アンリ・マチスの「誕生」
2008年刊
大久保恭子著
大久保恭子の経歴
大久保恭子は、西洋近代美術史、とりわけ19世紀末から20世紀初頭フランス美術を専門とする研究者である。特にマチスを中心としたフォーヴィスム研究、近代芸術における画家と批評家の関係分析を専門としている。本書は、従来の作品中心、様式中心のマチス研究とは異なり、画家がどのように批評空間の中でマチスという存在として形成されていったのかを、膨大な同時代資料を用いて検証した学術的研究である。本書は、単にマチス作品を美術史的に解説するのではなく、マチスという芸術家像そのものが、批評・展覧会・市場・言説によってどのように作られたかを分析している。
本書の内容
1.マティス誕生という問い
本書がまず提示するのは、マティスはいつマティスになったのかという問いである。今日、マティスは20世紀最大級の画家として確立されている。しかし当然ながら、彼も最初から巨匠だった訳ではない。若い頃の彼は無名画家の一人にすぎず、作品は理解されず、批判や嘲笑の対象でもあった。著者は、この無名の画家がいかにして近代絵画の革命者として認識されるようになったのかを、美術評論との関係から解明しようとする。本書でいう誕生とは、生物学的誕生ではなく、芸術家として社会的に成立する過程を意味している。
2.十九世紀末フランス美術界の状況
本書ではまず、19世紀末から20世紀初頭のフランス美術界の構造が詳しく説明される。当時の芸術世界では、単に作品が優れているだけでは画家として成功できなかった。サロン制度、画商、収集家、美術雑誌、批評家など、多数の制度と人脈が絡み合い、その中で画家の評価が形成されていた。著者は、近代芸術とは作品だけで成立するのではなく、言説によっても成立すると指摘する。批評家たちは、単なる観察者ではなく、芸術家を生み出す共同制作者であった。この視点から、大久保はマティスを取り巻く批評空間を分析していく。
3.初期マティスと批評家たち
若きマティスは、当初から一貫して高く評価されていた訳ではない。むしろ初期作品は未完成、粗雑、奇妙と批判されることが多かった。本書では、当時の新聞、美術雑誌、展覧会評などを詳細に引用しながら、マティスに対する評価の変遷が追跡される。興味深いのは、批評家たちの反応が大きく分裂していた点である。ある者は彼を危険な破壊者と見なし、また別の者は新時代の芸術を切り開く存在と見ていた。著者は、この賛否両論こそがマティスの存在感を拡大させたと分析する。近代芸術では、単なる好評よりも、論争を生み出すことが重要だった。
4.フォーヴィスムと野獣のイメージ
1905年のサロン・ドートンヌは、本書における重要な転換点として扱われる。この展覧会でマティスらの作品を見た批評家が、ドナテロが野獣の檻にいると評したことで、フォーヴ(野獣)という名称が生まれた。著者は、この言葉が単なる悪口では終わらなかった点に注目する。本来は批判的表現だった野獣という語が、やがて新しい芸術運動の名称となり、結果的にマティスを革新の象徴へ変えていった。マティスは、作品だけではなく、言葉によっても歴史化されていった。本書は、この言語作用を極めて丁寧に分析している。
5.批評家たちのマティス像形成
批評家たちはそれぞれ異なるマティス像を作り上げていった。ある批評家は、マティスを純粋色彩の探究者として描いた。また別の批評家は、装飾性の画家、原始的生命力の画家、精神性の画家など、異なるイメージを与えていった。マティスという存在は、一枚岩ではなく、多数の言説によって構成されていた。この多様な解釈の積み重ねが、結果的にマティスを巨大な芸術家へ押し上げた。
6.画商・市場・国際的評価
本書では、美術批評だけでなく、画商や収集家の役割についても論じられる。特に重要なのが、ロシアの収集家シチューキンの存在である。彼はマティス作品を大量に購入し、その支援によってマティスは経済的安定を得た。更にベルリンやモスクワなど国外での評価も、フランス国内の認識を逆流的に変化させた。著者は、国際的評価がマティス神話形成に大きな役割を果たしたと指摘する。芸術家の価値は、一国だけで決まるものではなく、複数の文化圏の評価が交差する中で形成される。
7.芸術家という制度
本書後半では、芸術家とは何かという根本問題へ議論が広がる。著者は、近代社会における芸術家という存在が、批評、制度、教育、市場、メディアによって成立していることを示す。マティスは天才だったが、その天才が社会的事実として認識されるには、周囲の言説装置が必要だった。本書は、孤高の天才というロマン主義的神話を相対化し、芸術家誕生の社会的メカニズムを明らかにしていく。
8.マティス自身の戦略
著者は、マティスが単に批評の受け身だった訳ではない点も強調する。彼は展覧会の構成、作品発表のタイミング、批評家との関係構築などを意識的に行っていた。彼自身もまた、マティスという芸術家像を形成する能動的主体だった。ここで本書は、芸術家を純粋な創作者としてだけではなく、社会的存在として捉えている。
本書が言いたかったこと
偉大な芸術家とは、単に優れた作品を作るだけでは成立せず、その作品をめぐる批評、制度、市場、言説との相互作用の中で社会的に誕生する。大久保は、マティスを単独の天才として神話化するのではなく、20世紀初頭の美術世界全体の中で捉え直している。そこでは、批評家たちは単なる解説者ではなく、芸術家を歴史へ押し上げる存在として重要な役割を果たしていた。作品の価値は絶対的なものではなく、時代、社会、言葉、制度の中で形成されていくのである。本書は、マティス研究であると同時に、近代芸術とは何か、芸術家とはどのように生まれるのかを解明した、美術社会学的研究でもある。
