デ・クーニング アメリカの巨匠

de Kooning
An American Master
2004年刊
Mark Stevens/Annalyn Swan著

著者の経歴

マーク・スティーヴンスは米国の美術評論家で、ニューヨーク誌等の美術評論を担当した。ニューヨーク・タイムズなどにも寄稿し、美術史と芸術家の人物像を結びつけた評論で知られる。アナリン・スワンはタイム誌の記者、ニューズウィーク誌の音楽評論家・芸術担当上級編集者を務めたジャーナリストである。二人は約10年にわたりデ・クーニングの生涯を共同調査し、本書を刊行した。

本書の内容

1.貧困と幼少期

ウィレム・デ・クーニングは1904年、オランダの港湾都市ロッテルダムに生まれた。両親は彼が幼い頃に離婚し、家庭は経済的に不安定で、母親との関係にも強い緊張があった。本書は、こうした幼少期の経験が、後年のデ・クーニングの性格や女性との関係、芸術表現にどのような影響を与えたのかを詳しく検討している。彼は12歳頃から装飾美術の工房で働き始め、職人として製図、装飾などの技術を身につけた。同時にロッテルダムの美術学校で学び、伝統的な素描や造形の基礎を習得した。これは、後に彼が抽象表現主義の画家として成功する上で重要な意味を持った。デ・クーニングの絵画は一見すると即興的で、激しい筆遣いによって自由に描かれているように見えるが、その根底には人体の構造や形態を正確に把握する高度な技術が存在していた。彼の革新性は伝統的な絵画技術の否定から生まれたのではなく、その技術を徹底的に習得した上で、既存の表現を解体することから生まれた。

2.アメリカへの密航

1926年、22歳のデ・クーニングは貨物船に密航し、米国へ渡った。当初の目的は、必ずしも純粋芸術の画家として成功することではなく、商業美術や装飾の仕事によって経済的な成功を収めることであった。彼はニューヨークに移り住み、看板制作、室内装飾などで生活費を稼ぎながら、画家としての道を模索した。当時の米国美術界は、ヨーロッパのパリに比べて国際的な評価が低く、若い芸術家にとってニューヨークが世界美術の中心になるとは想像しにくい時代であった。しかし、デ・クーニングはこの都市で、ヨーロッパの伝統に縛られない新しい芸術を生み出す可能性を発見していく。デ・クーニングはオランダの文化的伝統を身につけていた一方、米国では社会的な地位も名声も持たず、自分自身の存在を一から築かなければならなかった。この境遇は、既存の芸術的な権威から距離を取り、独自の表現を模索する姿勢につながったと考えられる。

3.ゴーキーとの友情

ニューヨークでのデ・クーニングの芸術形成に大きな影響を与えた人物が、アルメニア出身の画家アーシル・ゴーキーである。ゴーキーもまた移民であり、ヨーロッパの近代絵画、とりわけピカソやミロ、シュルレアリスムの影響を受けながら独自の表現を追究していた。デ・クーニングはゴーキーと深い友情を結び、彼の絵画に対する厳格な姿勢と豊かな美術知識から多くを学んだ。二人は互いの作品を批評し、画面の構成、線の動き、色彩、人体表現について議論を重ねた。ゴーキーは、絵画が単なる視覚的な再現ではなく、画家の内面や記憶、感覚を表現するものであることをデ・クーニングに示した。しかし、デ・クーニングはゴーキーの様式をそのまま模倣することには満足せず、次第に自分自身の造形言語を模索していく。本書は、芸術家の独創性が孤立した天才のひらめきによって突然生まれるのではなく、他の芸術家との友情、競争、模倣、反発を通して形成されることを描いている。

4.不況下の修業

1930年代の米国は世界恐慌の影響下にあり、多くの芸術家が経済的に困窮していた。デ・クーニングも生活のために様々な仕事を続けながら、制作の時間を確保しようと努力した。彼はニューディール政策の一環として設けられた公共事業促進局(WPA)の美術事業にも参加し、壁画などの制作に携わった。しかし、外国籍であったことから事業への参加には制約が生じ、安定した収入を得ることは容易ではなかった。彼は商業美術の仕事で実用的な技術を磨く一方、純粋芸術の制作では、その技術を既存の目的から解放しようと試みた。装飾や看板では明確な形や意味を伝えることが求められるが、彼の絵画では形を崩し、線や色彩の力を引き出すことが重要になっていった。こうして、職人的な技術と前衛的な実験精神が結びつき、後年の大胆な絵画表現の基礎が築かれた。

