満州の歴史概観
満州の歴史は、満州族国家の原郷→清帝国の中核→列強の介入地→近代国家間の争奪地→中国の一地方へと推移してきた。特に近代以降は、清の衰退・欧米列強の介入・日露対立・中華民国の統治不全・国際連盟外交が重層的に絡み合う、東アジア国際秩序の争奪の地の縮図であった。
1.1616年|後金建国(満州統一)
ヌルハチが女真諸部族を統一し後金を建国。満州は政治・軍事的に一体化される。
2.1636年|国号清・満州族成立
ホンタイジが国号を清に改め、女真を満州と改称。中国支配を明確化。
3.1644年|北京入城・清の中国支配開始
清が北京を占領し、中国全土の支配王朝となる。満州は王朝の原郷として特別管理。
4.18世紀|満州の封禁統治
将軍統治と柳条辺により、漢人移住を制限。満州は軍事・民族的保護地帯とされる。
5.19世紀前半〜|欧米列強の旧清国領介入
アヘン戦争以降、列強が沿岸部・都市を租借・占領。清の主権は部分的に侵食される。
6.1858–1860年|ロシアが外満州を獲得
不平等条約により、沿海州など外満州を喪失。満州北部は大きく縮小。
7.1898年|列強による租借地拡大
ロシアが旅順・大連を租借、英国・ドイツ・フランスも各地に拠点を獲得。満州は列強角逐の地となる。
8.1905年|日露戦争・南満州権益移転
日本勝利により南満州鉄道・旅順大連の権益が日本へ移る。
9.1911–1912年|辛亥革命・中華民国成立
孫文を中心に革命が起こり、清が滅亡。中華民国が成立。
10.1912–1928年|軍閥時代・奉天軍閥支配
満州は張作霖・張学良親子が実効支配。中央政府の統治は名目的。
11.1931–1932年|満州事変・満州国建国
日本軍進出後、満州国成立。溥儀が元首となる。
12.1931–1932年|リットン調査団派遣
リットン調査団が満州を調査。日本の特殊権益は認めつつ、満州国は否定。
13.1933年|日本、国際連盟脱退
リットン報告採択を受け、日本が連盟を脱退。
14.1941年7月|米国が日本への石油禁輸措置
日米開戦の引き金に。
15.1945年|満州国崩壊・ソ連軍進駐
日本敗戦。満州国消滅、国共内戦の主戦場へ。
16.1948年|遼瀋戦役・共産党制圧
中国共産党が満州全域を掌握。
17.1949年|中華人民共和国成立
満州は中華人民共和国の領土として確定。
18.現在|中国東北部(東北三省)
遼寧・吉林・黒竜江の三省として統治。歴史的特別地位は持たない。
満州のルーツ
満州は、もともとツングース系民族である女真族の出身地である。現在の中国東北部(遼寧・吉林・黒竜江一帯)は、古来より女真族が居住し、狩猟と騎馬を基盤とする独自の社会を形成してきた地域であった。女真族は10世紀から12世紀にかけて勢力を拡大し、宋と対峙する形で金王朝を打ち立て、中国史において一時代を築いた民族である。
金王朝滅亡後も女真族は消滅せず、明代には建州女真・海西女真・野人女真といった諸部族に分かれて満州一帯に存続した。17世紀初頭、建州女真の有力者ヌルハチがこれら諸部族を統合し、女真という旧称を改めて満州(マンジュ)を民族名として採用する。こうして成立した満州族は、軍事的・制度的な統合を進め、中国全土へ進出し、やがて清を建国した。清朝は約260年にわたり中国を支配し、満州は単なる辺境ではなく、王朝の出自を示す聖地的意味を帯びる土地となった。
このように、満州とは単なる地理的名称ではなく、女真族の故地であり、満州族が形成され、清朝という支配王朝を生み出した地域という歴史的文脈を持つ。1930年代に成立した近代国家満州国が、この名称と歴史を強調したのも偶然ではない。清朝最後の皇帝溥儀を元首に据えた体制は、満州が王朝発祥の地であるという象徴性を利用し、国家の正統性を演出しようとした側面を持っていた。 満州国という近代政治体制の背景には、女真族から満州族、そして清朝へと連なる長い民族史と王朝史が横たわっている。
万里の長城
万里の長城は、単なる外敵防御の壁ではなく、中国王朝が北方世界とどのように向き合ってきたかを示す軍事・政治・経済を統合した国家装置として建設されたものである。
1北方遊牧民への防衛線
