Renaissance to Baroque
Master Drawings from the Nationalmuseum, Stockholm
2025年刊
Nationalmuseum, Stockholm
スウェーデン美術館素描コレクション
スウェーデン国立美術館は1792年にストックホルムで開設された、世界でも最も古い公立美術館の一つである。スウェーデン王室が代々収集してきた美術品を基礎とし、中世から現代に至る絵画、彫刻、工芸、デザイン、素描、版画を幅広く所蔵している。中でも素描・版画コレクションは約50万点に及び、質と量の双方で世界有数のものと評価されている。この素描コレクションの形成に決定的な役割を果たしたのが、スウェーデン王室付き建築家ニコデムス・テッシン(1654―1728年)と、その息子で外交官・廷臣・美術収集家であったカール・グスタフ・テッシン(1695―1770年)である。とりわけカール・グスタフは駐フランス大使としてパリに滞在した際に約2,000点の素描を購入した。その中核にはフランスの著名な収集家ピエール・クロザ旧蔵の作品が含まれ、クロザ・コレクションの競売を組織したピエール=ジャン・マリエットがテッシンの購入助言者となった。今日のスウェーデン国立美術館の素描コレクションは、単なる王室収集品ではなく、18世紀ヨーロッパ最高水準の鑑識眼が積み重なって形成された歴史的コレクションである。本図録は、この巨大なコレクションからルネサンスからバロック期を中心とする約80点を選び、イタリア、フランス、ドイツ、ネーデルラントという四つの地域に分けて紹介している。
本書の内容
1.画家の思考の痕跡
本図録はまず、素描とは何かという基本的な問いから始まる。素描は線描を中心とする平面作品であるが、使用する材料や技法、制作目的は時代や地域によって大きく異なる。黒チョーク、赤チョーク、白チョーク、木炭、メタルポイント、羽根ペン、葦ペン、各種インク、淡彩などが用いられ、それぞれ異なる質感と表現を生み出した。重要なのは、素描を単なる油彩画の下書きと考えないことである。確かに完成作品の構図を検討するための習作や下絵は多いが、一方には自然を観察する写生、人物研究、他の作品の模写、芸術家の頭に浮かんだ着想を書き留めた即興的なスケッチ、更には最初から鑑賞されることを目的として入念に完成された独立作品も存在する。本図録が一貫して強調するのは、素描では作者の手の動きと思考の跡を油彩画以上に直接感じられることである。一本の線が途中で変更されたり、輪郭が何度も重ねられたりすることによって、鑑賞者はあたかも芸術家の制作現場に立ち会っているような感覚を得る。これこそ本展・本図録が考える素描鑑賞の根本的な魅力である。
2.ルネサンスによる素描の飛躍
第一の地域はイタリアである。ルネサンス期になると紙の普及とともに素描制作が飛躍的に増加した。絵画や彫刻により高度で複雑な表現が求められるようになったため、芸術家は完成作品に至る以前に、人物、構図、光、身体の動きを紙の上で検討する必要が生じた。中世では既存作品の模写が素描の重要な役割であったのに対し、ルネサンスでは自然を直接観察する写生や、芸術家自身の頭に浮かんだイメージを記録する素描が増える。この変化は、芸術家が職人から創造者へと社会的地位を高めていく過程とも重なっている。本図録にはフィリッピーノ・リッピ、ヴィットーレ・カルパッチョ、ベルト・ディ・ジョヴァンニ、パルミジャニーノ、フェデリコ・バロッチ、アンニーバレ・カラッチらの作品が収められている。たとえばパルミジャニーノの長い首の聖母のための習作では、完成した祭壇画へ至る構想の過程を知ることができる。一方、ベッカフーミの頭部習作などでは、現実のモデルを正確に写すというより、画家の想像から線が次々と生まれていく感覚を見ることができる。16世紀のマニエリスムでは、ミケランジェロやラファエロなど盛期ルネサンスの巨匠を手本としながら、より洗練され、時には意図的に不自然なほど優雅な身体表現が追求された。またヴェネツィアでは細密な輪郭よりも形態を大きく捉え、明暗によって量感や雰囲気を作る素描が発展した。16世紀末になるとカラッチ一族が自然観察を再び重視し、裸体素描を中心とする教育を行ったことが、やがてバロック美術へつながっていく。

