抽象芸術論
1968年刊
瀬木慎一著
瀬木慎一の経歴
著者の瀬木慎一(1931–2017年)は、日本を代表する戦後美術評論家であり、近現代美術、とりわけ抽象美術や前衛芸術の研究・評論活動で大きな足跡を残した。戦後日本において欧米の現代美術理論を積極的に紹介しながら、日本独自の美術のあり方についても考察を続けた。評論家としてのみならず、美術館運営や文化行政にも関与し、日本の現代美術界に広範な影響を与えた。本書は、その瀬木が抽象芸術という二十世紀最大の芸術革命を理論的・歴史的に整理し、その本質を解明しようと試みた代表的著作の一つである。
本書の内容
1.抽象芸術とは何か
本書の出発点は、抽象芸術とは何かという根本的な問いである。瀬木は、抽象芸術を単に対象を描かない芸術として定義するのではなく、現実世界の再現から解放された新しい視覚言語として捉えている。従来の西洋絵画は長い間、自然や人物をいかに正確に再現するかを重要な課題としてきた。しかし十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、その価値観が大きく揺らぎ始める。抽象芸術は、見える世界を描くことよりも、色彩や形態が持つ力を探求する芸術として誕生したのであり、その変化は単なる様式の変更ではなく、人間の世界認識の変化を反映している。
2.抽象芸術誕生の歴史的背景
続いて瀬木は、抽象芸術が生まれた歴史的背景を詳しく分析する。十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、科学技術の発展、都市化、産業化、写真の普及などによって、絵画が担っていた写実的記録の役割は大きく変化した。物理学における相対性理論や量子論、心理学における無意識の研究などが、人間の世界観を根底から変革した。芸術家たちは、もはや目に見える世界だけでは真実を表現できないと考えるようになり、より本質的で精神的な表現を求め始めた。このような時代精神の中から抽象芸術が誕生した。
3.カンディンスキーと精神性の追求
本書では、抽象芸術の先駆者としてカンディンスキーが重要な位置を占めている。瀬木はカンディンスキーを単なる抽象絵画の創始者ではなく、芸術の精神的使命を追求した思想家として評価する。カンディンスキーにとって色彩や線は、音楽の音符のように直接人間の精神へ働きかける力を持っていた。抽象絵画とは対象を捨てた絵画ではなく、むしろより高次の精神世界を表現するための手段であった。
4.幾何学的抽象と秩序の探求
瀬木はさらに、モンドリアンやマレーヴィチに代表される幾何学的抽象について論じる。彼らは自然の模倣を放棄し、水平線や垂直線、単純な幾何学形態によって宇宙の秩序や普遍的構造を表現しようとした。そこには個人的感情を超えた普遍性への希求があり、抽象芸術は単なる感覚的実験ではなく、世界の本質を探究する哲学的営為として理解されるべきである。
5.戦後抽象芸術の展開
本書は第二次世界大戦後の抽象芸術の発展へと論を進める。アメリカではポロックやロスコらによる抽象表現主義が登場し、抽象芸術は新たな段階へ入った。ポロックは行為そのものを作品化し、ロスコは巨大な色面によって宗教的ともいえる精神空間を生み出した。瀬木は彼らの作品を分析しながら、抽象芸術が単なる形式実験から人間存在そのものを問う表現へ発展したことを指摘している。
6.日本の抽象芸術と世界性
著者は日本の抽象芸術についても多くの紙幅を割いている。戦後日本の抽象美術は欧米の影響を受けながらも、東洋的な空間意識や精神性を取り込み独自の展開を見せた。瀬木は、日本の抽象芸術が単なる西洋模倣に終わらず、日本文化に内在する余白や静寂の感覚を活かしながら独自の表現世界を形成したことを高く評価している。日本の抽象芸術は国際的な現代美術の中で独自の位置を占める可能性を持つと論じている。
7.抽象芸術の未来
終盤において著者は、抽象芸術が一時的な流行ではなく、人類の芸術史における不可逆的な変化であると主張する。具象と抽象の対立を超えて、現代芸術はますます多様化していくが、抽象芸術が切り開いた自由な表現の領域は今後も失われることはない。抽象芸術は対象の再現から解放されたことによって、芸術家の精神と創造性を無限に拡張したのであり、その意義は今後も継続すると著者は結論づけている。
本書が言いたかったこと
抽象芸術とは単に何が描かれているかわからない絵ではなく、近代以降の人間の世界認識の変化から必然的に生まれた新しい芸術言語である。抽象芸術は自然の模倣を放棄した結果として生まれたのではなく、むしろ目に見える現実の背後にある精神や秩序、感情、宇宙観といったより深い真実を表現するために生まれた。瀬木は、抽象芸術を理解するためには対象が何であるかを探すのではなく、色彩や形態、空間構成がどのように人間の感覚や精神に働きかけているかを読み取る必要があると考えている。抽象芸術の歴史は、人間が自由な精神活動を求め続けた歴史であり、その意味で抽象芸術は二十世紀芸術の一様式ではなく、人間の創造力の可能性を示した重要な文化的成果である。
