マティス・ストリーズ 残酷な愛の物語

The Matisse Stories
1993年刊
A. S. Byatt著

A.S.バイアットの経歴

A.S.バイアットは1936年イギリス生まれの作家であり、現代英国文学を代表する知性派小説家の一人である。文学、神話、美術、哲学、心理学などを融合させた重層的な作品で知られ、1990年の長編小説Possessionによりブッカー賞を受賞した。彼女は単なる物語作家ではなく、知性と感覚の関係を深く追究した作家として評価されている。本書は三つの中編から構成されており、それぞれがマティスの絵画世界を下敷きにしている。しかしこれはマティスの伝記ではなく、マティス芸術が現代人の愛、孤独、欲望、抑圧、自由とどのように響き合うかを描いた文学作品である。本書は、マティスを読む小説あると同時に、人生を照らす美術論でもある。

本書の内容

本書は、メドゥーサの足首、アート・ワーク、中国のロブスターの三篇から成っている。いずれも独立した作品であるが、共通しているのは、マティス絵画が登場人物たちの人生や心理を照らし出す媒介となっている点である。マティスの色彩や形態は、単なる装飾的背景ではなく、人間の感情や欲望を映し出す鏡として機能する。バイアットは、マティスを幸福の画家として単純化しない。むしろその鮮やかな色彩の背後に潜む、暴力性、緊張、不安、官能性を浮かび上がらせていく。

1.メドゥーサの足首

最初の物語メドゥーサの足首は、中年女性スザンナが主人公である。彼女は美容院を訪れ、自分の老いと向き合うことになる。美容院の壁にはマティスの作品の複製が飾られているが、その鮮やかな色彩や若々しい女性像は、逆に彼女の衰えを意識させる。物語は一見すると日常的だが、その内側には激しい心理的揺らぎがある。スザンナは、美しさを失っていくことへの恐怖、自我の崩壊、不安定な自己像に苦しむ。ここでマティスの絵は、生の歓喜の象徴であると同時に、届かない理想の象徴にもなっている。タイトルにあるメドゥーサは、見る者を石化させる神話的存在であり、老いへの恐怖と自己凝視の残酷さを暗示している。バイアットは、美が人を救うと同時に傷つけることもあるという逆説を描いている。

2.アート・ワーク

第二作アート・ワークは、本書中もっとも社会的広がりを持つ作品である。主人公のデビーとロビンは、芸術家夫婦でありながら、家庭生活と創作の両立に疲弊している。夫ロビンは自己中心的な芸術家であり、妻デビーは家事・育児・仕事を抱え込みながら生活している。しかし物語の核心にいるのは、家政婦ミセス・ブラウンである。彼女は移民であり、表面的には無口で地味な存在に見える。しかし実は、鮮烈な色彩感覚と装飾性を持つ独自の創造世界を秘めている。彼女が作る布や装飾品は、まるでマティスの切り紙絵のような生命力を持つ。バイアットはここで、芸術とは誰のものかを問う。芸術は美術館に飾られた高尚な作品だけではなく、日常生活の中にも潜んでいる。同時に、女性たちが家庭労働の中で創造性を抑圧されてきた歴史も浮かび上がる。

3.中国のロブスター

第三作中国のロブスターは、最も静かで思想的な作品である。主人公は美術教師ペリーンであり、彼女は拒食症に苦しむ女子学生と向き合っている。一方で、自身も人生への疲労感や孤独を抱えている。この物語で中心となるのは、マティス晩年の切り紙絵である。鮮やかな赤いロブスターは、一見すると単純で陽気に見える。しかし物語の中では、それは生命力の象徴として現れる。ペリーンは学生との対話を通じて、芸術が単なる知識ではなく、生き延びる力になり得ることを感じ始める。ここでバイアットは、マティスの単純化された色と形の中に、苦悩を超えた後の純粋な生命感覚を読み取っている。

4.マティスと残酷さ

日本語副題の残酷な愛の物語が示すように、本書には常に残酷さが漂っている。愛は人を救うが、同時に縛り、傷つける。美は人を高揚させるが、同時に欠落や老いを意識させる。芸術は自由を与えるが、創造には孤独と犠牲が伴う。バイアットは、マティスの色彩の背後にある残酷な現実を見逃さない。むしろ、彼の絵が美しいのは、人生の苦しみを知った上でなお美を求めているからだと考えている。

5.色彩と感情

本書では、色彩が言語のように扱われている。赤、青、緑、金色。それらは単なる視覚効果ではなく、登場人物の感情や欲望を象徴する。バイアットは文学者でありながら、文章によって絵画的空間を作り出そうとしている。特にマティス的色彩は、閉塞した現実を突き破る力として機能する。登場人物たちは皆、何らかの抑圧や停滞の中にいる。しかしマティスの絵は、その世界に裂け目を作り、別の可能性を示唆する。

本書が言いたかったこと

美とは単なる快楽や装飾ではなく、人間の苦しみや孤独を引き受けながら、それでもなお生を肯定しようとする力である。A. S. Byatt は、マティスを幸福の画家として単純化しない。むしろ彼の色彩の背後に、老い、欲望、孤独、創造の苦しみといった人生の残酷さを見ている。そして、その残酷さを知りながらなお美を作り出すところに、芸術の本当の価値を見出しているのである。芸術は特別な人間だけのものではない。美術館の名画だけでなく、日常の布、色、料理、空間、人間関係の中にも創造性は存在する。そしてその創造性こそが、人間を生き延びさせる力になる。本書は、マティスへの文学的オマージュであると同時に、人はなぜ美を必要とするのかを巡る深い人間論である。

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