万里の長城の最大の目的は、北方草原地帯に生きる遊牧・半遊牧民の侵入を抑止することにあった。黄河流域を中心とする農耕国家にとって、機動力に優れた騎馬民族は最大の脅威であり、特に秦・漢の時代には匈奴の南下が深刻な問題であった。長城は、こうした騎馬集団の迅速な侵入を物理的・心理的に遅滞させる役割を果たした。
2国境管理と領域意識の可視化
長城は防壁であると同時に、ここから先が王朝の統治領域であるという境界線を明確に示す象徴でもあった。関所・烽火台・守備拠点が連なり、通行・交易・人の移動を管理することで、国家による領域支配を可視化した。これは近代的な国境概念が存在しない時代における、きわめて高度な領域管理装置であった。
3軍事通信・動員システム
長城沿いに設けられた烽火台は、敵襲を煙や火で迅速に伝える通信網として機能した。数百キロ離れた都城へも短時間で警報が届き、軍の動員や迎撃が可能となった。特に石造で大規模に整備された明代の長城は、防衛線・通信網・駐屯地が一体化した巨大な軍事インフラであった。
4経済統制と交易管理
長城は単に遮断する壁ではなく、交易を管理するための装置でもあった。公認された関所では互市(公式交易)が行われ、朝貢や物資流通を統制することで、軍事衝突を回避しつつ経済的優位を保つ役割も担った。防衛と交易管理は表裏一体であった。
5王朝の統治力を示す象徴
巨大な土木事業である長城建設は、強力な動員力・財政力・技術力を内外に誇示する政治的意味も持っていた。長城は外敵を恐れないという心理的効果を内側にもたらし、同時に王朝の正統性と秩序を可視化するモニュメントでもあった。
万里の長城と満州
歴史的に見ると、長城は中国の農耕王朝が自らの統治圏を守るために築いた防衛線であり、その北方に広がる満州は、もともと女真族をはじめとするツングース系民族の活動圏であった。秦・漢・明などの王朝が整備した長城の主線は、黄河流域から華北平原の北縁に沿っており、満州全域を包み込むような位置には存在しない。
とりわけ明代の長城は、北京防衛を最優先に、河北・山西・陝西を中心に築かれたもので、遼河以東の満州深部まで延びることはなかった。遼東半島には遼東辺牆と呼ばれる防衛線が存在したが、これは満州全体を遮断する壁ではなく、あくまで華北と遼東を区切る補助的な境界線に過ぎなかった。
この配置は、中国王朝が満州を完全に自国領として統治・防衛すべき内地とは見なしていなかったことを意味する。満州は長く、女真族など北方民族の世界として認識され、長城はその南側に農耕中国を守るための文明的・政治的境界として築かれていたのである。
満州族による清支配
清を建国した女真族(満州族)は人口数百万規模に過ぎず、当時数千万規模と推定される漢民族を支配するため、支配中枢は意図的に華北へ移された。1644年に入城した都市は、当時は北京と呼ばれ、明の都であった。清はここを引き継いで首都とし、皇帝・八旗の中枢・官僚機構を北京に集中させた。
一方、満州本土は軍事的・象徴的な根拠地として維持されたが、満州族全体が大量移住したわけではない。八旗制度によって満州人を軍事貴族として全国に分散配置し、漢人官僚制を併用することで、少数民族による大人口支配を制度的に実現した。
女真族(満州族)が中国全土を支配して清を統治していた間も、故国である満州は放棄されたのではなく、特別に保護・管理された中核地域として位置づけられていた。満州は王朝発祥の地であり、皇室と八旗の根拠地、すなわち満州人の聖域と見なされたのである。
清朝は満州を一般的な州県制には組み込まず、将軍(盛京将軍・吉林将軍・黒竜江将軍)による軍政体制で統治した。漢人の大量移住は原則として制限され、柳条辺(柳条辺牆)と呼ばれる境界施設によって、漢地との人口移動が管理された。これにより、満州族の人口基盤と軍事的純度を維持しようとした。
一方で、皇帝は北京に常駐しつつも、盛京(現在の瀋陽)を副都とし、祖陵の祭祀や巡幸を重ねることで、満州との精神的・政治的結びつきを保った。18世紀後半以降、財政や開発の必要から漢人移住は段階的に緩和され、満州は農業・資源開発が進むが、それでも清末まで王朝の原郷という特別な位置づけは失われなかった。
清国争奪の国別動き
清国末期、欧米列強は主に通商・租借・勢力圏による支配を行い、ロシアは領土獲得、日本は旧権益継承と地域支配を特徴とした。清国はこれら多層的進出により、主権を段階的に侵食されていった。
