シャガールわが回想

Ma Vie
1931年(日本語版1961年)刊
Marc Chagall著

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シャガールの経歴

シャガールは1887年、帝政ロシア領ヴィテブスクのユダヤ人社会に生まれた。幼少期は敬虔なユダヤ教文化と民俗的世界観の中で育ち、この記憶が生涯の創作の核となる。やがてサンクトペテルブルクで美術を学び、1910年にパリへ渡る。パリではキュビスムやフォーヴィスムなど当時の前衛芸術に触れつつも、それらに完全には同化せず、独自の幻想的表現を確立した。第一次世界大戦により帰国を余儀なくされ、ロシア革命期には一時的に文化行政に関与するが、やがて体制との軋轢から再び亡命し、最終的にフランスを拠点とする。第二次世界大戦中はナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命し、戦後は再びフランスに戻り、晩年まで制作を続けた。彼は油彩のみならず、版画、舞台美術、ステンドグラスなど多領域で活動し、20世紀を代表する画家の一人となった。

記憶と愛が織りなす自伝

本書は一般的な年代記的自伝ではない。むしろそれは、詩のように断片的な記憶と感情が連なった内面の記録である。彼は幼少期のヴィテブスクの風景、家族、宗教儀礼、音楽、動物たちを鮮烈なイメージとして語る。そこでは現実と夢の境界は曖昧であり、後の作品に現れるモチーフ(空を飛ぶ人間、逆さまの家、動物と人間の融合)がすでに萌芽として現れている。本書の中心には妻ベラへの愛がある。彼女との出会いと結婚は、シャガールにとって単なる私的経験ではなく、世界を肯定する根源的な力であった。彼の言葉はしばしば恋愛詩のようであり、そのまま絵画の構図へと転化される。芸術家としての苦悩や貧困、パリでの孤独、ロシア革命への複雑な感情も語られるが、それらは政治的分析としてではなく、あくまで感じられた世界として描かれる。本書は、事実の記録というよりも、芸術が生まれる源泉そのものを言語化した書である。

記憶・愛・信仰の視覚化

シャガールの絵画は、一般的な様式分類では捉えきれない独自性を持つ。彼はキュビスムやシュルレアリスムと同時代に活動したが、いずれにも完全には属さず、個人的神話の画家として位置づけられる。

シャガール
シャガール「結婚」

1.浮遊
恋人や動物が空中に漂う構図は、重力からの解放を意味するだけでなく、愛や記憶の超越性を象徴する。現実世界の法則は彼の画面では無効化され、感情こそが空間を支配する。

2.色彩
青や赤は単なる視覚効果ではなく、精神的な状態を示す言語として機能する。青は夢や内面、赤は情熱や生命を象徴し、画面全体が感情の振動として構成される。

3.ユダヤ的宗教性
旧約聖書の主題やキリスト像を通して、迫害と救済、苦難と希望が描かれる。代表作白い磔刑に見られるように、彼はキリストをユダヤ人の苦難の象徴として再解釈した。

4.記憶
絵画の多くが記憶から生成されている。彼にとって絵画とは現実の再現ではなく、内面に蓄積されたイメージの再構成であった。彼の作品は、時間も空間も超越した精神の地図として現れる。

シャガールがもたらした芸術上の価値

シャガールの最大の功績は、近代絵画において失われつつあった詩的世界を再び回復したことである。20世紀の多くの前衛芸術が形式や構造へと向かう中で、彼は一貫して個人的感情と記憶を出発点とした。彼の絵画は外的な物語ではなく、個人の内面に根ざした神話であり、芸術に新たな叙情性を与えた。彼は愛や信仰といった普遍的主題を、前衛的な形式の中で表現した。また彼の作品は国境や宗教を超えて理解される視覚言語を提示した。ユダヤ的背景を持ちながらも、その表現は人間の根源的感情に訴えかける普遍性を持つ。シャガールは個人の記憶を普遍的神話へと変換することで、絵画に新たな生命を与えた画家である。

私のシャガール(付記)

シャガールの夢のような画面を模写しているとこちらまで楽しくなる。私のシャガールをいくつか。

シャガールのロミオとジュリエットを描いた絵画
シャガール「ロミオとジュリエット」
國井正人作
シャガールの魔笛を描いた絵画
シャガール「魔笛」
國井正人作

未来の輪郭

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