ナポレオン ある生涯

Napoleon
A Life
2014年刊
Andrew Roberts著

アンドリュー・ロバーツの経歴

アンドリュー・ロバーツは1963年、英国ロンドンのハマースミスに生まれた歴史家・伝記作家である。ケンブリッジ大学で近代史を学び、その後ロンドンのロバート・フレミング(マーチャントバンク)で企業金融に携わった後、歴史家として独立した。ロバーツは特に戦争史、英国近現代史を専門とする。第二次世界大戦史は高く評価され、後にはチャーチル伝記作家としても世界的評価を確立した。ロバーツの歴史叙述の特色は、巨大な歴史構造だけで人物を説明するのではなく、指導者自身の決断、性格、知性、行動力が歴史を変える力を重視する点にある。そのため本書でも、フランス革命後の社会構造だけからナポレオンの台頭を説明するのではなく、なぜこの一人の人物がこれほど巨大な歴史的変化を生み出すことができたのかという問題を中心に据えている。

本書の内容

1.コルシカの少年からフランス軍人へ

ナポレオン・ボナパルトは1769年、フランス領となったばかりのコルシカ島に生まれた。家は地方の小貴族であり、少年時代のナポレオンには強いコルシカ人意識があった。フランス本土の軍学校に送られたナポレオンは、裕福な貴族出身の生徒とは異なる環境に置かれたが、数学、歴史、地理を熱心に学び、砲兵将校への道を選んだ。砲兵は数学、弾道、兵站などを正確に計算しなければならない。後のナポレオンに見られる戦場を数字と空間で把握する能力の基礎がここで形成された。

2.フランス革命が開いた巨大な機会

1789年のフランス革命は旧体制を破壊した。それは社会的混乱を引き起こした一方、才能ある若者に前例のない出世の機会を与えた。ナポレオンは1793年のトゥーロン攻囲戦で砲兵を効果的に運用して頭角を現し、1795年にはパリで王党派の反乱を鎮圧する。その能力を認められ、1796年、わずか26歳でイタリア方面軍司令官となった。ここから歴史上でも稀な急速な上昇が始まる。

3.イタリア遠征-軍事的天才の出現

1796年から97年のイタリア遠征は、ロバーツがナポレオンの軍事的才能を理解する上で重視する時期である。ナポレオンは兵力で圧倒的優位に立つことだけを求めなかった。敵軍が複数に分かれていれば、素早く移動して一方に兵力を集中し、撃破した後にもう一方へ転進する。全戦線で強くなるのではなく、決定的な地点で一時的に圧倒的に強くなる。彼は兵士の心理を理解していた。布告を通じて兵士に語りかけ、勝利、名誉、祖国、戦利品を結びつけ、自分と兵士の間に直接的な心理的関係を作った。戦争は兵力だけではなく、速度、集中、情報、士気によって決まる。これを実践したところにナポレオン戦争術の革新性があった。

4.エジプト遠征-失敗から政治的成功へ

1798年、ナポレオンは英国のインドへの交通路を脅かす目的もあってエジプト遠征を開始する。軍事的には最終的な成功とはいえなかった。ネルソン率いる英国艦隊がナイルの海戦でフランス艦隊を壊滅させ、ナポレオン軍は戦略的に孤立する。しかしロバーツが注目するのは、ナポレオンが失敗をそのまま失敗として終わらせなかったことである。彼は自分自身の戦争を物語に変える能力を持っていた。勝利を劇的に宣伝し、不利な情報を管理し、自分自身を英雄としてフランス国民に提示した。後にセント・ヘレナ島で自らの生涯を語り直したことまで含め、ナポレオンは近代史における自己演出と政治的広報の達人でもあった。

5.将軍から国家指導者へ

1799年、ナポレオンはフランスへ帰国し、クーデター(ブリュメール18日)によって総裁政府を倒し、第一統領となる。ここから本書は、ナポレオンを軍事的天才としてだけでなく、国家建設者として描いていく。フランス革命は旧制度を破壊したものの、政治的安定を十分には作り出せなかった。ナポレオンは革命以前の絶対王政へ戻すのではなく、革命が生み出した成果の多くを国家制度として固定しようとした。

