The Art Instinct
Beauty, Pleasure, and Human Evolution
2009年刊
Denis Dutton著
デニス・ダットンの経歴
デニス・ダットン(1944-2010年)は米国ロサンゼルスに生まれ、ニュージーランドで没した哲学者、美学者である。ニュージーランドのカンタベリー大学で美学および芸術哲学を教えた。彼は、美学を芸術界内部の理論だけで説明するのではなく、人類学、生物学、進化論まで広げた。人間はなぜ美しいものを好むのか、なぜ物語を作るのか、なぜ高度な技術を持つ芸術家を賞賛するのか、なぜ芸術は世界中の文明に存在するのかという問題を、人間という生物そのものから説明しようとした。その集大成が本書である。
本書の内容
1.芸術はなぜ世界中に存在するのか
ダットンの出発点は極めて単純な疑問である。なぜ人類は芸術を作るのか。食物を得ること、住居を作ること、敵から身を守ることは生存に直接必要である。しかし絵を描くこと、歌うこと、踊ること、詩を作ること、物語を語ることは、一見すると生存に不可欠ではない。それにもかかわらず、芸術的活動の存在しない人間社会はほとんど見つからない。文化によって形式は異なるが、彫刻、装飾、音楽、舞踊、物語、詩など、何らかの芸術活動が世界各地に存在する。ダットンは、この普遍性が芸術の生物学的起源を考える重要な手掛かりになると考える。
2.風景画とサバンナ
世界各地の人々に好まれる風景には、一定の共通性がある。水辺があり、樹木があり、開けた草地があり、遠くまで見渡せ、同時に身を隠す場所もあるような風景である。これは偶然ではない。人類が長い進化過程を過ごした東アフリカのサバンナに似ている。水があることは生存に不可欠であり、樹木は食物や避難場所を提供し、開けた場所は獲物や敵を発見するために有利である。したがって私たちがある風景を美しいと感じる感覚の一部には、祖先の生存に有利だった環境を好む心理的傾向が残っている可能性がある。美的感覚は完全に自由な文化的発明ではなく、非常に古い人類の記憶を背負っている。
3.芸術と人間の本性
ここからダットンは人間の本性(human nature)という問題へ進む。人間の美的価値観は社会、教育、階級、歴史、権力などによって形成される。ダットンは文化の影響を否定しない。しかし文化だけでは説明できない普遍性が存在すると考える。人間は巧みな技術に感心する。新しいものに驚く。物語に没頭する。悲劇を見て涙を流す。リズムを楽しむ。他人の創造性に感動する。こうした反応が非常に多くの文化に存在する以上、その基盤には人類共通の心理構造があるのではないかと考える。
4.自然選択と芸術
芸術能力は進化の中でどのように形成されたのか。一つの可能性は、芸術が生存に直接役立つ適応であったという考え方である。もう一つは、芸術が別の能力から派生した副産物だという考え方である。言語能力、知能、模倣能力、社会性などが発達した結果として芸術が生まれたという説明である。特に重要なのが性選択である。ダーウィンが提唱した性選択とは、生存そのものではなく、配偶者を獲得する競争によって特徴が進化するという考え方である。孔雀の巨大な尾は生存にはむしろ不利である。しかし雌を惹きつけるために発達したと考えられる。ダットンは芸術にも似た側面があると考える。美しい歌を歌う、複雑な物語を作る、巧みな彫刻を作る、高度な技術を示すことは、知能、創造性、身体能力などを他者へ示す行為となる。芸術作品は、人間が自分の能力を社会や異性へ示すディスプレイとして進化した可能性がある。芸術の高度な技巧がなぜ人々から賞賛されるのかという問題も、この視点から説明できる。
5.技巧をなぜ賞賛するのか
私たちは簡単に作れるものよりも、制作に長い時間と訓練を必要とするものを高く評価する傾向がある。極めて精密な彫刻、難しい楽曲の演奏、巨大建築、写実的な絵画などである。ダットンによれば、これは単なる文化的慣習ではない。人間は他人の作品を見ることで、その背後にある知能、技術、忍耐、集中力、創造性を推測する。したがって芸術作品は物体そのものだけでなく、これを作ることのできた人間の能力を表示している。
6.想像力という進化能力
芸術にとって想像力は非常に重要である。存在しない世界を頭の中に作る能力は、文学だけでなく、人間の計画能力と関係している。明日の狩りを考える。敵の行動を予測する。将来の住居を設計する。他人が何を考えているか想像する。こうした能力と物語を作る能力は深いところでつながっている。芸術は生存とは無関係な贅沢品なのではなく、人間の高度な想像能力が最も豊かに発揮された領域である。
7.芸術と自己家畜化
ダットンは芸術を自己家畜化という興味深い観点からも考える。人間は集団生活を行う中で、衝動を抑制し、他人と協力し、社会的評価を意識するようになった。芸術も社会的活動である。踊り、音楽、儀式、物語、装飾などは集団の結束を強め、共通する感情や価値観を作る。芸術は個人的な自己表現であると同時に、人間を社会的動物として形成してきた文化装置でもある。
8.美的価値は普遍か相対的か
ダットンはすべての美的価値が生物学的に決定されているとは主張しない。文化、歴史、教育によって美的嗜好は大きく変化する。しかし何でも自由に美しいと感じられるわけでもない。人間には進化によって形成された心理的傾向があり、文化はその土台の上に多様な芸術を作る。したがって生得か文化かという二者択一ではなく、人間に共通する生物学的基盤と、歴史的・文化的多様性の相互作用として芸術を理解すべきだというのである。
本書が言いたかったこと
芸術は文明が高度に発達した後に生まれた贅沢品ではなく、人間という生物の本性に深く組み込まれている。人間は食べ、生殖し、生存するだけの動物ではない。美しいものを作り、他人の技巧に感心し、歌い、踊り、物語を作り、存在しない世界を想像し、それを他人と共有する。こうした行為が世界中の人間社会に繰り返し現れるのは、偶然ではない。人類が長い進化の中で獲得してきた知能、想像力、社会性、感情、配偶者選択などが複雑に組み合わされ、芸術という行動を生み出した。この考え方に立つと、なぜ芸術が必要なのかという問いへの答えも変わる。芸術は生存に直接必要だから存在するのではない。むしろ人間が単なる生存を超えて、他人の心を理解し、自分の能力を示し、架空の世界を想像し、美を楽しむことのできる特殊な動物へ進化した結果として存在する。同時にダットンの議論で重要なのは、芸術を遺伝子だけで決定されるものと考えていないことである。生物学は芸術の土台を作る。しかしその上に何を作るかは文化によって大きく異なる。本書の最も重要な意義は、芸術を美術史の内部だけで考えるのではなく、数十万年に及ぶ人類進化の歴史の中へ置き直したことにある。洞窟壁画から現代美術まで続く芸術の歴史は、単なる様式変化の歴史ではない。それは人間が作ること、想像すること、美しいと感じることを必要とする動物へ進化してきたことを示す、人類の歴史である。
