2026年9月16日
アラビア半島の地殻変動
アラビア半島とその周辺を俯瞰すると、1991年の湾岸戦争以来続いてきた米国が湾岸の軍事秩序を最終的に保証するという前提が揺らいでいる。米国の圧倒的優位から、イラン・湾岸諸国・イスラエルが競合する多極構造へ変動が起きている。イランは米国の軍事的優位を維持する費用を著しく高めることに成功している。

米軍基地の脆弱化
米国の中東戦略は長年、カタールのアル・ウデイド、バーレーンの第5艦隊司令部、クウェートなどの巨大基地を中心に構築されてきた。しかし、この戦争によってその構造的弱点が露呈した。米国防総省は実際に、イラン戦争後の湾岸地域における米軍配置を縮小・再編を検討している。米軍はイランのミサイル・無人機攻撃に対する基地の脆弱性を認識し、一部兵力を主要基地から分散させている。湾岸の米軍基地がイランから近すぎるという地理的問題が改めて認識されている。シリアでもアル・タンフ基地から米軍は撤収を完了している。これは戦略的には非常に大きい。イランは米軍を軍事的に殲滅しなくてもよい。米国にここに大規模な兵員を置いておくこと自体が危険で高価であると思わせれば、一定の戦略目的を達成できる。
ペルシャ湾の拒否能力
イランが通常の意味でペルシャ湾の制海権を獲得したとは言いにくいが、イランは、米海軍が自由に行動できる海域でなくなればよい、いわゆるA2/AD(接近阻止・領域拒否)能力をかなり実証している。9月初旬にはイランが米空母や駆逐艦を弾道ミサイルで狙ったことが確認されている。新型ミサイルによって空母を撃退したとまでは現時点では断定できないが、それでも戦略的効果は大きい。空母を沈めなくても、空母打撃群に多数の迎撃ミサイル、電子戦、警戒機、護衛艦を投入させ、作戦位置を制約できれば十分である。米国のsea control(制海権・海洋支配)に対してイランがsea denial(海洋拒否・接近阻止)を成立させつつある構図である。
戦略地図を変え始めたイエメン
現在もっとも急速に変化しているのは、イラン周辺ではなくイエメンである。フーシ派は9月、紅海沿岸を南下し、モカやペリム島(マユン島)などを掌握した。これによって紅海南口のバブ・エル・マンデブ海峡に対する監視・攻撃能力が大きく強化された。10万人以上が避難したとも報じられている。南部には依然として反フーシ勢力と国際承認政府側勢力が存在するが、戦略地理を見ると重大である。イラン自身がホルムズ海峡に圧力を加え、イランと連携するフーシ派がバブ・エル・マンデブ海峡に圧力を加える構図になったからである。この二つは世界のエネルギー・海上輸送の最重要チョークポイントである。これはイラン側から見れば、戦場をイラン本土だけに限定させず、戦争の経済的費用を湾岸諸国・米国・欧州・世界経済全体へ拡散する戦略であると解釈できる。
サウジアラビアが直面した二つの危機
サウジアラビアにとって状況は特に深刻である。ホルムズ海峡が危険になった場合、サウジには東部油田から紅海側へ原油を運ぶEast-West Pipelineという重要な迂回路がある。ところが9月、このパイプラインが無人機攻撃を受け、サウジ政府は予防措置として停止した。更にフーシ派がバブ・エル・マンデブ周辺へ進出したため、ホルムズを避けて紅海へ逃がすというサウジの代替輸出戦略そのものが脅かされている。更に重要なのが米国の対応である。ムハンマド・ビン・サルマン皇太子はトランプ大統領にフーシ派への軍事支援を求めたが、トランプは米軍による直接攻撃には同意せず、情報共有・標的情報などの支援にとどめた。これは湾岸王政諸国に強い心理的影響を与える。最終的には米軍が守ってくれるという数十年来の前提が、以前ほど確実ではなくなっている。
対米依存から多面的展開へ
ここに現在の湾岸政治の複雑さがある。サウジ、UAE、カタールなどはイランを安全保障上の重大な脅威と認識している。しかし同時に米国だけに全面依存することにも不安を感じ始めている。実際、9月にはカタールとUAEの高官から、米国だけでは湾岸の安全を保証できないという趣旨の発言が出ている。一方で9月には、米国、イスラエル、サウジ、UAE、バーレーン、クウェート、カタール、ヨルダン、エジプトの軍首脳がドイツで非公開協議を行ったとも報じられている。湾岸諸国は米国かイランかを選択しているのではない。米国との軍事関係を維持しながら、イランとも直接交渉し、自国軍を強化し、中国・欧州などとの関係も広げる。これが新しい湾岸外交になりつつある。
イスラエルとレバノン
イスラエルは南レバノンで軍事作戦を拡大している。イスラエル軍は9月10日、国境から約15kmのAli al-Taher Ridgeでヒズボラの大規模地下施設を破壊し、同地域で地上・地下の作戦統制(Operational control)を確立したと発表した。イスラエル軍は3月以降、南レバノンで複数の戦略拠点を占領し、事実上の緩衝地帯を形成している。軍事的に拠点を破壊することと、ヒズボラを政治的・軍事的組織として消滅させることは全く異なる。ヒズボラが武装解除を拒否し、イスラエルがその武装解除まで撤退しないとすれば、南レバノンの占領・ゲリラ戦・ミサイル攻撃という長期消耗戦へ移行する可能性が残る。
