Gustav Klimt Drawings
1983年刊
Serge Sabarsky
著者とクリムトの経歴
セルジュ・サバルスキー(1912–1996年)は、オーストリア生まれの美術商、収集家、美術史家であり、20世紀初頭のウィーン美術を欧米に紹介した最大の功労者の一人である。ナチスの迫害を逃れてアメリカへ移住した後、ニューヨークで画廊を経営し、クリムトやシーレ、ココシュカなどの作品を積極的に紹介した。後年にはニューヨークのノイエ・ギャラリー創設にも関わり、オーストリア近代美術研究の発展に大きく貢献した。
クリムトは、1862年にウィーン近郊で生まれたオーストリアを代表する画家であり、1897年に設立されたウィーン分離派の創設者の一人として知られる。初期には歴史画や装飾壁画を制作したが、次第に象徴主義的で装飾性の高い独自の様式を確立した。黄金を多用した接吻やユディトなどの作品によって名声を得たが、実際には生涯を通じて数千点にも及ぶ素描を残しており、それらは彼の創作の基盤を成している。クリムトは1918年に脳卒中により死去したが、その素描群は20世紀美術における最も重要なデッサン作品群の一つと評価されている。
本書の内容
1.素描から見るクリムト芸術の出発点
本書は、一般には豪華な金箔絵画の画家として知られるクリムトを、卓越したデッサンの画家として再評価することを目的としている。掲載作品は主として1870年代末から1917年頃までの素描作品によって構成され、若き日の写実的なアカデミックな訓練の成果から晩年の自由で官能的な線描まで、その変遷を追うことができる。特に初期作品では、人物の骨格や筋肉を厳密に観察したデッサン能力の高さが示されており、後年の装飾的な画風の背後に古典的な基礎訓練が存在していたことが明らかにされている。
2.女性像への終生の探究
本書の中心を占めるのは女性像の研究である。クリムトはモデルに長時間ポーズを取らせ、多数の素描を制作した後、それらを組み合わせて最終作品を構成していた。彼の女性像は単なる解剖学的研究ではなく、身体の動きや感情の気配、心理状態までも線によって表現しようとする試みであった。うつむく姿勢、眠る女性、髪を整える仕草、踊る身体など、日常の何気ない動作の中に官能性と精神性が同時に見出されている。
3.線による造形の革命
クリムトの線は輪郭を説明するための道具ではなく、それ自体が感情や生命力を表現する独立した存在として扱われている。本書では、細く震えるような鉛筆線、流れるような連続線、途切れながらも形態を暗示する省略された線など、多様な線の表現が紹介されている。絵画では金箔や装飾模様に覆われて見えにくい人体構造が、素描では驚くほど簡潔かつ明快に表現されており、クリムトが本質的には線の芸術家であったことが理解できる。
4.絵画制作の舞台裏
本書には接吻やダナエなどの代表作へ発展していく準備素描も数多く掲載されている。完成作では見えなくなった試行錯誤の痕跡や構図変更の過程が明らかになり、クリムトが単なる装飾画家ではなく、極めて論理的かつ構築的に作品を組み立てていたことが示されている。一枚の完成作の背後には数十点、時には百点近い素描が存在し、彼の創作が徹底した観察と反復によって支えられていたことが理解できる。
5.晩年の自由な線描世界
晩年の作品になると、線はさらに簡潔になり、わずかな筆致だけで人体の存在感を表現するようになる。不要な説明は削ぎ落とされ、最小限の線によって最大限の生命感を生み出す境地に到達している。これらの素描は20世紀モダニズムの先駆ともいえるものであり、後のエゴン・シーレやココシュカの表現主義的線描へと繋がっていく重要な役割を果たした。
本書が言いたかったこと
クリムトの芸術の本質は金箔や装飾性にあるのではなく、その根底を支える卓越したデッサン能力と観察力にある。華麗な装飾絵画は、無数の素描による人体研究と構図研究の上に成立していたのであり、クリムトは本質的には線によって思考する画家であった。彼の素描は単なる下絵ではなく、完成作と同等の芸術的価値を持つ独立した作品である。そこには20世紀美術へ向かう新しい表現の可能性が既に宿っていた。
