レオナルド神話を創る

Inventing Leonardo
1993年刊
A. Richard Turner著

A・リチャード・ターナーの経歴

A・リチャード・ターナーは、アメリカの歴史家・文化研究者であり、特にヨーロッパ思想史、科学史、文化神話研究を専門とする。彼の研究の特徴は、歴史的人物そのものだけではなく、後世がその人物をどう解釈し、神話化したかを分析する点にある。本書でも、レオナルドを単なる歴史的人物としてではなく、ヨーロッパ文明が必要とした理想像として読み解いている。

本書の内容

1.レオナルド神話

本書の中心テーマは、私たちが知っているレオナルド像は、本当に歴史的事実なのかという問いである。現代人はレオナルドを、万能の天才、未来を先取りした超人、芸術と科学を統合した完璧な知性として理解している。しかしターナーは、そのイメージの多くが、後世のヨーロッパ文化によって作り上げられた神話であると指摘する。本書は、レオナルド本人以上に、レオナルド像を必要としたヨーロッパ精神の歴史を描こうとする。

2.同時代におけるレオナルド

本書前半では、実際のレオナルドがどのような人物として見られていたかが検討される。ターナーによれば、同時代人は確かに彼を優れた画家・技術者として高く評価していた。しかし現代のような万能の天才というイメージはまだ存在していなかった。むしろ彼は、未完成作品が多く、仕事が遅く、気まぐれで、奇妙な好奇心を持つ人物として見られていた。現代の理想化されたレオナルド像は、後代の文化的欲望によって大きく再構成されたものである。

3.ヴァザーリと最初の神話化

本書では、ヴァザーリの役割が重要視される。ヴァザーリは芸術家列伝の中で、レオナルドを神から特別な才能を授けられた存在として描いた。ターナーは、この記述を単なる伝記ではなく、芸術家天才神話の出発点として分析する。ルネサンス期、人間能力への信頼が高まる中で、レオナルドは人間精神の無限可能性を象徴する存在へ変わり始めた。

4.啓蒙主義と理性の英雄

18世紀になると、レオナルド像は更に変化する。啓蒙主義時代の知識人たちは、彼を宗教的世界観から自由になった理性的人間の先駆者として称賛した。科学、観察、実験を重視する姿勢は、近代合理主義の理想像として再解釈される。ターナーは、この時代のレオナルド像が、近代科学文明の父を求めるヨーロッパ精神を反映していたと指摘する。レオナルドは、歴史的人物である以上に、近代の自己像を映す鏡になっていった。

5.ロマン主義と孤独な天才

19世紀になると、レオナルドは更にロマン主義的に神話化される。孤独、憂鬱、神秘、未完成性、悪魔的魅力。そうした要素が強調され、理解されない孤高の天才という像が形成される。特にモナ・リザは、神秘的女性像として文学や芸術の中で異常なまでに象徴化されていく。ターナーは、この時代のレオナルド像に、近代人の孤独感や内面崇拝が投影されていると見る。

6.二十世紀と未来人レオナルド

本書後半では、20世紀におけるレオナルド神話が分析される。飛行機、戦車、潜水艦、ヘリコプターに似た設計図が注目され、レオナルドは未来を予見した科学者として描かれるようになる。更に心理学、サイエンス、メディア文化の発展によって、万能の創造者というイメージが世界的に拡散した。ターナーは、この現代的レオナルド像に、分断された近代人が求める統合的人間像が投影されていると考える。現代社会では知識が細分化され、人間は専門化されている。その中でレオナルドは、失われた全体的人間の象徴になった。

7.神話と歴史の間

本書は、単純に神話は間違いだと断定する訳ではない。ターナーは、神話もまた文化的真実を含んでいると考える。人々がレオナルドに理想を投影し続けたのは、そこに人間精神の可能性への憧れを見ていたからである。重要なのは、本当のレオナルドを完全に復元することではなく、なぜ人類はレオナルドを必要とし続けたのかを理解することである。

本書が言いたかったこと

レオナルド・ダ・ヴィンチとは、単なる歴史的人物ではなく、ヨーロッパ文明が理想化してきた精神の象徴であった。万能の天才、未来を先取りした知性、芸術と科学を統合した存在というイメージは、後世の人々が自らの理想や不安を投影しながら作り上げてきた神話でもあった。ターナーは、レオナルド神話を解体することで、逆に人間がなぜその神話を必要としたのかを明らかにしている。レオナルドとは、一人の天才である以上に、人間はどこまで自由で創造的になれるのかという希望を象徴する存在である。

アーティスト研究選書