キリコ回想録

Memorie della mia vita
1945年刊
Giorgio de Chirico著

ジョルジョ・ド・キリコの経歴

ジョルジョ・ド・キリコ(1888-1978年)は、20世紀美術に大きな影響を与えたイタリアの画家であり、形而上絵画の創始者として知られる。ギリシャのヴォロスに生まれ、アテネで幼少期を過ごした後、ミュンヘン美術アカデミーで学び、ニーチェやショーペンハウアーなどドイツ哲学の影響を受けた。1910年前後にはフィレンツェやパリで制作を開始し、人影のない広場、長い影、マネキン人形、古典建築などを組み合わせた独特の世界を築き上げた。1917年にはフェラーラでカルロ・カッラと出会い、形而上絵画運動を確立した。この幻想的で謎に満ちた画風は後のシュルレアリスムに決定的な影響を与え、ブルトン、エルンスト、ダリ、マグリットらから高く評価された。しかし1920年代以降、ド・キリコ自身はルネサンスやバロック美術への回帰を唱え、古典的写実へと作風を転換した。このため、初期作品を絶賛する批評家やシュルレアリストたちと激しく対立し、自らの後期作品こそ成熟した芸術であると主張し続けた。1945年刊行のキリコ回想録は、その芸術人生を本人自身の視点から語った代表的な自伝であり、芸術論である。

本書の内容

1.幼少期と芸術的感性の形成

回想録は、ギリシャで過ごした少年時代から始まる。古代神話に囲まれた風景や、父の鉄道建設事業、母の文化的教育などが、自らの感性を育てた源泉として語られる。後年の広場や列車、古代建築のモチーフが、この幼少期の記憶と深く結び付いていることが明らかにされる。

2.ミュンヘン留学と哲学との出会い

ド・キリコはミュンヘンで古典絵画を学ぶ一方、ニーチェ、ショーペンハウアー、ベックリン、クリンガーらの思想や作品に強い影響を受けた。芸術とは現実を忠実に再現するものではなく、現実の背後に潜む神秘を可視化する営みであるという考えが、この頃に形成された。

3.形而上絵画の誕生

フィレンツェのサンタ・クローチェ広場で経験した啓示の瞬間について詳しく回想する。この体験から秋の午後の謎が生まれ、その後、人のいない広場やマネキン、時計塔、長い影などを用いた独自の形而上絵画へ発展していく。自分の絵画は夢を描くのではなく、日常世界に潜む神秘を発見する試みであると繰り返し強調している。

ジョルジュ・デ・キリコ
ジョルジュ・デ・キリコ
キリコの形而上絵画

4.パリ時代と芸術家たちとの交流

パリではアポリネールやピカソ、コクトーらとの交流が語られる一方、自らが当初ほとんど理解されなかった苦労についても率直に述べている。やがて作品が評価され始める過程と、美術界における名声の獲得が回想される。

5.フェラーラと形而上絵画の完成

第一次世界大戦中に滞在したフェラーラでは、静寂な街並みや倉庫、建築物が創作の重要な源泉となったことが語られる。この時期にカルロ・カッラらと交流し、形而上絵画は一つの芸術運動へ発展していった。著者はフェラーラを最も深く、最も奇妙で、最も孤独な都市と表現し、自らの芸術を完成させた場所として高く評価している。

6.シュルレアリストとの対立

本書の大きな部分を占めるのが、シュルレアリストたちとの対立である。ド・キリコは、彼らが初期作品だけを評価し、自身が後年追求した古典主義を理解しなかったことに強い不満を示している。特にブルトンについては、自分の芸術思想を十分理解しないまま利用したと批判している。芸術とは常に変化し成熟するものであり、一時代の作風だけで評価されることへの反発が全編に貫かれている。

7.古典への回帰

1920年代以降、古典絵画の技法研究に没頭した理由についても詳しく説明される。ティツィアーノ、ラファエロ、ルーベンスらの技法を研究し、古典絵画こそ永遠性を備える芸術であると確信した経緯が語られる。著者は近代美術が技巧を軽視し過ぎたと考え、油彩技法や絵具、下地作りまで詳細に論じながら、真の画家は職人としての技術を持たねばならないと主張する。

8.芸術批評への反論

本書では評論家や市場、美術制度への辛辣な批判も少なくない。流行に左右される批評家や、自分の初期作品だけを神格化する風潮を批判し、画家自身が作品の価値を最も理解していると述べる。また贋作問題にも触れ、自身の名声が高まるにつれて偽物が大量に流通した現実についても回想している。

本書が言いたかったこと

芸術とは時代の流行や他者の評価によって決まるものではなく、画家自身が生涯を通じて追い求める真理の探究である。ド・キリコは、自らが形而上絵画の創始者として歴史に刻まれながらも、その一時期だけで評価されることを拒み、生涯を通じて古典と革新を統合しようと努力した。本書は単なる自伝ではなく、一人の芸術家が誤解や批判を受けながらも、自ら信じる芸術観を最後まで貫いた精神の記録であり、創造とは他者の期待ではなく自己の確信に従う行為であることを訴えている。

私のキリコ(付記)

キリコ
不安な朝
國井正人作
パステル

未来の輪郭