1.ロシア
ロシアは領土獲得型の進出を行った。1858〜60年の不平等条約で外満州(沿海州)を獲得し、清から恒久的に切り離した。さらに満州内部では東清鉄道を敷設し、軍事・行政・警備権を伴う実質支配を拡大した。
2イギリス
イギリスは通商・金融中心型で進出した。アヘン戦争後、香港を獲得し、上海などの通商港に租界を設置。清国の市場開放と貿易利益を最優先し、内陸領土の直接支配は抑制的だった。
3.フランス
フランスは南方・勢力圏型で、ベトナム(仏領インドシナ)を拠点に、雲南・広西へ影響力を拡大した。鉄道敷設や宣教師活動を通じ、清南部で文化・経済的浸透を図った。
4.ドイツ
ドイツは港湾拠点型で、1898年に膠州湾(青島)を租借。軍港と工業拠点を整備し、象徴的な帝国拠点を清国内に築いたが、範囲は限定的だった。
5.日本
日本は権益継承・安全保障型で進出した。日露戦争後、ロシアの南満州権益(鉄道・租借地)を継承し、鉄道経営と沿線管理を通じて影響力を拡大した。満州は国防と経済の両面で重視された。
6.アメリカ
米国は清国進出において欧米列強やロシア、日本より後発であった。19世紀末まで米国は西部開拓と国内発展を優先し、清国に対して軍事力や植民地を伴う進出をほとんど行えなかった。後発の米国は、領土や租界を持たない不利を補うため、門戸開放政策を掲げ、中国の領土保全と商機均等を主張して、特定国の独占を抑制する戦略を採った。満州でも日本の排他的支配に反対し、承認拒否(スティムソン・ドクトリン)へとつながった。米国の対中関与は、後発ゆえに軍事ではなく国際ルールで影響力を確保しようとする特徴を持っていた。
日本の満州鉄道管理地
日本が満州鉄道管理地を取得した経緯は、日露戦争の結果としてロシア帝国の権益を引き継いだことに始まる。
19世紀末、清朝の衰退に乗じてロシアは満州へ進出し、シベリア鉄道の支線として東清鉄道を敷設し、さらに南満州の要衝・旅順や大連を租借して南下政策を進めた。これに対し、朝鮮半島と満州を日本の安全保障上の生命線と認識していた日本は、ロシアと対立を深め、1904年に日露戦争へ突入する。
戦争の結果、日本はロシアに勝利し、1905年のポーツマス条約によって、ロシアが有していた南満州における鉄道権益(長春―大連間)、旅順・大連の租借権、およびその付属権利の譲渡を認められた。これに基づき日本は、1906年に南満州鉄道(満鉄)を設立し、鉄道経営とその沿線管理を行うこととなった。
鉄道の安全運行と経済活動を維持するため、線路沿いには警備・行政・都市管理の権限が付与され、これがいわゆる満州鉄道管理地である。これは日本が新たに主権を獲得した領土ではなく、あくまで条約に基づく旧ロシア権益の承継としての限定的支配区域であった。
すなわち、日本の満州鉄道管理地取得は、侵略による突然の占有ではなく、日露戦争と国際条約を通じて列強間で再配分された帝国権益の一環として形成されたものであった。
日露戦争後、日本が取得した満州鉄道管理地(南満州鉄道沿線地域)は、鉄道・警備・行政が一体的に整備され、当時の中国本土と比べて治安・衛生・雇用環境が安定していた。清末から中華民国初期にかけて、中国内地では軍閥抗争、革命、重税、匪賊の横行が続き、生活の安全が大きく損なわれていた。このため、山東・河北などから多数の漢人労働者や家族が自発的に満州へ移住し、とりわけ南満州鉄道沿線の大連・奉天・長春周辺には人口が急増した。
清国最後の皇帝溥儀
清国最後の皇帝溥儀が即位した当時(1908年、満2歳)、実際に政治を動かしていたのは皇族の摂政と高級官僚・軍人層であった。
溥儀の即位直前まで権力を握っていたのは西太后であるが、彼女は即位の直前に死去した。その後、溥儀の実父である載灃(ザイフォン)が摂政王として政務を主導した。ただし、載灃は政治的手腕に乏しく、軍制改革や列強対応で迷走し、権威を十分に確立できなかった。
宮中では、皇后である隆裕太后が皇統の象徴的存在として影響力を持ち、最終的に1912年の退位詔書に署名したのも隆裕太后である。さらに実務面では、北洋軍を掌握する有力軍人袁世凱が最大の実力者となり、清朝延命と引き換えに権力を拡大し、最終的には清の退位を主導した。