5.抽象への転換

1940年代に入ると、デ・クーニングは具象的な人物表現と抽象的な画面構成を往復しながら、独自の絵画を発展させていく。彼は人体や風景を出発点としながら、それらの形を分解し、線、面、色彩の関係として再構成することを試みた。当時のニューヨークでは、ポロック、ロスコ、クラインなどが、それぞれ異なる方法で新しい抽象絵画を追究していた。デ・クーニングは彼らと交流しながらも、抽象絵画から完全に人物像を排除することには抵抗を感じていた。彼にとって、抽象と具象は互いに対立するものではなく、同じ絵画の中に共存しうる表現であった。1948年に開かれた初個展では、黒と白を中心とした力強い抽象画を発表し、批評家たちの注目を集めた。本書は、この時期の作品を通して、デ・クーニングが抽象表現主義の中心人物となりながらも、特定の様式や理論に自分の絵画を固定することを拒み続けた姿を描いている。

6.絵画と格闘

デ・クーニングの制作方法を理解する上で重要なのは、彼が一枚の絵画を完成させるまでに、極めて長い時間と激しい試行錯誤を重ねたことである。彼は絵具を大胆に塗り重ねたかと思えば、削り取り、描き直し、画面の一部を切り取ったり、別の場所へ移したりすることもあった。完成に近づいた作品を再び破壊するように描き直すことも珍しくなかった。著者は、彼の制作過程を詳細に追い、作品が最初から明確な構想に従って完成するものではなく、画家と画面との絶え間ない応答によって形成されていくことを示している。デ・クーニングにとって、絵画とは頭の中にある完成像を忠実に再現する作業ではなく、描くという行為を通じて未知の形を発見する過程であった。彼は偶然に生まれた線や色彩を利用しながらも、それを単なる偶然のまま放置するのではなく、長年の経験によって培われた感覚で画面全体を調整した。この制作方法は、自由な即興と厳格な造形判断が矛盾せずに共存することを示している。

7.代表作の誕生

1950年に完成した大作「発掘」は、デ・クーニングの抽象絵画における重要な到達点である。画面には複雑に交錯する線と面が広がり、白や淡い色彩の中に、人体や都市の断片を思わせる形が浮かび上がる。しかし、それらの形は明確な対象として固定されず、見る者の視線に応じて現れたり消えたりする。著者は、この作品を、デ・クーニングが具象と抽象の境界を徹底的に曖昧にした成果として位置づけている。彼は抽象絵画を、現実世界から完全に離れた純粋な幾何学的構成として考えていた訳ではなかった。むしろ、都市の雑踏、人間の身体、記憶の断片、日常生活の感覚などを画面に取り込み、それらを一つの固定した意味に還元しないことを目指していた。発掘は、対象を明確に描かなくても、絵画が現実の複雑さや生命力を表現できることを示した作品であり、デ・クーニングを抽象表現主義の代表的な画家として確立する上で重要な役割を果たした。

8.女性像への執着

デ・クーニングの芸術で最も議論を呼んだのが、1950年代初頭に制作されたウーマンシリーズである。代表作ウーマンⅠには、大きく見開いた目、強調された歯、誇張された乳房などを持つ女性像が描かれ、その姿は美しく理想化された伝統的な女性像とは大きく異なっている。画面には激しい筆遣いと荒々しい色彩が重なり、人物の身体は解体されながらも強い存在感を放っている。この作品は、女性に対する敵意や暴力的な感情を表現しているとして批判された一方、女性像を美化してきた西洋美術の伝統を根底から覆す革新的な作品としても評価された。本書は、デ・クーニングの母親との関係、妻エレインとの複雑な結婚生活、女性への強い関心などを踏まえながら、女性像が彼にとって生涯にわたる重要な主題であったことを検討する。

