Faust
1808年刊
Johann Wolfgang von Goethe著
ゲーテの経歴
ゲーテは1749年にドイツのフランクフルトで生まれ、1832年に没した。詩人、小説家、劇作家であると同時に、政治家、法律家、科学研究者としても活動したドイツ最大級の知識人であり、近代ヨーロッパ精神を象徴する存在である。ゲーテは青年期に若きウェルテルの悩みによってヨーロッパ全土に名声を得たが、その後は感情的激情だけではなく、人間精神の成熟や宇宙的秩序への探究へと関心を深めていった。ファウストは彼が若い頃から晩年に至るまで六十年以上をかけて書き続けた生涯最大の作品であり、単なる文学作品ではなく、近代人とは何かという問いを描いた精神的叙事詩である。ファウストは中世ドイツに伝わる悪魔と契約した博士ファウストの伝説を素材としている。しかしゲーテはそれを単なる怪奇譚としてではなく、人間の知識欲、欲望、愛、政治、文明、救済、そして永遠への憧れを描く巨大な哲学劇へと昇華した。
ファウストの内容
物語は天上の序曲から始まる。神は悪魔メフィストフェレスに対し、人間ファウストを試すことを許す。メフィストフェレスは、人間は結局快楽や欲望に敗れる存在だと嘲笑するが、神は努力する限り、人は迷いながらも正しい道へ進むと語る。この冒頭は、ファウスト全体が単なる善悪の物語ではなく、人間存在そのものを巡る壮大な実験であることを示している。
主人公ファウストは、神学、哲学、医学、法学などあらゆる学問を究めながら、なお深い虚無感に苦しんでいる老博士である。彼は知識を得ても人生の本質には到達できず、絶望の末に自殺さえ考える。しかし復活祭の鐘の音に救われ、死を思いとどまる。そこへ悪魔メフィストフェレスが現れる。彼は人間の欲望と懐疑を体現した存在であり、皮肉と知性に満ちた悪魔である。メフィストフェレスはファウストに、「もしお前がある瞬間に完全な満足を覚え、時よ止まれ、お前は美しいと言ったなら、その時お前の魂をもらう」という契約を持ちかける。ファウストは、人間の究極的充足など存在しないと信じ、その契約を受け入れる。
第一部では、若返ったファウストが若い娘グレートヒェンと恋に落ちる。しかしその恋は悲劇へ向かう。ファウストは情熱のまま彼女を愛するが、その結果、彼女の母は死に、兄は決闘で命を落とし、グレートヒェン自身も社会的破滅へ追い込まれる。彼女は絶望の中で自らの子を殺してしまい、牢獄に収監される。ファウストは彼女を救おうとするが、彼女は神への信仰を捨てず、救われているとの天の声を受けながら死を迎える。ここでは、人間の情熱と欲望が他者を破壊しうるが、純粋な魂にはなお救済の可能性が残されることが描かれる。
第二部になると作品世界は一気に拡大する。個人的恋愛悲劇から、文明論・歴史論・宇宙論へと飛躍する。ファウストは皇帝の宮廷に仕え、紙幣経済や権力操作に関わり、古代ギリシア世界へ旅し、美の象徴ヘレナと結ばれる。ここでは古典古代と近代精神との融合が主題となっている。晩年のファウストは、海を埋め立てて新たな土地を築き、人々が自由に生きられる理想社会を作ろうとする。この巨大事業の中で彼は初めて、未来の人類のために働くという超個人的理想へ到達する。彼はその理想の幻影を見た瞬間、遂に時よ止まれ、お前は美しいと口にする。そして契約通り死を迎える。しかしメフィストフェレスは敗北する。悪魔はファウストの魂を得ようとするが、天使たちがそれを奪い返すのである。なぜならファウストは、生涯を通じて迷い、過ちを犯しながらも、絶えずより高いものを求め努力し続けたからである。作品最後では永遠に女性なるものが人間を高みへ導くという神秘的な言葉によって幕が閉じられる。
ファウストが言いたかったこと
人間とは不完全でありながら、永遠により高いものを求め続ける存在である。ゲーテは、人間が過ちを犯さない存在だとは考えなかった。むしろ欲望、迷い、苦悩、失敗こそが人間の本質であると見ていた。しかし同時に、人間には現状に満足せず、より真理へ、より自由へ、より創造的な世界へ向かおうとする力があるとも考えた。ファウストは知識を求め、愛を求め、権力を求め、美を求め、最後には人類全体の未来を求めた。しかしそのどれも完全には手に入らない。それでもなお前へ進もうとする意志が、人間を価値ある存在にするのだとゲーテは語っている。ファウストは、近代文明への深い洞察でもある。科学、経済、国家、欲望、開発、技術。これらは人間を進歩させる一方で、破壊や悲劇も生み出す。ゲーテは近代を単純に肯定も否定もせず、人間精神がそれらをどう超えていくかを問い続けた。ファウストとは、一人の男の物語であると同時に、人類文明の精神史である。ゲーテは最後に、完全な人間ではなく、努力し続ける人間にこそ救済があると結論づけた。