要するに、溥儀は名目的君主に過ぎず、摂政(載灃)・宮廷(隆裕太后)・軍閥(袁世凱)という複数の権力が分立する中で政治が動いていた。幼帝体制は清末の統治力低下を象徴する構図であった。
清の滅亡
1912年2月12日に最後の皇帝溥儀が退位詔書を出し、約260年続いた清は正式に終焉した。この退位は、1911年に始まった辛亥革命の結果であり、清の滅亡と同時に中国では王朝体制が終わり、翌年中華民国が成立した。清は中国史上、最後の王朝である。
1912年に清は滅亡したが、その版図は新国家である中華民国が継承したと、当時の国際法と国際社会は理解していた。王朝が交代しても、国家の領域主権は連続するとする国家承継の原則があるためである。したがって1931年当時、満州は法的には中華民国の主権下にある地域と位置づけられていた。
1912年に成立した中華民国の統治は、少なくとも1930年代初頭までは名目的な中央政府と、実質的な地方軍閥支配が併存する体制であった。清滅亡後、中央の統治力は急速に弱体化し、各地で地方勢力が軍閥化して独自に徴税・治安・軍事を掌握した。中央政府は全国を一元的に統治できず、主権は法的には存在しても、現実の行政・治安は分断されていた。
1920年代後半、蒋介石率いる国民党は北伐を通じて統一を進め、南京に政府を樹立した(南京政府)。しかしこの統一も限定的で、地方軍閥は形式的に服属しつつ実権を保持し、財政基盤や治安は依然として脆弱だった。満州でも中央の統治は間接的で、地方軍閥(奉天派)が実効支配していた。
要するに当時の中華民国は、国際法上は主権国家でありながら、国内的には統治の断片化と内戦状態を抱えた移行期国家であり、その統治実態は安定した近代国家とは程遠いものであった。
孫文
孫文は清末中国の改革者として、日本滞在を通じて近代国家の在り方を深く学んだ人物である。彼は日本において、立憲政治、近代軍制、教育制度、産業振興などを実地に観察し、伝統社会から脱却して短期間で近代化を成し遂げた日本を、中国再生の重要な参照モデルと捉えた。とりわけ、君主制を打破し国民国家を築くという発想は、明治維新の経験から強い示唆を受けている。
一方で孫文は、日本の帝国主義的拡張をそのまま肯定したわけではなく、中国は独立と民族自立を最優先すべきだと考えた。その思想は民族・民権・民生から成る三民主義に結実し、革命による王朝打倒と、社会的公正を備えた近代国家の建設を目指すものであった。孫文の日本理解は模倣ではなく、日本の成功と危うさの双方を踏まえ、中国に適合させようとする批判的学習であった点に特徴がある。
孫文と中華民国
孫文は、清末から中華民国成立期にかけて、中国を主として漢民族を中心とする歴史的中国として捉える傾向が強かった。彼の著作や演説では、中国文明の中核を黄河・長江流域、すなわち伝統的に万里の長城の内側に形成された農耕文明圏と見る表現がしばしば見られる。この意味で、中国=長城内という認識があった。
ただし、孫文は一方で、清滅亡後の国家建設においては五族共和(漢・満・蒙・回・蔵)を掲げ、清朝の旧領全体を中華民国が継承すべきだとも主張した。これは、列強による分割を防ぐための政治的・国際法的立場であり、必ずしも民族史観と完全に一致するものではなかった。
孫文と袁世凱の関係
孫文と袁世凱の関係は、協力と対立が交錯した革命と権力の関係であった。
1911年の辛亥革命で清朝が崩壊すると、革命派の指導者である孫文は、清朝を平和的に退位させ国家を成立させるため、最大の軍事力を握る袁世凱と妥協する道を選んだ。1912年、孫文は自ら中華民国の臨時大総統に就任したが、清の退位を実現させる条件として、その地位を袁世凱に譲る。これは、内戦を回避し国家統一を優先した政治的判断であった。
しかし両者の理念は大きく異なっていた。孫文が民権と共和制を重視したのに対し、袁世凱は軍事力を基盤とする権威主義的統治を志向した。袁世凱は大総統就任後、議会を軽視し、やがて皇帝即位を画策する。これにより両者は決定的に対立し、孫文は袁世凱を共和制の裏切り者として批判し、再び革命運動に身を投じることになる。
要するに、袁世凱と孫文は、清を倒す局面では手を組んだが、国家のあり方をめぐって決裂した関係であり、中国近代史における理想と現実、革命と軍事権力の緊張関係を象徴する二人であった。
袁世凱と欧州列強との関係