スウェーデン国立美術館所蔵
3.フォンテーヌブローからバロックへ
フランスの章は、16世紀初頭のフランソワ1世によるフォンテーヌブロー宮殿の再建を重要な出発点としている。宮殿にはイタリアをはじめ各国から芸術家が招かれ、フランチェスコ・プリマティッチョやニコロ・デッラバーテらがイタリア・マニエリスムとフランス宮廷文化を融合させた独自のフォンテーヌブロー様式を形成した。ここでは素描が絵画の下絵だけでなく、宮殿装飾、祭典、衣装、仮装行列などを設計するデザイン媒体として用いられている。白鳥の騎士や蛙男といった奇抜な衣装案は、素描が宮廷文化全体の視覚的創造を担ったことを示す興味深い例である。16世紀フランスでは肖像素描も発展した。黒と赤のチョークを用いて宮廷人を描くのが流行し、これらは美術作品であると同時に、遠隔地の家族や知人へ人物の姿を伝える今日の写真に近い役割を果たした。17世紀に入るとジャック・カロ、ニコラ・プッサン、シモン・ヴーエ、シャルル・ル・ブランらへと展開する。カロの聖アントニウスの誘惑では素描とそれを基に制作された版画が比較され、素描から版画へ移る際に構図や人物の動きがどのように変更されたかを見ることができる。プッサンの王妃ゼノビアの発見では人物の輪郭が繰り返し描き直され、画家が構図を慎重に組み立てていく思考過程が紙の表面に直接残されている。
4.デューラーと線の芸術
ドイツの章では、現在のドイツだけでなく、オーストリア、スイス、ストラスブールなどドイツ語圏で活動した芸術家が扱われる。15世紀後半からルネサンスが浸透すると、ニュルンベルク、アウクスブルク、バーゼル、ストラスブールなどが重要な美術都市となった。この地域の大きな特色は、画家と版画家を兼ねる芸術家が多かったことである。そのため素描にも、平行線や交差線を重ねて陰影や立体感を作る、版画制作と密接に結びついた線描表現が見られる。その頂点に位置するのがアルブレヒト・デューラーである。デューラーの人物素描では、ごく限られた黒い線の集積だけで皮膚、髪、衣服、身体の量感を表現する驚異的な技術を見ることができる。図録はデューラーの作品を、単なる準備素描ではなく、それだけで成立する独立した肖像作品として位置づけている。またマティアス・グリューネヴァルト、ハンス・バルドゥング・グリーン、ヴォルフ・フーバーらを通して、幻想的な人物、農民や兵士などの世俗的主題、さらには宗教や神話から独立した純粋な風景が素描の対象になっていく過程も示される。ドイツ素描史が単なるイタリア・ルネサンスの模倣ではなく、独自の線と主題を発展させたことが明らかになる。
5.ルーベンス、レンブラントと日常世界
第四章では現在のオランダとベルギーにほぼ相当するネーデルラントが扱われる。この地域では油彩技法が早くから高度に発展した一方、紙の普及はイタリアより遅く、16世紀初頭以前の素描は比較的少ない。そのためリュカス・ファン・レイデンの肖像素描などは極めて貴重な作品として位置づけられる。16世紀になると芸術家が修業の仕上げとしてイタリアへ旅行する慣習が広まり、イタリアの素描技法がネーデルラントにも伝わる。しかし17世紀になると、政治・宗教・経済環境の違いから独自の展開を遂げる。南部フランドルではルーベンス、ヴァン・ダイク、ヤン・ブリューゲル(父)らが活躍し、力強い身体表現や自然観察を特徴とするバロック美術が生まれた。一方、北部オランダでは裕福な市民が主要な美術購入者となり、風俗、風景、静物、建築内部、船、牛、犬など、ごく身近な日常世界が重要な主題となった。レンブラントの素描はその中心にある。本展にはキリスト捕縛などが含まれ、ペンと褐色インク、淡彩による速く大胆な線によって、人間の身体、集団の動き、光と空間を驚くほど少ない手数で生み出している。またパウリュス・ポッテルの狐の習作やコルネリス・フィッセルの眠る犬など、動物を凝視した作品も重要である。そこでは大きな歴史画の準備という素描観はすでに後景に退き、目の前にいる一匹の動物を観察して描く行為が芸術となっている。オランダ素描の多様性は、17世紀の市民社会の多様性を反映している。