イスラエルの戦略をどう理解するか
イスラエルにとって最大の長期的脅威は、イランの核能力だけではなく、弾道ミサイル、無人機、ヒズボラ、イラク民兵、フーシ派などを組み合わせた多正面攻撃能力である。その能力をイスラエル単独で恒久的に破壊することは困難である。したがってイスラエルには、米国の圧倒的な航空・海軍・情報・兵站能力を対イラン戦に深く関与させる戦略的誘因が存在する。しかし、その戦略には逆説がある。米国が長期戦によって疲弊し、湾岸諸国が米国の安全保障能力を疑い始め、イランがホルムズ、イラク、イエメン、レバノンという複数戦線へ戦争を分散させれば、イスラエルの安全保障環境が改善するとは限らない。短期的なイラン軍事力の破壊と、長期的な地域秩序の安定を得られるとは限らない。
ロシアと中国
ロシアについては、単なる推測を超える情報が出ている。米当局者の情報として、ロシアが米軍艦艇・航空機の位置情報など、イランの攻撃に利用可能な情報を提供していると報じられている。また軍事技術面の支援も指摘されている。ロシア軍自身が米軍と直接戦っている訳ではないが、間接的支援は相当に重要である。中国は性格が異なる。中国はイラン原油の最大の買い手であり、制裁回避、デュアルユース技術、経済面でイランにとって極めて重要である。一方、中国はサウジやUAEとも巨大な経済関係を持つため、イランのために米国との軍事対決へ入る動機は乏しい。最近の分析でも、中国のイラン支援には明確な限界があると指摘されている。したがって、ロシアは米国を消耗させることにより直接的な利益を持ち、中国は米国中心の湾岸秩序が弱まり、自国の外交・経済的影響力が増すことに利益を持つという違いがある。
実は最も重要な国オマーン
軍事ニュースの陰で進んでいるもう一つの重要な動きがある。オマーンとイランは8月25日、ホルムズ海峡について、暫定航路、共同機雷除去、将来的な恒久航路、交通管理などを協議する枠組を公表した。これは極めて重要である。戦争の最終的な決着がイランの完全敗北でも米国の湾岸撤退でもなく、ホルムズ海峡をめぐる新しい地域安全保障体制として形成される可能性を示しているからである。現在その協議はサウジなど湾岸諸国の懸念もあり延期されているが、外交ルートは消えていない。
これからのアラビア半島三つのシナリオ
【第一のシナリオ】低強度戦争の長期固定化
米国はイラン本土への大規模地上侵攻を行わず、海上封鎖、航空攻撃、経済制裁を継続する。イランも、ミサイル、無人機、海上攻撃、イラク民兵、フーシ派などを利用して米国と湾岸諸国の戦争費用を高め続ける。イスラエルは南レバノンで緩衝地帯を維持し、ヒズボラとの消耗戦が続く。この場合、中東は戦争でも平和でもない状態が長期化し、原油価格、海上保険料、物流費、防衛費が構造的に高くなる。
【第二のシナリオ】湾岸諸国による新しい地域秩序
サウジ、UAE、カタール、オマーンなどが、米国だけに安全保障を依存する方式を修正する。米軍との同盟関係は維持する一方、イランとの不可侵的な取り決めを進め、ホルムズ海峡の航行管理、ミサイル攻撃抑制、イエメン問題などを地域交渉へ移していく。これは米国の撤退というより、米国が湾岸の絶対的管理者から域外バランサーへ変わる構造である。米軍基地も完全消滅するのではなく、小型化、分散化、無人化、長距離化していくことになる。
【第三のシナリオ】二つの海峡をめぐる危機の連鎖
最も危険な展開は、ホルムズ海峡とバブ・エル・マンデブ海峡の危機が連動することである。イランがホルムズへの圧力を維持し、フーシ派が紅海南口でサウジ・西側船舶への攻撃能力を更に高め、同時にサウジのEast-West Pipelineや紅海側石油施設への攻撃が続けば、湾岸原油を東にも西にも安全に出せない状態が生じる。そうなれば戦争の中心は領土占領ではなく、世界のエネルギー輸送網を人質にした経済戦争へ一段と近づく。
地殻変動の核心
現在の状況を米国対イランの勝敗だけで見ると、本質を見誤る。米国は依然として世界最大級の航空・海軍戦力を持ち、イランの石油輸出を大きく制約している。イスラエルも南レバノンで実際に軍事的成果を上げている。したがって、米国・イスラエル陣営が軍事的に崩壊している訳ではない。しかしイラン側も別の意味で大きな成果を上げている。それは米軍を直接打倒することではなく、米軍基地、空母、タンカー、石油パイプライン、ホルムズ海峡、バブ・エル・マンデブ海峡という米国中心の中東秩序を支えてきた固定されたインフラを脆弱なものにした。その結果、サウジ、UAE、カタールなどは米国に守ってもらうか、イランに屈するかという二者択一ではなく、自国防衛を強化しながら米国ともイランとも関係を持つ方向を模索し始めている。したがって現在の地殻変動を一文で表現するならば、米国が支配する湾岸から米国・イラン・湾岸諸国が相互に拒否能力を持つ湾岸への移行である。そして今後を決める最大の争点は、領土を誰が占領するかではない。ホルムズとバブ・エル・マンデブという二つの海峡を、誰が、どのようなルールで、安全に通航させるのかである。