袁世凱が欧州列強と手を結んでいたという見方は、一定の史実に基づくが、陰謀的な同盟関係というより相互利用の現実主義的関係と理解するのが正確である。
袁世凱は、清末から中華民国初期にかけて、中国で最も強力な近代軍隊である北洋軍を掌握していた。その軍制・装備・訓練は、ドイツやイギリスなど欧州列強の軍事モデルを強く参照しており、列強側も袁世凱を中国の秩序を維持できる現実的指導者と見なしていた。
辛亥革命後、列強が最も重視したのは、中国が分裂・無政府状態に陥らず、債務返済と既得権益が守られることであった。そのため彼らは、理念的革命家である孫文よりも、軍事力と行政掌握力を持つ袁世凱を事実上支持した。1913年の善後大借款に象徴されるように、袁世凱は列強から資金を調達し、その見返りとして既存の条約体制を尊重した。
ただし、袁が列強の操り人形であったわけではない。彼は列強間の対立(英独露日など)を巧みに利用し、自身の政権基盤を強化しようとした。結果として、袁世凱は列強と結託した売国者というより、列強と取引した現実主義者であったと評価される。
要するに、袁世凱は欧州列強と理念を共有して手を結んだのではなく、互いの利益が一致する範囲で協調した存在であり、その関係は近代中国が置かれていた国際環境そのものを映し出している。
奉天軍閥支配から日本の実効支配へ
清滅亡後の満州では、奉天軍閥の首領である張作霖が実効支配を確立し、行政・軍事・財政を掌握していた。張作霖親子は名目上は中華民国中央政府に帰順したが、実態としては引き続き強い自治権を保持して満州を支配していた。
張作霖親子はともに軍閥である以上、重税・徴兵・汚職は避けられず、農村部では不満も大きかった。また統治の正統性は国家ではなく武力に基づくものであったため、人格的崇敬の対象として広く慕われていたとは言いにくい。
こうした状況下で日本は満州鉄道管理地の鉄道・都市・産業を整備し、満州を中国内地よりも秩序だった地域に保った。この点で、商人層や都市住民からは生活が成り立つ日本の管理地は支持さていた。1931年の満州事変以後、日本軍の進出によって張作霖親子は満州から排除され、1932年に満州国が成立する。
満州事変後、国際連盟はリットン調査団を派遣し、1932年の報告書で、日本の満州国建国を中国の主権侵害として否定した。日本政府は、自国の安全保障上の必要性や満州の実情が理解されていないとしてこれに強く反発したが、1933年の連盟総会で報告書が採択され、日本の立場は退けられた。これを受け、日本は国際協調外交の限界を理由に連盟脱退を通告し、1933年に正式に脱退した。日本の脱退は、国際秩序からの孤立と、以後の独自路線への転換を象徴する出来事であった。
リットン調査団
リットン調査団は、1931年の満州事変を受けて国際連盟が派遣した国際調査団であり、1932年に報告書を提出した。報告書は、満州における日本の経済的・安全保障上の特殊利益や、中国側の統治不全・治安悪化といった現実を一定程度認めた。一方で、満州国の成立については、日本軍の関与が大きく、中国の主権を侵害するものであり、国際法上正当とは認められないと結論づけた。満州については、中国の主権下に置きつつ高度な自治を与える国際管理的解決を提案し、日本の軍事行動と満州国承認を否定した点に、この報告の核心がある。
リットン調査団は、満州事変を受けて国際連盟が派遣した国際調査団で、5名の委員から構成されていた。議長は英国の貴族・外交官であるヴィクター・ブルワー=リットン(第2代リットン伯)で、調査団名は彼の名に由来する。他の委員は、アメリカ合衆国代表のフランク・R・マッコイ、フランス代表のアンリ・クローデル、イタリア代表のアルド・ポンツィ、ドイツ代表のハインリヒ・シュネである。日本人委員は含まれず、各国の外交・行政経験者で構成された点が特徴であった。
リットン調査団は形式上中立だったが、完全に価値中立でも政治的に無色でもなかった。リットン調査団は実質面では、当時の国際秩序を主導していた英米を中心とする列強の共通利益、すなわち武力による現状変更を抑制し、中国市場の門戸開放体制を維持することが強く反映されていた。報告書は、中国側の統治不全・治安悪化を明確に認めている点で、日本の主張を全面否定したわけではないが、軍事行動を通じて満州国を樹立したことについては、国際法上容認できないと結論づけた。
