円の支配者

Princes of the Yen
Japan’s Central Bankers and the Transformation of the Economy
2001年行
Richard A. Werner著

目次

リチャード・A・ヴェルナーの経歴

リチャード・A・ヴェルナーはドイツ生まれの金融経済学者であり、銀行による信用創造理論および中央銀行研究の第一人者として知られている。英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクス政治経済学院で経済学を学び、更にオックスフォード大学において経済学博士号を取得した。その後、日本経済研究に深く関わり、東京大学への留学経験を持つほか、日本銀行や大蔵省の客員研究員を務め、日本経済の政策形成過程を内部から観察した経験を有している。また、上智大学の教授として教育活動を行い、後に英国のウィンチェスター大学において銀行学と経済学の教授を務めた。彼は1995年に量的緩和(Quantitative Easing)という言葉を世界で初めて提唱した人物としても知られている。

本書の内容

1.高度成長を支えた窓口指導の仕組
 
本書の中心的な主張は、日本の高度経済成長は市場の自律的な力によって生まれたものではなく、日本銀行による信用創造の管理によって実現されたというものである。戦後の日本では、日本銀行は民間銀行に対して融資額を事実上割り当てる窓口指導と呼ばれる政策を実施していた。銀行が企業へ貸し出す資金量を中央銀行が直接調整することで、製造業や輸出産業など国家戦略上重要な産業へ資金を集中させた。ヴェルナーは、この信用配分政策こそが日本の奇跡的成長を支えた本当の原動力であったと主張する。一般に語られる技術革新や勤勉な国民性は重要な要素ではあるが、それだけでは説明できず、成長の背後には中央銀行による信用創造のコントロールが存在していた。
 
2.バブル経済は意図的に作られたのか
 
本書でもっとも議論を呼んだ部分は、日本のバブル経済とその崩壊についての分析である。ヴェルナーによれば、日本銀行は1980年代後半に信用供給を急拡大させることによって不動産と株式市場への資金流入を促し、結果として巨大な資産バブルを形成した。その後、1989年以降になると日本銀行は急激に信用供給を絞り込み、これによって株価と地価が暴落し、長期不況が発生した。バブルの形成と崩壊は市場の失敗ではなく、中央銀行による信用供給量の急激な変化によって生み出された現象である。著者は、日本銀行が単にインフレ抑制を目的として行動したのではなく、日本経済の構造改革を推進するために意図的に信用収縮を行った可能性を示唆している。
 
3.失われた十年の真の原因
 
1990年代の長期停滞は、一般には資産価格の崩壊や企業の過剰債務によるものと説明される。しかし本書は、その根本原因を銀行貸出の減少に求める。企業活動の原資となる資金が供給されなければ、生産も投資も雇用も縮小する。経済成長を決定する最大の要因は金利水準ではなく、実際に供給される銀行信用の量である。ヴェルナーは、経済学が重視してきた金利中心の金融政策論を批判し、信用創造量を分析対象とすべきだと主張した。この考え方は後に信用創造理論として知られるようになった。
 
4.官僚機構と中央銀行の権力闘争
 
本書は単なる金融論に留まらず、戦後日本における権力構造の分析でもある。著者によれば、日本経済を動かしていたのは政治家や財界だけではなく、日本銀行、大蔵省、通商産業省という三つの官僚機構であった。その中でも実際に経済活動を左右する資金供給を支配していた日本銀行こそが最も強い権力を持っていた。法律上は大蔵省の下位機関であった日本銀行が、実際には日本経済全体を左右する巨大な権限を持ちながら、その権力の存在を表に出さなかった点に著者は注目している。
 
5.中央銀行は民主主義の外部に存在するのか
 
本書の議論は日本だけに限定されていない。著者は、中央銀行が通貨発行権と信用創造を支配する限り、その影響力は選挙によって選ばれた政府を上回る可能性があると指摘する。そして中央銀行の独立性が進む現代においては、民主主義による統制を受けない巨大な権力機関が誕生する危険性があると警告している。この問題提起は、その後の世界金融危機や量的緩和政策の拡大によって、むしろ現代的な意義を増したといえる。

本書が言いたかったこと

経済を本当に動かしているのは政府予算でも税制でもなく、銀行による信用創造とそれを統制する中央銀行であるという事実である。人々は市場経済を自由な競争の結果として理解しているが、実際には資金供給の方向と量を決定する金融システムが経済の形を決定している。その金融システムを支配する者は、産業構造、雇用、資産価格、社会制度を変える力を持つ。ヴェルナーは、日本の戦後史を通じて、中央銀行の権力は一般に想像されているよりはるかに大きく、その権力に対する民主的監視と透明性が不可欠であることを訴えた。

日銀はなぜ?(付記)

なぜ日本銀行はバブル崩壊を招くような急激な金融引締めを行い、その後も長期間にわたり信用供給の回復に慎重であり続けたのか。この問題については現在でも経済史研究者の間で統一した見解は存在していない。しかし、大きく三つの視点から理解することができる。
 
1.金融自由化と経済構造転換の必要性

戦後日本の高度経済成長は、日銀による窓口指導を通じた信用配分政策によって支えられていた。しかし1980年代になると、企業は銀行融資以外にも社債や海外市場など多様な資金調達手段を持つようになり、従来型の統制は機能しにくくなった。日銀は、行政主導の資金配分による成長モデルを終わらせ、市場原理を重視する金融システムへ移行する必要があると考えた可能性がある。その結果として、信用供給を抑制し、旧来の経済構造を整理しようとしたという見方である。
 
2.日銀と大蔵省との権力関係

戦後の日本では金融行政の主導権は大蔵省が握っていたが、日銀は実際には通貨供給と銀行貸出を管理することで経済全体に大きな影響力を持っていた。バブル崩壊後、金融行政の失敗が問題視される中で、日銀の独立性を強化すべきとの議論が高まり、1998年の新日銀法によって中央銀行としての独立が大きく拡大した。したがって、一部の研究者は、日銀が金融危機を通じて自らの政策的重要性を示し、大蔵省からの独立を獲得しようとした可能性を指摘している。
 
3.国際金融秩序と米国の影響

1980年代後半、日本経済は世界最大級の経済大国となり、多くの日本企業が世界市場を席巻していた。一方、米国は巨額の貿易赤字に苦しみ、日本に対して市場開放や円高を強く求めていた。プラザ合意以降の急激な円高対応として実施された金融緩和は、結果としてバブル形成を促進した。しかし、米国が日銀に対してバブル崩壊を指示したことを示す証拠は現在まで存在していないが、それでも、最終的な結果として米国経済が復活し、日本経済が長期停滞に入った事実から、米国の戦略的意図を疑う見方が有力である。
 
日銀の行動を単一の理由で説明することは難しい。金融自由化という世界的潮流、大蔵省との権力関係、国際金融環境の変化、中央銀行自身の政策思想が複雑に重なり合った結果として、1990年代の政策選択が行われたと考えるのが最も妥当であろうが、日銀が一貫して米国に従属しているのは拭えない疑念である。円の支配者が提起した最大の問題は、経済を実際に動かしているのは政府や市場だけではなく、信用創造を支配する中央銀行であり、その巨大な権力を誰が監視し、誰が統制するのかという問いであり、それは結局のところ日本が真の独立を果たす以外に道はない。
 
 
未来の輪郭
 

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