戦後世界と金本位制の終焉
戦後の国際通貨制度は1944年のブレトンウッズ協定に基づき、米ドルのみが1トロイオンス35ドルで金と交換できるドル・金本位制として成立した。各国通貨はドルに固定され、金は国家間決済を支える信用資産として機能した。しかし1960年代、ベトナム戦争や財政赤字拡大によりドルが過剰発行され、海外流通ドルが米国の保有金を上回ると、ドルへの信認が低下した。1971年のニクソン・ショックで米国は金との交換を停止し、ブレトンウッズ体制は崩壊した。以後、金価格は市場で決定されるようになり、金は通貨の裏付け資産から国際的な投資・準備資産へと大きく転換した。
変動相場制時代の金市場
1970年代はインフレと石油危機が相次ぎ、法定通貨への信頼が揺らいだ。その結果、金価格は急騰し、1980年には当時史上最高値である850ドルに達した。これはソ連のアフガニスタン侵攻やイラン革命など地政学的緊張も背景にあった。その後1980年代から1990年代にかけては、米国の高金利政策や冷戦終結、世界経済の安定によって金価格は長期間低迷した。この時代には各国中央銀行も保有金を売却する傾向が強く、金は過去の資産であるとさえ言われた。しかし2000年代に入ると状況は再び変化する。ITバブル崩壊、2008年のリーマンショック、欧州債務危機など金融システムへの不安が高まり、中央銀行も再び金を積極的に購入する側へ転じた。更に2020年以降、新型コロナウイルスへの対応として世界中で大規模な金融緩和が行われたことにより法定通貨価値への懸念が高まり、金価格は歴史的高値圏へ上昇した。近年では世界各国の中央銀行が外貨準備として金保有を増やしており、とりわけ新興国の購入が顕著である。
ロンドン中心の金価格決定システム
現在でも世界の金価格の基準はロンドン市場にある。1919年以来続くロンドン・ゴールド・フィキシングは、現在ではLBMA(ロンドン貴金属市場協会)の電子オークションによって毎日基準価格が決定されている。この価格は現物取引、ETF、デリバティブ取引など世界中の金市場で参照される国際的ベンチマークとなっている。しかし近年では、このロンドン中心の価格決定に対してアジア諸国、特に中国は強い問題意識を持つようになった。世界最大の金消費国・生産国の一つである中国は、金の需要の中心はアジアにあるにもかかわらず、価格決定権はロンドンに偏っていると考え、市場改革を進めてきた。
中国による新たな金市場構築
中国は2002年に上海黄金交易所(SGE Shanghai Gold Exchange)を設立し、本格的な現物金市場を整備した。更に2016年には上海黄金価格(Shanghai Gold Benchmark Price)を開始し、人民元建てによる独自の金価格指標を導入した。これによって世界で初めて人民元建ての国際的金価格ベンチマークが誕生した。中国政府は金市場を単なる投資市場としてではなく、人民元国際化の重要なインフラとして位置付けている。近年では人民銀行が継続的に金準備を積み増しており、中国国内の金ETFや現物投資も急速に拡大している。上海黄金交易所からの現物引き出し量も高水準を維持しており、中国国内での実需が価格形成に与える影響は年々大きくなっている。
香港が目指す新たな金価格決定の拠点
近年最も注目されている変化は、香港を中心とした新たな金市場構想である。香港では110年以上の歴史を持つ金銀業貿易場(CGSE)が組織改革を経て、新たな香港金取引所(Hong Kong Gold Exchange)として再編され、国際金融センターとしての機能強化が進められている。2026年には香港政府と中国政府が共同で、香港をアジア最大級の金取引・保管・決済センターへ育成する方針を打ち出した。特に重要なのは、以下のような一連の制度改革である。
第一に、香港で中央金決済システム(Central Gold Clearing System)が開始され、現物金取引の決済効率が大幅に向上した。
第二に、上海黄金交易所とのDelivery Connectが開始され、香港と上海の間で現物金の受渡しが容易になった。
