マティス

マティス
1995年刊
小林利裕著

小林利裕の経歴

小林利裕は、西洋近代美術を専門とする研究者・美術評論家であり、特に19世紀末から20世紀フランス絵画に深い関心を持つことで知られている。フォーヴィスム、キュビスム、近代絵画論などを中心に研究し、単なる様式論ではなく、画家の精神性と近代という時代との関係を重視する。本書でも、マティスを単なる色彩画家としてではなく、20世紀における精神的秩序の探究者として捉えている。本書は、伝記的エピソードだけを追うものではなく、作品分析と思想分析を通じて、なぜマティスは近代美術史の中心的人物となったのかを解き明かそうとする。

本書の内容

1.マティスとは何者か

本書はまず、一般に流布している明るく幸福な色彩の画家というマティス像を問い直すところから始まる。マティスの作品は、一見すると軽やかで装飾的に見える。しかしその背後には極めて厳しい造形探究と精神的緊張が存在する。彼の色彩は単なる感覚的快楽ではない。むしろ混乱した世界の中に秩序を作るための方法であった。小林は、マティスを快楽の画家ではなく、平衡を求め続けた画家として捉えている。

2.若き日の模索

本書では、若きマティスの形成期が詳しく論じられる。法律家を目指していた彼が病気療養中に絵画と出会い、人生を変えていく過程は、単なる転職物語ではなく、存在の転換として描かれている。初期のマティスは、印象派、点描派、古典絵画、セザンヌなど多様な影響を吸収しながら、自分独自の絵画言語を探していた。著者は、この時期のマティスを徹底した学習者として描く。後年の大胆な色彩表現とは裏腹に、彼は極めて分析的かつ理知的な画家だった。

3.フォーヴィスムと色彩革命

1905年のサロン・ドートンヌは、本書でも重要な転換点として扱われる。強烈な原色と単純化された形態によって、マティスたちはフォーヴ(野獣)と呼ばれた。しかし著者は、この野獣性を単なる破壊衝動とは見ていない。マティスは自然を忠実に再現しようとしたのではなく、色彩によって感情と空間を直接構築することを目指していた。たとえば豪奢・平安・悦楽や生きる喜びでは、遠近法や陰影による古典的空間は解体され、色彩そのものが空間を形成している。小林は、この転換を近代絵画における空間概念の革命として高く評価している。

4.装飾と精神性

本書で繰り返し論じられるのが、装飾という問題である。マティスの絵画はしばしば装飾的と言われる。しかし著者は、その言葉がしばしば誤解を含んでいると指摘する。マティスにとって装飾とは、単なる表面美ではなかった。布、壁紙、窓、植物模様などが画面全体に広がる時、それらは人間を包み込む空間のリズムを形成している。彼の装飾性とは、人間を精神的閉塞から解放するための環境構築である。特にイスラム美術や北アフリカ体験が、彼の平面的空間感覚に大きな影響を与えたことが、本書では丁寧に説明される。

5.室内と窓

小林が重視するもう一つのテーマが、室内と窓である。マティスの絵には、しばしば窓辺や室内空間が登場する。著者は、この窓を単なる背景ではなく、内面と外界をつなぐ象徴として読む。室内は秩序と静寂の空間であり、窓の向こうには海や空、光が広がる。閉じた空間と無限空間の緊張関係が、マティス絵画の重要な構造になっている。著者は、ここにマティスの哲学を見る。彼は現実から逃避していたのではなく、世界と調和的に共存する方法を探していた。

6.ピカソとの対比

本書では、ピカソとの比較も重要な論点となっている。ピカソが破壊と分解によって近代を表現したのに対し、マティスは統合と均衡によって近代を乗り越えようとした。著者は、この二人を単純に優劣で比較しない。むしろ20世紀美術は、この破壊の原理と調和の原理の対立と共存によって成立していたと考えている。その中でマティスは、癒しと平衡の側を担った画家だった。

7.晩年の切り紙絵

晩年の切り紙絵について、本書は特に高い評価を与えている。病によって身体の自由を失った後、マティスは色紙を切り抜くという新しい方法へ向かった。一見すると単純なこの技法には、彼が生涯追究してきた色彩・線・空間・リズムが凝縮されている。ブルー・ヌードやイカロスなどでは、形態は極限まで単純化されながら、驚くほど豊かな生命感覚が生まれている。小林は、この晩年様式を削ぎ落とすことで本質へ到達した芸術として捉えている。

8.ヴァンス礼拝堂

本書終盤では、ヴァンス礼拝堂がマティス芸術の総決算として論じられる。白い壁、光、ステンドグラス、線描。それらは一体化し、絵画を超えた空間芸術となっている。著者は、ここでマティスが単なる画家ではなく、光と空間の建築家に到達したと考える。

本書が言いたかったこと

マティスの芸術とは、単なる色彩の快楽ではなく、混乱した近代世界の中で、人間が精神的平衡を取り戻そうとする試みだった。小林は、マティスを表面的な幸福の画家としてではなく、深い不安と緊張を抱えながら、それでもなお調和を作ろうとした画家として描いている。彼の明るい色彩は、現実を知らない楽観ではなく、現実の苦しみを超えて獲得された秩序だったのである。近代芸術とは単なる破壊や革新だけではない。ピカソ的な分解と並んで、マティス的な統合もまた20世紀芸術の重要な柱だった。本書は、マティス論であると同時に、人間は不安定な時代の中で、どのように静けさと調和を作り出せるのかという問いを追究した芸術論である。

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