ドガのパステル

Degas Pastels
1994年刊
Richard Kendall and Jill DeVonyar著

著者の経歴

リチャード・ケンドールはイギリスを代表するドガ研究者であり、マンチェスターで教鞭を執った後、独立研究者・展覧会キュレーターとして活動した。ロンドンのコートールド美術研究所で学び、ドガ研究の第一人者として数多くの著作と展覧会を手がけた。特にドガのパステル技法、女性像、舞踊作品の研究で高く評価されている。

ジル・ドゥヴォニャールはアメリカの美術史家であり、ドガと音楽、バレエ、日本美術との関係など幅広いテーマを研究してきた。ケンドールとの共同研究によって、ドガ芸術の実証的研究を大きく前進させた。

本書の内容

1.パステル画家としてのドガの再評価

本書は、ドガを印象派の画家としてではなく、パステルという媒体を革命的に変貌させた芸術家として位置づけている。19世紀のパステルは一般に素描や軽い着彩に用いられる画材と考えられていた。しかしドガはその常識を覆し、油彩に匹敵する重量感と色彩の深みを持つ作品を創り出した。

2.バレリーナから浴女へ

本書には踊り子、洗濯女、歌手、浴女、競馬場などを題材とした代表作が多数掲載されている。とりわけ1880年代以降の浴女シリーズは、人体の曲線と色彩の振動を表現するための実験場となっていたことが示されている。人物は自然な姿勢ではなく、身体をひねり、かがめ、背を向けた姿で描かれる。これは人体の形態よりも、色彩と線によるリズムを追求した結果であった。

3.描くのではなく構築する

ドガは即興的に描いたのではなく、何年にもわたり作品を修正し続けた。下層の色の上に新たな色を重ね、さらに定着液を吹き付け、その上からまた描くという工程を繰り返している。完成した画面は数十層にも及び、一枚の作品というよりも色彩の堆積物のような構造を持っている。

4.科学者のような画家

著者は、ドガをロマン的天才ではなく、実験を重ねる科学者のような存在として描いている。新しい顔料、紙、定着液、モノタイプ版画との併用など、彼は生涯にわたり技法の研究を続けた。晩年には視力の衰えさえも色彩の強烈さへと転化し、独特の幻想的世界を作り上げていった。

具体的なパステル技法

1.多層的な重ね描き

ドガは一度描いて終わることはほとんどなく、パステルを塗り重ねて複雑な色彩を作り上げた。青の上に赤、赤の上に黄、更に緑を重ねることで、光が内部から発するような効果を生み出している。

2.フキサチーフの異常な多用

最も特異な技法の一つが定着液(フキサチーフ)の使用である。通常の画家が一、二回程度しか用いないのに対し、ドガは描いては定着し、再び描き、更に定着する工程を何度も繰り返した。これによって画面は非常に緻密になり、油彩のような厚みと透明感が同時に生まれている。

3.蒸気や湿気による顔料の融合

パステル表面に蒸気や湿気を与え、粉末同士をわずかに溶け合わせる方法も試みていた。これにより境界が柔らかくなり、独特の霞のような色調が得られている。

4.テレピンやアルコールの利用

乾いたパステルの上に溶剤を加えることで顔料を液状化し、水彩や油彩に近い効果を得る実験も行われている。こうして線描と絵具的な面が融合した。

5.モノタイプとの混合技法

版画による黒い下地の上からパステルを重ねる方法も多用した。暗い背景と鮮やかな色彩の対比によって、舞台の照明や夜の雰囲気が生まれている。

6.指による擦筆効果

紙や布よりも自分の指で直接顔料を擦り込み、柔らかなグラデーションを作り出している。皮膚の質感や髪の流れには、この指による操作が重要な役割を果たしている。

7.粗い紙の利用

表面のざらついた支持体を用い、顔料を何層にも保持できるよう工夫していた。これが重厚な色彩表現を可能にした。

8.線と色彩の分離

輪郭線を先に描き、その後に色彩を重ねるのではなく、色彩そのものによって形態を作り出した。晩年の浴女やロシア舞踊シリーズでは、線と色が一体化し、抽象表現に近い領域に到達している。

本書が言いたかったこと

ドガの偉大さは主題や印象派的な明るさにあるのではなく、素材と技法を通じて新しい絵画空間を創造した点にある。ドガはパステルを単なる素描用画材から独立した芸術媒体へと変貌させた。彼の作品は偶然の産物ではなく、絶え間ない実験と修正、そして素材への深い理解から生まれたものである。ドガは画家であると同時に研究者であり、パステル芸術の革命家であった。

未来の輪郭