The Drawings of Edgar Degas
1963年刊
Jaromír Pečírka著
著者とドガの経歴
ヤロミール・ペチールカは1891年に現在のチェコに生まれた美術史家であり、ヨーロッパ美術、とりわけルネサンスから近代に至る素描芸術の研究者として知られている。美術作品を単なる完成作品としてではなく、制作過程に現れる思考の痕跡として読み解くことを重視し、多くの素描研究書を著した。本書においても、ドガの作品を完成作品の補助資料として扱うのではなく、独立した芸術表現として評価する視点を提示している。
ドガは1834年にパリに生まれ、1917年に没したフランス近代美術を代表する画家である。一般には印象派の画家として知られるが、本人は印象派という呼称を好まず、自らを写実主義者と考えていた。舞踊家、競馬、浴女、洗濯女など近代都市パリの日常を主題とした作品で知られるが、その芸術の基礎を支えていたのは卓越したデッサン能力であった。幼少期から古典教育を受け、特にアングルの線描芸術を深く敬愛し、生涯にわたって線こそ芸術の根幹であるという信念を持ち続けた。彼の踊り子の絵やパステル画の背後には、膨大な観察素描と人体研究が存在していた。
本書の内容
1.古典的素描教育とドガの出発点
本書の冒頭では、若きドガがルーヴル美術館で古典彫刻やルネサンスの巨匠たちを模写していた時代に焦点が当てられている。特にアングルの影響は決定的であり、輪郭線によって人体の構造を把握する方法が彼の芸術の出発点となったことが論じられる。ペチールカは、ドガを印象派画家というよりむしろ古典主義の最後の継承者として位置づけている。色彩よりも構造、瞬間的印象よりも形態の正確な把握を重視する姿勢は、生涯変わることがなかった。
2.舞踊家の身体研究
本書の中心を占めるのは、バレリーナを描いた膨大な素描群の分析である。ドガは完成作品を描く前に、踊り子の足の向き、腰のねじれ、腕の動き、重心の移動などを執拗に研究した。これらの素描は単なる下絵ではなく、身体運動を理解しようとする科学的観察であった。ドガは舞台上の華やかな姿よりも、稽古場で疲れ切った踊り子やストレッチを行う瞬間に強い関心を示した。そこには理想化された美ではなく、生きた身体の真実が存在していた。
3.動きの連続性の探究
本書が特に高く評価しているのは、ドガが瞬間を描いたのではなく、運動の連続を描こうとした点である。一枚の紙の上に同一人物を何度も描き直し、腕の角度や脚の位置を少しずつ変化させていく方法は、後の映画のコマ送りや写真連続撮影を思わせるものであった。ドガの素描は、人体が空間の中をどのように移動するかという問題への挑戦であり、近代芸術における運動表現の先駆となった。
4.競馬と馬の研究
踊り子と並んで本書で大きく扱われるのが馬の素描である。競走馬の疾走する姿を描くため、ドガは馬の骨格や筋肉の動きを詳細に観察した。ペチールカは、馬のスケッチにおいてもドガが解剖学的理解と瞬間的観察を融合させていたことを指摘する。疾走する馬の脚の配置や身体の傾きは、当時の写真技術による動体研究とも共鳴していた。
5.浴女と人体の新しい視点
1880年代以降の浴女シリーズについて、本書は見られる身体ではなく生活する身体を描いた作品群として評価している。髪を拭く女性、浴槽から立ち上がる女性、身体を洗う女性など、従来の西洋美術ではほとんど描かれなかった無防備な瞬間が描かれている。そこでは古典的な理想美は解体され、日常の身体の動作が芸術となっていた。
6.線の芸術としてのドガ
ペチールカは、ドガの最大の特徴を線による彫刻的表現に見出している。ドガの線は輪郭を囲むためのものではなく、重量、緊張、動き、空気感までを表現する手段であった。そのため彼の素描は単純な線画でありながら、立体感と運動感に満ちている。著者はこれをルネサンス以来のヨーロッパ素描芸術の到達点の一つと評価している。
本書が言いたかったこと
ドガの偉大さは華やかな踊り子の絵や鮮やかなパステル画にあるのではなく、それらを支えていた膨大な観察と素描の営みにある。ドガにとって素描とは完成作品へ至る準備作業ではなく、対象を理解するための思考そのものであった。見ること、理解すること、そして描くことは彼にとって同じ行為だった。ペチールカは、本物の芸術とは才能の閃きではなく、観察と研究の積み重ねから生まれることを、ドガの素描を通じて示そうとした。