9.抽象と具象の融合

デ・クーニングの絵画の革新性は、抽象と具象のいずれかを選択するのではなく、その二つを絶えず行き来したことにある。20世紀の近代美術では、絵画が現実の対象を再現する伝統から離れ、色彩や形態の自律性を追究する方向へ進んでいた。しかし、デ・クーニングは純粋な抽象を最終的な到達点とは考えなかった。彼は女性の身体や風景、都市の印象などを繰り返し描きながら、その形を解体し、抽象的な筆触の中に溶け込ませていった。見る者は、ある瞬間には人物の顔や身体を認識するが、次の瞬間にはそれが線や色彩の運動へと変化して見える。この曖昧さこそがデ・クーニングの絵画の重要な魅力である。彼は絵画に明確な意味や完成した秩序を与えることを避け、見る者が作品の中で絶えず新しい形や関係を発見できるようにした。芸術とは既知の世界を再現するものではなく、まだ存在していない視覚的な経験を生み出すものである。

10.ポロックとの競争

1940年代から1950年代にかけて、ニューヨークの抽象表現主義は国際的な注目を集め、ポロックとデ・クーニングはその中心人物となった。ポロックは床に置いたキャンバスに絵具を滴らせるドリッピング技法によって、従来の絵画制作を大きく変革した。一方、デ・クーニングは筆を用いた激しい描画と、人体や風景の痕跡を残す独自の表現を発展させた。二人は互いの才能を認めながらも、芸術的な評価や名声をめぐって競争する関係にあった。ポロックが絵画の表面全体を均質な運動の場として扱う方向へ進んだのに対し、デ・クーニングは形の出現と消失、空間の奥行き、人物の存在感などを重視し続けた。本書は、抽象表現主義が一つの統一された様式ではなく、異なる個性を持つ芸術家たちの競争と交流によって形成された運動であることを明らかにする。また、1956年のポロックの事故死によって、デ・クーニングはニューヨーク派を代表する画家として一段と大きな注目を集めるようになった。

11.エレインとの結婚

デ・クーニングの私生活において重要な存在が、画家であり美術評論家でもあった妻エレインである。二人は1930年代末に出会い、1943年に結婚した。エレインは夫の才能を深く理解し、作品の制作や芸術界での活動を支える一方、自らも画家として独自の仕事を続けていた。しかし、二人の結婚生活は安定したものではなく、互いの恋愛関係、飲酒、経済的な問題、芸術家としての競争心などによって複雑なものとなった。デ・クーニングには他の女性との関係もあり、その一人ジョーン・ウォードとの間には娘リサが生まれた。エレイン自身も独立した芸術家であり、夫の才能を支えるだけの存在ではなかったが、当時の男性中心の美術界では、彼女の活動が夫の名声の陰に隠れることもあった。著者は、二人の関係を単純な愛情や裏切りの物語としてではなく、互いに強い個性を持つ芸術家が、相手を必要としながらも完全には理解し合えない関係として描いている。

12.名声と孤独

1950年代にデ・クーニングは世界的な名声を獲得し、作品は高く評価されるようになった。しかし、その成功は必ずしも彼に精神的な安定をもたらさなかった。彼はニューヨークの芸術家たちが集まる酒場シダー・タバーンなどで、クラインや詩人オハラらと交流し、夜遅くまで芸術や人生について語り合った。一方、飲酒量は増え、女性関係も複雑になり、私生活は次第に混乱していった。デ・クーニングは名声を求めながらも、名声によって自分の自由が奪われることを恐れていた。彼は特定の作品や様式によって評価されることを嫌い、成功した表現を繰り返すことにも抵抗を感じていた。しかし、美術市場や批評家たちは、彼に抽象表現主義の巨匠としての役割を期待し続けた。ここには、芸術家が自由な創造を求める一方、社会的な成功によって自らの表現を固定されてしまうという矛盾が存在している。

13.風景画への転換

1960年代に入ると、デ・クーニングはニューヨーク中心部の喧騒から距離を置き、ロングアイランド東部のスプリングスに制作拠点を移していく。海岸、砂浜、湿地、草原などの自然環境は、彼の絵画に新しい影響を与えた。作品には明るい色彩や流動的な形態が増え、都市的な緊張感に満ちた初期の抽象画とは異なる表現が生まれる。彼は風景を写実的に描くのではなく、自然の光、空気、水、植物などから受ける身体的な感覚を、色彩と筆触によって表現しようとした。著者は、この時期を単なる衰退や方向転換としてではなく、デ・クーニングが新しい環境の中で自らの絵画を再構築した時代として評価している。彼は抽象表現主義の代表者として成功した後も、その様式に安住することなく、絵画の可能性を探究し続けた。