つまりリットン報告の本質は、日本の利害を理解はするが正当化することはなく、中国の主権を実態は弱いが法的には維持するというものであった。その実態は急速に影響力を拡大する日本を抑え込み、欧米の権益を守るためのものだった。
この意味で、リットン調査団は日本を一方的に断罪する機関ではなかったが、同時に、日本が満州で主権国家の枠を超えて行動することに歯止めをかける役割を担ったことは否定できない。中立とはどちらにも与しないことではなく、既存の国際秩序を基準に裁くことであり、その基準自体が当時の英米主導秩序であった、という点に理解の要点がある。
孫文と蒋介石の関係
孫文と蒋介石の関係は、師弟関係を基盤とした政治的後継関係と位置づけることができる。
蒋介石は若い頃、日本に留学して軍事を学んだ後、革命運動に身を投じ、1900年代に孫文と出会った。孫文は蒋の軍事的才能と行動力を評価し、信頼できる部下として重用する。1924年、孫文が国民党の再編と革命軍の創設を進める中で、蒋介石は黄埔軍官学校の校長に任命され、ここで革命軍幹部を育成し、軍事的中核を担った。
思想面では、孫文が掲げた三民主義(民族・民権・民生)が、蒋介石の政治的正統性の根拠となった。一方で、孫文が革命と統一を構想した理論家であったのに対し、蒋介石は軍事力と組織力を背景に現実政治を動かす実務家であり、性格と手法には大きな違いがあった。
1925年に孫文が死去すると、蒋介石は「孫文の後継者」を自認し、その遺志を継ぐ形で北伐を主導し、中国統一を進めていく。ただしその過程で、蒋は共産党を排除し、権威主義的体制を築いたため、孫文の理想を実践したのか、変質させたのかという評価は現在も分かれている。
総じて言えば、蒋介石は孫文の思想的遺産を継承しつつ、軍事と権力を通じてそれを現実化しようとした後継者であり、両者の関係は中国近代史における理想と権力の連続と緊張を象徴している。
蒋介石と毛沢東の関係
蒋介石と毛沢東の関係は、協力から始まり、最終的に全面的な内戦へと至った宿敵関係であった。
1920年代初頭、両者は直接の対立関係にはなく、孫文の主導の下で国民党と共産党が協力する第一次国共合作の枠組みに組み込まれていた。蒋介石は国民革命軍の指導者として北伐を進め、毛沢東は共産党内で農民運動の理論家として台頭していく。しかし蒋介石は、共産党の組織拡大と社会革命路線を、中国統一の障害と危険視するようになった。
1927年、蒋介石は上海クーデター(四・一二事件)で共産党勢力を武力排除し、ここから両者の関係は決定的な敵対関係へ転じる。以後、国民党政権は共産党を討伐し、毛沢東は農村を基盤とする武装闘争路線を確立し、長征を経て生き残った。
1937年の日中戦争勃発により、両者は再び第二次国共合作として名目上協力するが、相互不信は解消されなかった。
日本敗戦後、内戦が再燃し、1949年に毛沢東率いる共産党が勝利し、中華人民共和国を建国する。一方、蒋介石は台湾へ退き、中華民国政権を維持した。
総じて、蒋介石と毛沢東の関係は、国家統一を目指す過程で路線と権力をめぐって衝突した二つの革命の対立であり、中国現代史の分岐点を形作った関係であった。
中華民国と中国共産党の資金源
中華民国と中国共産党は、成立期において資金源も性格も大きく異なっていた。
まず中華民国(1912年成立)は、革命直後から慢性的な資金不足に直面した。設立当初の主要な資金源は、①孫文の革命運動を支えた華僑資本(東南アジア・米国在住の中国人)、②清末から続く国内の富商・地主層の寄付、③政権樹立後は欧米列強からの借款であった。特に北洋政府・南京政府期には、英・仏・独・米・日などからの外債に依存し、財政は列強との関係に強く制約された。蒋介石期には、関税・塩税・上海金融界も重要な財源となる。
一方、中国共産党(1921年成立)の初期資金源は極めて限定的で、最大の支えはソ連(コミンテルン)からの資金・組織・人材支援であった。党の設立、機関紙、幹部養成、地下活動費の多くはソ連の援助に依存していた。加えて、国共合作期には国民党政府の枠内で活動することで間接的な資金・保護も得ていた。1930年代以降は、農村根拠地での徴発・土地再分配・自前経済へと資金源を転換していく。
