タオ-老子

タオ-老子
2000年刊
老子著
加島祥造編著

老子とは誰か

老子は、中国古代思想の源流を築いた人物であり、道家思想の祖とされる。しかし、その実在については現在でも定説がない。司馬遷の史記によれば、老子は春秋時代末期の人物で、本名を李耳(りじ)といい、周王朝の守蔵室の役人であったとされる。孔子より年長であったとも伝えられる。伝説では、周王朝の衰退を見て世を去ろうとした老子が、西方へ向かう函谷関で関守に請われ、道徳経五千字を書き残したという。これが後に老子と呼ばれる書物となった。ただし現代研究では、老子は一人の著作ではなく、戦国時代にかけて複数の思想が集積された可能性が高いと考えられている。しかし重要なのは、老子という人物の実在以上に、老子が語ろうとした思想である。その中心には、人間は欲望によって自らを苦しめているという深い洞察がある。老子は、強さ、成功、権力、名誉を求め続ける文明に対し、本当に豊かな生き方とは何かを問い続けた思想家であった。

加島祥造の経歴

加島祥造は1923年、東京に生まれた。早稲田大学英文科を卒業後、アメリカ文学研究者として活動し、特にD・H・ロレンス研究で知られるようになる。しかし中年以降、彼は近代文明や競争社会への違和感を強めていった。やがて長野県伊那谷へ移住し、自然の中で静かな生活を送るようになる。その中で彼が深く共鳴したのが老子であった。加島は、老子を単なる中国古典としてではなく、自然に逆らわずに生きる智慧として受け止めた。そして、その思想を日本人の感覚へと柔らかく翻訳した。彼の文章には、学者特有の硬さがない。むしろ、人生を長く生きた人間だけが持つ静かな諦観と優しさがある。だからこそ本書は、多くの人にとって、老年の書として愛されている。

本書の内容

本書は、中国古典老子を、難解な漢学や宗教哲学としてではなく、人生を軽やかに生きるための智慧として現代日本語へ翻訳し直した作品である。加島は、厳密な学術注釈よりも、老子の息づかいを伝えることを重視した。そのため本書は、中国哲学書であると同時に、人生後半をどう生きるかを静かに問い直す書になっている。加島の訳文は非常に柔らかい。原典の持つ静けさ、余白、力を抜いた感覚を、日本語として自然に響かせている。そのため、老子に初めて触れる読者でも、難しい思想書というより、深い人生の言葉として読むことができる。

1.道(タオ)とは何か

本書の中心にあるのは、道(タオ)という概念である。しかし老子のいう道は、単なる道徳や規則ではない。それは、宇宙を貫いている自然の流れである。人間は本来、その流れの中で生きている。しかし文明が発達し、人間が知識や欲望を肥大化させるにつれ、人は自然な生き方を失っていった。老子は、それを無理をしている状態と見た。人は成功しようと焦り、他人に勝とうとし、自分を大きく見せようとする。しかしその結果、心は不安と競争に支配される。老子は、本来の自然へ戻れと語る。それは原始生活へ戻れという意味ではない。過剰な欲望から自由になれという意味である。

2.無為自然の思想

老子でもっとも有名な思想の一つが無為自然である。これは誤解されやすい。何もしない怠惰を意味しているのではない。老子のいう無為とは、自然に逆らった無理な力みをやめるという意味である。人間は、自我によって物事を過剰に支配しようとする。しかし、支配しようとするほど混乱が増える。老子は、水を理想とした。水は争わない。低い場所へ流れる。しかし最終的には岩を削るほど強い。老子は、柔らかさこそ本当の強さだと考えた。

3.文明批判としての老子

本書で加島は、老子を単なる癒しの思想としてではなく、文明批判の書として読んでいる。人間が知識や欲望を肥大化させた結果、かえって苦しみを増やしている。便利さを追求するほど、人は忙しくなる。豊かさを求めるほど、不満が増える。成功を追うほど、他人との比較に苦しむ。老子は、その根本原因を足るを知らない心に見た。

足るを知る

1.足りない感覚

人間の苦しみは足りないという感覚から始まる。老子は、人間の苦しみの根源を、もっと欲しいという心に見た。財産、名誉、権力、評価、知識、成功。人間は何かを得ても、すぐに更に別のものを欲し始める。そのため、心は永遠に安らがない。満足できない人間は、どれほど持っていても貧しい。逆に、足るを知る者は富む。これは単なる節約や禁欲ではない。自分の存在を、他人との比較なしに受け入れるということである。

2.足るを知るは敗北ではない

現代社会では、もっと成長しろ、もっと成功しろと常に求められる。しかし、それが人間を疲弊させる。もちろん努力を否定しているわけではない。問題なのは、際限のない欲望である。欲望は、一時的には人を動かす。しかし、それだけで生きると、人生は永遠の競争になる。老子は、本当に大切なものは、静かな心の中にしか現れないと考えた。だから彼は、引くことを教えた。争わず、誇らず、奪わず、急がない。すると人は、初めて世界の豊かさに気づく。

3.老子思想の到達点

老子が最終的に語りたかったのは、自然と共にある生き方である。人間は、自我によって世界を支配しようとする。しかしその結果、自分自身が欲望の奴隷になる。だから老子は、柔らかく生きよと語った。硬いものは折れる。しかし柔らかいものは生き残る。人生後半になるほど、この思想は深くなる。若い頃は、人は何者かになろうとする。しかし長く生きるほど、人は何を得るかより、どう在るかの方が大切だと知る。本書は、その静かな到達点を教えてくれる書である。

未来の輪郭