6.国家改革-ナポレオンのもう一つの顔

ロバーツが高く評価するのが、統治者としてのナポレオンである。彼は行政制度を中央集権化し、地方行政を整備し、フランス銀行を創設し、財政を安定させ、教育制度を改革した。そして1804年には民法典(いわゆるナポレオン法典)を成立させた。法の前の平等、財産権、契約の自由、世俗的国家といった革命の成果が体系的な法律として定着した。もちろん、その統治は自由主義的民主政治ではない。出版や政治活動は統制され、警察国家的な側面も存在した。しかしロバーツが強調するのは、ナポレオンが単なる軍事独裁者ではなく、革命後の混乱を制度に変えた立法者・行政改革者でもあったことである。

7.皇帝即位-革命家から皇帝へ

1804年、ナポレオンは皇帝に即位する。これは一見すると革命への裏切りである。王を倒した革命から十数年後、その革命によって出世した軍人が皇帝になったからである。しかしナポレオンが作った帝国は旧ブルボン王朝の単純な復活ではなかった。身分ではなく能力による登用、革命によって成立した財産関係、近代的官僚制、法典などは維持された。したがってナポレオン体制とは、革命を否定した体制というより、革命の一部を保存しながら権威主義的国家に再編した体制と見ることができる。

8.アウステルリッツ-軍事的才能の頂点

1805年のアウステルリッツの戦いは、ナポレオンの軍事的才能の頂点として描かれる。フランス軍はロシア・オーストリア連合軍を破り、第三次対仏大同盟を崩壊させた。ナポレオンは敵に自軍の弱点を意図的に見せ、敵軍を誘導し、決定的地点で反撃した。戦場を単に敵軍が現在どこにいるかという静止した状態で見るのではなく、数時間後に敵がどこへ動くかという時間軸を含めて考えていた。ロバーツはマレンゴ、アウステルリッツ、イエナなどの戦闘を詳細に分析し、ナポレオンの巨大な知的エネルギーと決断速度を描く。自身が53の戦場を実地調査したことも、この軍事史部分の特色となっている。

9.ヨーロッパ帝国の形成

1806年のイエナ・アウエルシュタットでプロイセンを破り、1807年のティルジット条約によってロシア皇帝アレクサンドル1世と協調すると、ナポレオンはヨーロッパ大陸における絶頂期を迎える。しかし、この成功が次の失敗の原因となった。ナポレオンは戦争に勝つたびに領土を拡大し、兄弟や親族を各国の王位につけ、ヨーロッパ全体を自らの政治体系に組み込もうとした。一つの戦争で勝利すれば、新しい国境を守るために次の戦争が必要になる。勝利が帝国を拡大し、帝国の拡大が更に戦争を必要とするという循環に入った。

10.英国という倒せない敵

ナポレオン最大の戦略的問題は英国であった。陸上ではオーストリア、プロイセン、ロシアを何度も破ったが、トラファルガー海戦後は英国本土への侵攻が現実的ではなくなった。そこでナポレオンは大陸封鎖令によって英国経済を締め上げようとする。しかしヨーロッパ諸国に英国との貿易を禁止させるには、大陸全体を政治的に統制しなければならない。その結果、大陸封鎖政策が帝国の過剰拡大を促すことになった。

11.スペイン-帝国を蝕んだ戦争

1808年に始まったスペインでの戦争は、ナポレオン帝国の重大な転換点となる。フランス軍は正規軍との大会戦では強かった。しかしスペインでは住民によるゲリラ戦が続き、英国軍も介入した。敵軍を一度撃破すれば終わる戦争ではなく、占領が新たな抵抗を生み出す戦争であった。ここにはナポレオンの限界が現れる。戦場で軍隊を破ることと、外国社会を政治的に支配することは別問題だった。

12.ロシア遠征-天才の最大の誤算

1812年、ナポレオンは巨大な大陸軍を率いてロシアへ侵攻する。ロシア軍は決定的会戦を避けながら後退し、ナポレオンは奥深くまで進軍する。ボロジノで激戦に勝利しモスクワへ入ったものの、ロシア皇帝アレクサンドル1世は講和しなかった。ナポレオンは敵軍を破れば政治的決着が得られるという、それまで成功してきた方法に依存し過ぎた。ロシアでは距離、補給、気候、焦土作戦がフランス軍を消耗させた。冬そのものだけが敗因だった訳ではなく、巨大な軍隊を長大な距離で維持する兵站上の問題が決定的だった。