要するに、中華民国は華僑と列強金融に依存する国家財政型、共産党はソ連支援から始まる革命運動型の資金構造を持っており、この差異が両者の政治路線と国家像の違いを決定づけた。
米国と満州
米国は満州に植民地や軍事拠点を持っていなかったが、19世紀末以来、中国に対して門戸開放政策を掲げ、特定国による中国分割や排他的支配に一貫して反対していた。満州についても、中国の領土保全と各国の商機均等が維持されることを重視していた。
1931年の満州事変後、米国は日本の軍事行動を承認せず、1932年にスティムソン・ドクトリンを発表し、武力による現状変更や満州国の成立を承認しない立場を明確にした。ただし、国内の孤立主義世論や軍事介入忌避から、制裁や武力行使には踏み込まなかった。
また米国企業や金融資本は、中国全土と同様に満州にも経済的関心を持っていたが、日本やロシアのような鉄道・行政権益は持たず、主に貿易・投資を通じた関与にとどまっていた。当時の米国は、満州をめぐって軍事介入はせず、国際法と秩序の原則を掲げて日本を牽制する立場を当初は取り続けた。
第一次世界大戦後、米国は中国全体に対して門戸開放政策を掲げ、特定国による排他的支配に強く反対していた。その文脈の中で、1920年代に米国の外交・金融関係者の一部が、満州の鉄道や開発を国際共同管理(国際化)する構想を模索した。これは、日本単独支配を牽制しつつ、米国資本にも参入余地を確保する狙いがあった。
代表例が、1929年に米国の銀行家グループが関与した満州鉄道国際管理案であり、南満州鉄道と東清鉄道を国際シンジケートの下に置く構想であった。しかしこの案は、日本側が日露戦争の戦果として得た正当な権益の侵害として強く反発し、また中国側の同意も得られず、実現には至らなかった。
米国の日本への協調提案は、実態は覇権調整をめぐる外交的駆け引きであったと言えるが、アジア全域への進出を目論んでいた米国は、次第に日本のアジア権益拡大を阻止するために圧力を強めていく。
米国の石油禁輸措置
米国の対日石油禁輸は、1932年のリットン報告書や1933年の日本の国際連盟脱退とは直接連動せず、その約9年後の1941年に実施された。背景には、日本の中国侵略の長期化、仏印進駐、日独伊三国同盟によって、日本が既存の国際秩序に挑戦する存在と米国に認識されたことがある。
米国は武力ではなく経済制裁で日本の拡張を抑止しようとしたが、日本の石油依存度の高さを踏まえれば、これは実質的に戦争継続能力を断つ措置であった。国際法上、石油禁輸は戦争行為ではないが、日本側からは交渉か屈服か開戦かを迫る事実上の最終通告と受け止められた。結果として、禁輸は意図としては抑止、帰結としては開戦誘因となり、戦争を高確率で招く政策であったと評価できる。
米国の太平洋艦隊ハワイ移設
米国が太平洋艦隊をハワイ(真珠湾)へ移設した時期は1940年であり、同年5月に恒常配備として決定・実施された。
当時の大統領はフランクリン・D・ルーズベルトである。従来、太平洋艦隊の主基地は米本土西岸(サンディエゴ)にあったが、日本の対中戦争の長期化、仏印進駐の兆し、日独伊三国同盟への接近などを背景に、米国は日本をアジア・太平洋地域における最大の脅威と認識するようになった。
移設の主な理由は三点に整理できる。第一に、抑止である。艦隊を日本に近いハワイへ前進配備することで、日本の南進や対米行動を思いとどまらせる狙いがあった。第二に、即応性の向上で、フィリピンや中部太平洋の防衛に迅速に対応するためである。第三に、政治的シグナルとして、日本に対し米国の関与と覚悟を明確に示す意図があった。
ルーズベルト大統領の太平洋艦隊のハワイ前進配備、対日経済制裁、在米日本資産凍結、石油全面禁輸といった一連の措置は、日本にとって国家の生存基盤を脅かす性質を持っていた。米国側は交渉による抑止を期待したが、日本が追い詰められれば武力行使に出る可能性を十分に理解していたと考えられる。総じて、ルーズベルトが開戦を招く条件を整えた政策決定者であったという評価は成り立つ。
米国と中国共産党の関係
中国共産党は1921年、上海で結成されたが、その直接的な支援者はソ連(ボリシェヴィキ政権)とコミンテルンである。党の創設、理論指導、資金援助、幹部育成はいずれもコミンテルンの主導下で行われ、初期指導者の多くはソ連の革命理論と組織モデルに強く依拠していた。