6.材料と技法を見る楽しみ
本図録の特徴は、画家や美術史だけでなく、素描を物質として理解するための説明が充実していることである。黒・赤・白チョーク、木炭、メタルポイント、透明水彩、不透明水彩、淡彩、羽根ペン、葦ペンなどがどのように使われたのかを示し、インクについても没食子インク、ビスタ、墨、セピアなどを解説する。たとえば羽根ペンは筆圧によって線の太さを自在に変えることができ、葦ペンはより太く力強い線を生む。淡彩は線描に明暗と量感を加え、白チョークは色紙の上で光を描き出す。こうした技法を知ることで、素描を見る眼も変わる。単に人物が描かれていると見るのではなく、なぜ画家はこの紙、このチョーク、このインク、この筆圧を選んだのかを考えるようになる。
7.素描から分かる制作途中の面白さ
本図録には、素描と完成作品あるいは版画との関係を示す作例も数多く収められている。素描では人物の腕が何度も描き直され、構図が変更され、最終作品では消えてしまった人物が残っていることがある。完成作品が画家の答えであるなら、素描はそこへ至る考えている途中である。カロの素描と版画を比較すると、同じ主題でありながら人物の姿勢や物語の強調点が変えられていることが分かる。プッサンでは線を重ねながら人物群の配置を試し、パルミジャニーノでは祭壇画の人物を繰り返し検討している。本図録を通して見ると、名画は一瞬の霊感によって完成したものではなく、多数の小さな判断の積み重ねから生まれたことが理解できる。
8.コレクションを見るもう一つの面白さ
本書には素描史とは別に、コレクション史という重要な主題が存在する。現在ストックホルムに存在する作品の多くが、もともとはイタリア、フランス、ドイツ、ネーデルラントで制作され、その後フランスのクロザやマリエットなど著名な収集家の手を経て、テッシン父子によってスウェーデンへ運ばれた。一枚の素描には誰が描いたかという芸術家の歴史だけでなく、誰がその価値を見抜き、誰から誰へ受け継がれたのかという収集の歴史が重なっている。スウェーデン国立美術館の素描コレクションが世界的に重要なのは、単にデューラーやレンブラントなどの有名作品を所有しているからではない。18世紀のヨーロッパで形成された一流コレクターたちの審美眼が、一つのまとまりとして今日まで保存されている点にも大きな価値がある。
本書が言いたかったこと
素描とは完成作品の陰に隠れた下書きではなく、芸術家に最も近づくことのできる美術である。油彩画や彫刻の完成作品では、画家が制作途中に迷い、考え、描き直した過程の多くは消えてしまう。しかし紙の上には、最初の一本の線、ためらい、修正、筆圧の変化、突然生まれた発想が残されている。そこには完成された作品以上に、制作している人間としての芸術家が現れている。本書は、一口に素描と言っても地域によって全く性格が異なることを示している。イタリアでは人体と構図の研究が発展し、フランスでは宮廷文化や装飾設計と結びつき、ドイツでは版画につながる精緻な線が追求され、ネーデルラントでは風景、日常生活、動物が重要な主題となった。しかし、そのすべてに共通しているのは手で考えるという行為である。芸術家は頭の中で完成したイメージを単に紙へ移したのではない。線を引くことによって考え、線を引き直すことによって発見し、紙の上で作品を作り出していった。したがって素描を見るという行為は、名画の準備段階を見ることではない。それは芸術がまだ形になりきっていない瞬間、すなわち創造が生まれている場所を見ることである。この芸術家との距離の近さこそ、本書が伝えようとした素描最大の魅力である。