14.彫刻への挑戦

デ・クーニングは晩年に向かう過程で、絵画だけでなく彫刻にも取り組むようになった。とりわけ1970年代には、粘土を手で押しつぶし、引き伸ばし、ねじるようにして形を作り、それをブロンズに鋳造した作品を制作した。これらの彫刻には、女性の身体や人体の断片を思わせる形態が現れるが、その姿は古典彫刻のように整然としたものではなく、激しい運動の途中で形が固定されたような印象を与える。著者は、デ・クーニングの彫刻が、絵画における筆触の運動を三次元の空間へと拡張したものとして捉えている。彼にとって重要なのは、完成した人体を正確に再現することではなく、手を動かす過程で素材が変化し、予想外の形が生まれることであった。絵画と彫刻は異なる表現形式でありながら、身体的な制作行為を通じて形を発見するという共通の原理によって結びついていた。

15.老いと創造力

1970年代後半から1980年代にかけて、デ・クーニングは飲酒による健康問題や記憶力の低下に直面するようになった。やがて認知症が進行し、日常生活に支援を必要とするようになるが、それでも彼は絵画制作を続けた。1980年代の作品には、それまでの激しい筆遣いや複雑な構成とは異なり、白い余白を大きく残し、赤、青、黄色などの線や色面を流動的に配置したものが多く見られる。著者は、この変化を単純に芸術的な能力の衰退として扱うのではなく、長年にわたって培われた身体的な記憶や造形感覚が、知的な能力の低下とどのような関係にあったのかを検討している。

16.最後の絵画

デ・クーニングは1990年代初頭まで制作を続け、1997年に92歳で亡くなった。晩年の作品では、初期の激しい絵具の重なりや複雑な人体表現が大幅に整理され、流れるような線と明るい色彩が広い画面の中に配置されるようになった。これらの作品は、若い頃の作品と比較すると驚くほど静かで、簡潔な印象を与える。しかし、その線の動きや色彩の関係には、長年にわたって絵画と格闘してきた画家の経験が残されているようにも見える。著者は、デ・クーニングの晩年を、単なる天才の衰退としてではなく、芸術家の創造力が身体、記憶、習慣などの複雑な要素によって支えられていることを考える機会として描いている。彼の生涯は、絵画の技術を習得し、それを破壊し、再び新しい表現を生み出すことの繰り返しであった。最晩年の作品は、その長い探究の延長線上にありながら、創作能力と作品の作者性をめぐる難しい問いも残している。

17.独創性の本質

デ・クーニングは、一つの様式や完成された理論に自分の芸術を固定しなかった。彼は伝統的な素描技術を習得しながら抽象絵画を追究し、抽象表現主義の代表者となりながら具象的な女性像を描き続け、都市的な緊張感に満ちた作品から自然の感覚を取り込んだ風景画へと変化していった。彼の絵画では、対象を描くことと対象を解体すること、偶然に任せることと厳格に構成すること、過去の伝統を継承することと新しい表現を生み出すことが、絶えず共存している。デ・クーニングの芸術を理解するためには、作品を抽象か具象か、伝統か革新かという単純な分類に当てはめるのではなく、その対立を乗り越えようとする制作の過程を見る必要がある。彼の独創性は、完成した一つの様式を発明したことではなく、自らの成功に満足せず、絵画を描くたびに新しい問題を発見し続けたことにあったのである。

本書が言いたかったこと

偉大な芸術家の独創性は、生まれつきの才能だけでなく、伝統的な技術の習得、絶え間ない試行錯誤、既存の成功を否定する勇気によって生まれる。デ・クーニングは抽象と具象、理性と感情、秩序と混沌を対立するものとして捉えず、それらを一つの画面の中で共存させようとした。彼にとって絵画は、完成された思想を表現する手段ではなく、描く行為を通して未知の美を発見する営みであった。また、芸術的な成功が必ずしも人間としての幸福をもたらさず、名声や欲望が創造力を支える一方で、人生を破壊することもある。デ・クーニングの偉大さは、一つの様式を完成させたことではなく、過去の作品に安住せず、最後まで変化し続けたことにある。独創的な芸術とは、既存の美を繰り返すことではなく、自分自身の表現さえ疑いながら、新しい美を探究し続けることである。

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