美しき姫君

La Bella Principessa
The Story of the New Masterpiece by Leonardo da Vinci
2010年刊
Martin Kemp and Pascal Cotte著

ケンプとコットの経歴

ケンプはイギリスを代表する美術史家であり、特にレオナルド研究の世界的権威として知られる。オックスフォード大学で長年教鞭を執り、ルネサンス美術、視覚理論、科学と芸術の関係を研究してきた。

コットはフランスの技術者・画像解析研究者であり、高精細マルチスペクトル撮影技術による美術作品分析で知られる人物である。美術作品内部の線描、修正痕、顔料層などを可視化する独自技術を開発し、ルーヴル美術館などでも研究協力を行ってきた。

本書の内容

美しき姫君とは、レオナルド・ダ・ヴィンチ作ではないかとされた肖像素描であり、本書はその真贋論争と発見の経緯を追った。本書は、美術史と最新科学技術が結びついた象徴的研究書である。

1.謎の肖像画との出会い

本書は、一枚の小さな肖像素描から始まる。若い女性を横顔で描いた作品は、長年19世紀ドイツ派の作品程度に考えられ、比較的低価格で取引されていた。しかしその後、一部研究者がこれはレオナルド作品ではないかと考え始める。ケンプは最初、その可能性に慎重だった。しかし作品を詳細に観察するうちに、通常の模倣作とは異なる異常な質の高さを感じ始める。本書は、この疑念が確信へ変化していく過程を追体験させる構成になっている。

2.素描の異常な完成度

本書では、まず作品の詳細分析が行われる。少女の髪の編み込み、衣服の織物感、頬の柔らかな陰影、輪郭線の繊細な処理。そこには極めて高度な観察力と描写力がある。特に重要なのが、左利き特有のハッチング線である。レオナルドは左利きだったため、独特の斜線を用いる。本作品にも同様の線が多数見られ、ケンプはこれを重要な根拠の一つとして検討する。しかし本書は単純に特徴が似ているから本物だと断定する訳ではない。むしろ、どの証拠も単独では決定打にならないことが繰り返し強調される。

3.科学技術による分析

本書の大きな特徴は、科学分析が詳細に紹介される点にある。パスカル・コットはマルチスペクトル撮影技術を用いて、肉眼では見えない情報を抽出する。そこでは、下描き線、修正痕、顔料の重なり、指紋状痕跡などが検出される。特に議論を呼んだのが、指紋に関する分析である。作品表面に残る指紋の一部が、レオナルド作品に見られる指紋パターンと類似している可能性が示された。ただし本書は、科学分析だけで真贋が決まるわけではないことも認めている。科学は補助的証拠であり、最終的には美術史的判断と総合的検討が必要である。

4.ミラノ宮廷との関連

本書では、モデルとなった少女についても推論が展開される。ケンプは、この肖像がミラノ・スフォルツァ家に関係する若い女性、特にビアンカ・スフォルツァではないかと考える。衣装、髪型、肖像形式、紙質などが15世紀末ミラノ宮廷文化と一致している。更に、本作品が羊皮紙に描かれていることも重要視される。これは通常の紙ではなく、高級写本との関連を示唆する。ケンプは、失われた宮廷写本の一部として制作された可能性を検討していく。

5.真贋論争の激しさ

本書後半では、この作品をめぐる激しい論争も描かれる。一部研究者は強く支持する一方、多くの専門家は慎重あるいは否定的立場を取った。レオナルド作品は現存数が極めて少なく、新発見は美術史市場にも巨大な影響を与える。そのため、議論は学術問題であると同時に、経済・権威・名声とも結びつく。本書は、こうした美術界の複雑な構造も描き出している。真贋問題とは、単なる本物か偽物かの話ではなく、誰が美術史を決定するのかという権威の問題でもある。

6.見る力の問題

本書全体を通して重要なのは、見るとは何かという問題である。ケンプは、真贋判断を単なるデータ照合には還元しない。本当に重要なのは、作品の中に宿る知性、感受性、構造理解を読み取れるかどうかである。レオナルド研究とは、単なる資料比較ではなく、創造性の痕跡を読む行為である。

7.芸術と科学の再統合

本書は、レオナルド自身の精神を象徴するように、芸術と科学の融合によって進められる。美術史家の眼、科学技術、画像解析、歴史資料、感性、直観。それらが総合されながら、一枚の絵を理解しようとする。その意味で本書自体が、レオナルド的探究の現代版とも言える構造を持っている。

本書が言いたかったこと

芸術作品とは単なる物体ではなく、人間精神の痕跡である。美しき姫君が本当にレオナルド作品かどうかという問題以上に重要なのは、一枚の作品の中に、観察力、知性、感性、時代精神がどれほど深く刻み込まれているかという点である。ケンプとコットは、芸術と科学を結びつけながら真実へ近づこうとしている。その探究姿勢が、正にレオナルド・ダ・ヴィンチ的精神を現代に再現している。

私が描いた美しき姫君(付記)

レオナルドダヴィンチ
美しき姫君
國井正人作
パステル

アーティスト研究選書