中国共産党の設立に米国が深く関与していたことは、史実としては表立っては支持されていないが、1919年の五・四運動を通じて、米国由来の民主主義思想や自由主義的言説が中国知識人に流入し、旧体制批判の知的土壌を形成していた。また米国は門戸開放政策を掲げ、列強の中で比較的反帝国主義的に見えたため、中国の若い知識人が西欧思想全般に接近する契機を与え、上海などの国際租界が革命家に活動空間を提供していた。米国は中国進出の遅れを取り戻すため、日本の権益をそっくり奪おうと、新しく出来た共産党を抱え込もうとして形跡が垣間見られる。
第二次世界大戦終戦までの満州
1933年以降1945年までの満州は、名目上は満州国が存在したが、実態としては日本の関東軍による軍事支配下に置かれていた。この時期、中国共産党は満州を日本支配下の敵後方と位置づけ、武装闘争を展開した。共産党は旧軍閥勢力や抗日義勇軍を統合し、東北抗日聯軍を組織して各地でゲリラ戦を行ったが、日本軍の大規模討伐や住民統制、補給遮断により次第に劣勢となり、1940年代初頭までに多くが壊滅、あるいはソ連領へ退却した。
一方、ソ連は1930年代を通じて満州情勢を慎重に注視しつつ、直接介入は避けていた。ソ連は日ソ中立条約を背景に、日本との全面衝突を回避しながら、中国共産党勢力の一部を極東地域で保護・再編する役割を果たした。そして1945年8月、対日参戦を決定したソ連軍は、圧倒的戦力で満州に侵攻し、関東軍を短期間で崩壊させた。この進攻は満州国の終焉をもたらすと同時に、満州を中国共産党にとって最大の戦略拠点へと転換させる契機となった。満州はこうして、日本支配から解放され、中国内戦と新中国成立へ直結する舞台へと変貌していった。
第二次世界大戦後の満州
満州(中国東北部)は、1945年の日本敗戦後、いったん中華民国が接収したが、直後に国共内戦が再燃した。1948年、共産党軍は遼瀋戦役で国民党軍を壊滅させ、満州全域を制圧した。この時点で、満州は事実上中国共産党の支配下に入っている。
翌1949年10月1日、中華人民共和国が建国されると、すでに制圧されていた満州は新国家の領土として正式に組み込まれた。
現在、満州(歴史的な呼称)は、中華人民共和国の中で中国東北部(東北三省)として統治されている。具体的には、遼寧省、吉林省、黒竜江省の三省で構成され、いずれも中央政府直轄の通常の省級行政区である。自治区(民族自治)や特別な政治的地位は与えられていない。
統治体制は全国と同様に、中国共産党の指導の下で、省・市・県の各級政府が行政を担う。かつて清代に行われたような軍政や特別管理、満州族のための保護区的措置は存在せず、法制度上は漢地と同一である。もっとも、少数民族政策として満州族(満族)は少数民族として認定され、文化・言語・祭祀の保存は制度上保護されているが、政治的自治権は限定的である。
経済面では、重工業・エネルギー・農業の拠点として位置づけられ、国有企業の比重が高い老工業基地である一方、近年は再振興政策(東北振興)により産業転換が進められている。
満州統治に関する日本とロシアへの評価
現在の中華人民共和国では、日本が建国した満州国と、ロシア(帝政ロシア/ソ連)による満州関与は、明確に異なるトーンで報じられている。
中国の公式史観では、満州国は一貫して日本帝国主義が武力で樹立した傀儡国家と位置づけられる。統治の近代化要素(鉄道・都市整備など)は原則として評価対象外か、被害の文脈に従属させて語られる。
一方、19世紀後半のロシアによる満州領土獲得や東清鉄道支配は、不平等条約による主権侵害として認めつつも、扱いは比較的簡略で、現在の中露友好関係に配慮した表現が多い。1945年のソ連軍進駐は対日参戦による解放として肯定的に語られる傾向が強い。
中国の公的叙述は、満州史を抗日ストーリーの中核に置き、日本の責任を明確化する一方、ロシアの関与は歴史的事実として限定的に言及し、現代外交との整合性を重視している。結果として、同じ外来支配でも日本は強く批判、ロシアは相対的に抑制的に報じられているのが現状である。漢民族主体の現在の中華人民共和国が、ソ連よって奪還できた満州族の地を、抗日勝利の象徴として語ることに歴史の不可思議さを感じてします。
