正法眼蔵
1231-1253年頃
道元著
道元の経歴
道元は1200年、鎌倉時代初期に生まれた日本曹洞宗の開祖であり、日本仏教史を代表する思想家である。幼くして父母を失ったと伝えられ、この早い時期の死との遭遇が、無常という問題を深く考える一つの契機になったとされる。13歳頃に比叡山に入り、天台教学を学んだ。しかし道元は、仏教では人間には本来仏性が備わっていると説くのに、なぜ悟りを求めて修行しなければならないのかという根本的な疑問を抱いた。この問いは後の道元思想を理解する上で非常に重要である。その後、建仁寺で栄西の系統の禅に接し、明全に師事した。1223年には明全とともに宋へ渡り、中国各地の禅寺を訪ねた。やがて天童山の如浄と出会い、そのもとで修行する。ここで道元は身心脱落という決定的な宗教体験を得たと伝えられる。1227年頃に帰国すると、道元は禅を単なる思想や知識としてではなく、坐禅として日本に伝えようとした。普勧坐禅儀、弁道話などを著し、京都深草の興聖寺で修行者を指導した。その後越前へ移り、現在の永平寺の基礎を築いた。道元にとって仏教とは、死後の救済を約束するだけの宗教ではなかった。食事をすること、掃除すること、歩くこと、坐ること、他人と接することなど、日常の一つ一つの行為そのものが修行であった。この徹底した思想が正法眼蔵全体を貫いている。1253年、病気療養のため京都へ向かい、同地で53歳の生涯を閉じた。
正法眼蔵の内容
1.修行と悟り
正法眼蔵の最も重要な思想の一つが修証一等である。一般には、修行とは悟りという目的に到達するための手段であると考えられる。しかし道元は、この考え方を根本から変える。悟るために坐禅するのではなく、正しく坐禅しているその行為自体が仏の実践である。これは人生にも応用できる考え方である。人間は幸福になるために努力し、成功するために働き、何かを達成するために現在を犠牲にする。しかし道元の立場では、未来のある一点に人生の完成があるのではない。現在行っている一つ一つの行為の中に、すでに人生が存在している。
2.現成公案
正法眼蔵を代表する巻が現成公案である。ここで道元は、仏道を学ぶとは自己を学ぶことであり、自己を学ぶとは自己を忘れることである。これは自分自身を否定するという意味ではない。人間は通常、自分という中心から世界を見る。自分に利益があるか、自分が評価されるか、自分が幸福になれるかという基準で世界を判断している。しかし、その自己への執着を離れると、自分と世界との境界のあり方が変わってくる。花を見る自分と見られる花、山を見る自分と見られる山という二分法を超えて、自分自身も世界の変化の中に存在する一つの現象であることが見えてくる。
3.有時
有時は正法眼蔵の中でも特に哲学的に重要な巻である。普通、時間とは過去から現在、未来へ流れていく容器のように考えられる。しかし道元は、存在と時間を切り離さない。人間が時間の中に存在しているのではなく、人間の存在そのものが時間なのである。幼年期、青年期、老年期が一つの固定した自分を通過していくのではない。幼年期の自分、青年期の自分、老年期の自分は、それぞれの時において完全な存在である。したがって若かった自分こそ本当の自分で、老いた現在は衰えた自分であると考える必要はない。それぞれの時に、それぞれの生命が成立している。
4.生死
道元の思想を理解する上で極めて重要なのが生死の問題である。通常、人間は生を肯定し、死を否定する。できるだけ長く生きることを望み、死を遠ざけようとする。しかし死を完全に排除した生は存在しない。道元は、生と死を単純な対立として捉える考え方から離れようとする。生きている時には生を完全に生き、死ぬ時には死という存在がある。生を死への途中とだけ考える必要もなく、死を生の失敗と考える必要もない。これは死を軽視する思想ではない。むしろ死を生命の外部に追放しないことによって、生をより深く受け入れる。
5.山水経
山水経では、山や川といった自然が単なる人間の観察対象ではなく、仏法を表現する存在として捉えられる。人間は自分を主体、自然を客体として考えがちである。しかし道元にとって、人間だけが特別な存在なのではない。山も川も草木も、存在することによって世界の真理を表している。自然を人間が利用する資源としてだけ見る近代的世界観とは大きく異なる。人間もまた自然界の無数の存在の一つとして、巨大な生命の関係性の中に置かれている。
6.仏性
仏教では一般に、全ての衆生には仏性があると説かれる。しかし道元は、仏性を人間の内部に隠れている宝石のようなものとは考えない。仏性とは自分の中にある何かではなく、存在することそのものに関わる。したがって悟りとは、自分の内部に隠されている特別な能力を発見することではない。自分と世界を固定的に分離している見方を離れ、自分もまた世界の生成変化の中にあることを体得することである。
7.日常生活が修行
道元思想の非常に特徴的な点は、壮大な哲学を説きながら、同時に日常生活を徹底して重視したことである。坐禅だけが修行なのではない。食事を作ること、食べること、顔を洗うこと、衣服を整えること、掃除すること、他者に接することも仏道である。
重要なのは何をするかだけではなく、どのようにするかである。何か別の目的のために現在を消費するのではなく、目の前の行為を完全に行う。その瞬間に人生がある。
8.只管打坐
道元の禅を象徴する言葉が只管打坐である。坐禅を、健康になるため、精神を安定させるため、悟りを得るための道具として考えない。ただ坐るのである。現代人はほとんどすべての行為に目的を求める。仕事は収入のため、勉強は資格のため、運動は健康のためというように、現在の行為を未来の成果に従属させる。道元はこの構造を逆転させる。坐ることの目的は坐ることの外側にはない。ただ坐ることが完成した行為である。ここには正法眼蔵全体を貫く思想がある。人生もまた、何か巨大な目的を達成して初めて価値を持つのではない。今ここに存在し、今なすべきことをなすこと自体に意味がある。
本書が言いたかったこと
人生の意味はどこにあるのか。我々は人生の価値を未来に置きやすい。成功すれば幸福になる、財産を築けば安心できる、目的を達成すれば人生に意味が生まれると考える。しかし目的を達成しても、次の目的が現れる。しかも最後には老いと死が待っている。この考え方を突き詰めれば、人生の大部分はまだ完成していない時間になってしまう。道元は、この時間観を根底から覆す。人生は未来の完成へ向かう準備期間ではない。坐っている時には坐ることが人生であり、食べている時には食べることが人生であり、老いている時には老いている現在が人生である。だからこそ、若さを失ったから人生の価値が減る訳でも、社会的な役割を失ったから存在する意味がなくなる訳でもない。道元が説く自己を忘れるという思想もここにつながる。自分の成功、自分の失敗、自分の評価、自分の幸福という狭い尺度から離れてみれば、人間はもっと巨大な世界の働きの中に存在していることが見えてくる。生きる意味を失った時、人は新しい意味を必死に探そうとする。しかし道元なら、意味を探し続ける自分への執着を一度手放せと言うだろう。ただ坐る。ただ歩く。ただ食べる。花を見る。風を感じる。人と話す。それらを未来の何かのための手段にしない。正法眼蔵が示すのは、人生に外から意味を付け加える思想ではない。生きているこの瞬間が、既に欠けるところのない生命の現れであると気づく思想である。