第三に、人民元建て金先物の導入が検討され、将来的には香港が人民元建て国際金市場の中心となる可能性が高まっている。
第四に、香港の保管能力を2030年までに約2,000トン規模へ拡大する計画が進められており、シンガポールと並ぶアジア最大級の金保管拠点を目指している。
これらは単なる市場整備ではなく、ロンドンに依存してきた世界の金市場に対抗するアジア独自の価格形成・決済インフラを構築する試みとして注目されている。
中央銀行による金買い増しと脱ドル
近年の金市場で最も重要な動きは、世界各国の中央銀行による金購入である。ロシア、中国、インド、トルコ、中東諸国などは外貨準備に占めるドル比率を徐々に引き下げ、その代替として金保有を増加させている。これはドル離れというよりも、地政学リスクや金融制裁リスクへの備えとして金が政治的に中立な準備資産と再評価されているためである。ウクライナ戦争以降、各国は外貨準備が制裁によって凍結され得ることを認識し、自国で保有可能な金への関心を一段と強めた。世界黄金協会も、中央銀行需要が近年の金価格を支える重要な要因になっていると分析している。
現物金の保有主体
現在までに人類が採掘した金の総量は約21万6,000トンと推計されている。このうち、各国の中央銀行・政府が保有する金は3万6,000トンで、全体の17%を占める。国別では、米国が8,133トン(全採掘量の3.8%)、ドイツが3,352トン(1.6%)、イタリアが2,452トン(1.1%)、フランスが2,437トン(1.1%)、ロシアが2,330トン(1.1%)、中国が2,300トン(1.1%)、スイスが1,040トン(0.5%)、インドが880トン(0.4%)、日本が846トン(0.4%)、オランダが612トン(0.3%)を保有している。これら上位10か国だけで2万4,400トンとなり、人類が採掘した金全体の11.3%、中央銀行保有金全体の68%を占めている。これらの金は通貨の信用維持、外貨準備の分散、金融危機や地政学リスクへの備えとして保有されている。
民間では、宝飾品として9万7,000トン(全体の45%)、地金・金貨など投資用として4万9,000トン(23%)が保有されている。特に中国とインドの個人・家計が世界最大級の現物保有者であり、両国だけで世界の宝飾用金需要の約半分を占める。さらに欧米や日本の富裕層、ファミリーオフィス、年金基金、金ETF運営会社なども、投資家資産の裏付けとして数千トン規模の現物金を専門保管施設に保有している。工業用途や電子部品向けに利用されている金は1万7,000トン(8%)である。すなわち現物金の保有主体は、国家・中央銀行が17%、民間の宝飾品が45%、投資用地金・金貨が23%、その他工業・企業用途などが15%を占めており、金は今日でも国家と民間の双方が保有する世界最大級の実物資産として、国際金融と資産保全の基盤を支える重要な役割を果たしている。
今後の金市場
今後の世界の金市場は、ロンドン一極集中からロンドン・上海・香港の三極構造へ移行する可能性がある。ロンドン市場は依然として国際金融の中心であり続けると考えられるが、現物需要の中心は既にアジアへ移っている。中国は上海で人民元建て価格を形成し、香港で国際投資家との接点を整備することにより、価格決定・決済・保管を一体化した新たなエコシステムの構築を目指している。最も、現時点ではLBMA価格が依然として世界標準であり、中国・香港の価格がそれに完全に取って代わった訳ではない。しかし、香港の決済システム、上海との受渡し、人民元建て商品の拡充などは、将来的な価格形成の重心が徐々にアジアへ移る可能性を示す重要な動きである。総じて戦後80年の金市場の歴史は、ドルの裏付け資産であった金が、市場が価格を決める国際資産となり、現在では多極化する世界金融秩序を支える戦略資産へと変貌してきた。中国と香港が進める新たな金市場構想は、その変化を象徴する出来事であり、今後の国際金融システムを考える上で極めて重要な意味を持っている。
