオクレティアヌス帝による統治改革を経て、帝国は東西に分かれて統治されるようになる。395年以降、東ローマ帝国と西ローマ帝国への分裂が固定化していく。ここで重要なのは、同じローマ帝国でありながら、西側と東側の運命が大きく分かれたことである。西側は経済力、人口、都市、軍事力などの基盤が次第に弱まり、ゲルマン諸民族の侵入を受ける。一方、コンスタンティノープルを中心とする東側は、豊かな都市経済と交易網、比較的強力な行政制度を維持した。
8.西ローマ帝国の崩壊
4世紀後半以降、ゴート族、ヴァンダル族、フン族などの移動と侵入が帝国を圧迫する。410年には西ゴート族のアラリックによってローマが略奪され、455年にはヴァンダル族によるローマ略奪が起こる。そして476年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され、西ローマ帝国は事実上終焉を迎えた。しかしギボンにとって476年は、突然帝国が消滅した日ではない。長期間進行していた政治的、軍事的、社会的衰退が最終的に制度上の帝国消滅として表面化したにすぎない。
9.東ローマ帝国というもう一つのローマ
ここから本書は通常のローマ帝国史を大きく超えていく。西ローマ帝国が滅亡しても、東ローマ帝国は約1000年間存続した。ユスティニアヌス帝は6世紀に旧西ローマ領の回復を試み、将軍ベリサリウスらが北アフリカやイタリアを征服した。またローマ法大全を編纂し、古代ローマ法を後世へ伝えた。しかし西方領土の再征服は莫大な軍事費を必要とし、帝国の国力を消耗させた。ここにもギボンの重要な問題意識がある。過去の栄光を軍事力によって回復しようとする政策が、かえって国家を疲弊させた。
10.イスラム世界の台頭
7世紀になるとアラビア半島からイスラム勢力が急速に拡大する。東ローマ帝国はシリア、パレスチナ、エジプトなど重要な領土を失い、かつての地中海帝国から小アジアとバルカンを中心とする国家へ縮小していく。ギボンはイスラム世界の成立と拡大も大きく取り上げており、ローマ帝国史を超えて、中世ユーラシア世界全体の変動を描いていく。
11.十字軍と東西世界
更に本書は十字軍へ進む。西欧キリスト教世界、東ローマ帝国、イスラム世界が複雑に衝突する中、1204年の第4回十字軍では、十字軍自身がコンスタンティノープルを攻略した。ギボンにとってこれは東ローマ帝国衰退の重大な転換点であった。イスラム勢力だけでなく、同じキリスト教世界の西欧諸国によって帝国が破壊された。
12.コンスタンティノープル陥落
最後に登場するのがオスマン帝国である。1453年、スルタン・メフメト2世率いるオスマン軍がコンスタンティノープルを攻略した。ここに、古代ローマ帝国から連続してきた東ローマ帝国は終焉する。ギボン自身が最終巻の序文で明記したように、本書はアントニヌス朝からメフメト2世によるコンスタンティノープル攻略までを一つの長大な歴史として捉えている。ローマ帝国衰亡史とは、476年までのローマ史ではない。古代ローマの最盛期から1453年まで、1300年に及ぶ文明の変質と解体を追跡した文明史である。
本書が言いたかったこと
巨大な国家は、なぜ永遠には続かないのか。ギボンの描くローマ帝国は、単純に強敵が現れたために滅亡したのではない。むしろ帝国自身が長い繁栄のなかで変質した。政治権力が不安定になり、軍事力と財政の負担が増大し、市民と国家との関係が希薄になり、巨大な領土を維持するため行政と軍事組織が肥大化する。その一方で、外部民族を軍事力として取り込み、宗教や価値観も変化していった。そこへゲルマン諸民族、イスラム勢力、十字軍、オスマン帝国など外部からの圧力が加わった。外敵は衰退の唯一の原因ではなく、内部の弱体化を最終的に露呈させる力でもあった。更に重要なのは、ローマの衰亡が一度に起こったのではないことである。西ローマ帝国が476年に消滅した後も、東ローマ帝国は約1000年間生き延びた。国家は単純に繁栄→衰退→滅亡と一直線に進むのではなく、改革し、分裂し、縮小し、再生しながら長期間存続することもある。この意味で本書は、ローマ史であると同時に、権力と文明の寿命について考察した巨大な歴史哲学でもある。これはローマ帝国だけでなく、後世のスペイン帝国、大英帝国、ソ連、そして現代の大国を考える際にも繰り返し現れる歴史上の根本問題である。