13.なぜナポレオンは失敗したのか

ロバーツのナポレオン像で重要なのは、晩年に突然能力を失ったという説明を採らないことである。むしろ成功を生み出した性格が、やがて失敗を生み出したと考える。決断力は性急さへ、自己確信は過信へ、行動力は過剰拡張へ、勝利への意志は終わりのない戦争へ変わっていった。若きナポレオンがイタリアで用いた集中は、巨大帝国になるほど困難になる。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ポーランドからロシアまでを一人の人間が統御することには限界があった。ナポレオンを倒した最大の敵の一つは、皮肉にもナポレオン自身の成功だった。

14.エルバ島から百日天下へ

1814年、連合軍がパリを占領するとナポレオンは退位し、エルバ島へ送られる。しかし1815年、彼は島を脱出してフランスへ戻る。国王ルイ18世はナポレオンを逮捕するため軍隊を派遣したが、兵士たちは次々とナポレオン側へ移った。大規模な戦闘なしにパリへ帰還した事実は、彼と軍隊との特殊な結びつきを象徴している。しかし百日天下は長く続かなかった。

15.ワーテルロー-最後の敗北

1815年、ワーテルローでナポレオンはウェリントン率いる英蘭軍と戦い、そこへプロイセン軍が合流したことで敗北する。ロバーツはワーテルローを単純に老いた天才の失敗とは描かない。天候、指揮官間の連絡、プロイセン軍の接近、フランス軍の作戦上の判断など、複数の要因が重なった敗北として分析する。それでも、かつてのナポレオンなら避けられた可能性のある判断の遅れも存在した。ワーテルローは一つの戦闘の敗北であると同時に、20年以上続いた革命戦争・ナポレオンという時代の終焉でもあった。

16.セント・ヘレナ-最後の戦いは歴史であった

ナポレオンは英国によって南大西洋の孤島セント・ヘレナへ送られ、1821年に死去する。しかしロバーツにとって、ここでナポレオンの戦いは完全には終わらない。彼は自らの生涯を語り、回想を残し、自分自身が後世からどのように記憶されるかを意識した。軍事的・政治的権力を失った後、今度は歴史上のナポレオン像をめぐる戦いを始めた。ナポレオンは自己の物語を後世へ伝えることの戦略的重要性を理解していた。

本書が言いたかったこと

本書は、ナポレオンを英雄か暴君かという二者択一から解放し、歴史上きわめて稀な能力と、同じく巨大な欠陥を併せ持った人間として描いた。ロバーツが特に高く評価するのは、ナポレオンの驚異的な知的・肉体的エネルギーである。大量の報告書や書簡を読み、軍事、外交、財政、法律、教育、道路建設から人事まで細部に介入しながら、重要事項について迅速に決断した。ナポレオンの偉大さは、アウステルリッツなどの戦場で勝ったことだけではない。革命によって破壊された国家を再構築し、法典、行政、教育、財政などを制度化し、その一部を今日まで残したことにある。しかし、本書は同時に天才の限界を描いている。ナポレオンには極めて優れた学習能力があったにもかかわらず、成功を重ねるにつれて、自らの能力によってほとんどあらゆる問題を解決できると考えるようになった。戦争によって問題を解決し、その勝利によって新しい問題が生まれ、更に戦争によって解決するという循環から抜けられなくなった。ここに本書から読み取れる最も重要な逆説がある。ナポレオンを頂点へ押し上げた資質と、彼を破滅へ導いた資質は、実は同じものだった。並外れた自信が決断力を生み、決断力が勝利を生んだ。しかし自信はやがて過信となった。猛烈な行動力が帝国を作ったが、その行動力が帝国を必要以上に拡大した。敵の弱点を見抜く能力は卓越していたが、自らの権力の限界を見抜くことはできなかった。したがってロバーツのナポレオン伝は、単なる成功と没落の物語ではない。一人の卓越した人間が歴史を大きく動かすことは可能である。しかし、どれほど優れた個人であっても、地理、経済、民族感情、兵站、海軍力、国際同盟という構造的制約を永久に超えることはできないことを伝えている。

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