ヨハネス・フェルメール

Johannes Vermeer
1995年刊
Arthur K. Wheelock Jr.著

目次

著者とフェルメールの経歴

著者ホイーロックは、アメリカ・ワシントンD.C.のナショナルギャラリーで長年キュレーターを務めた17世紀オランダ絵画研究の世界的権威である。特にフェルメール研究において極めて大きな功績を残した。彼は単なる作品解説に留まらず、美術史、技法研究、光学研究、宗教文化史、更にはデルフトという都市の社会構造までを統合的に分析することで、20世紀後半以降のフェルメール研究を根本から刷新した。

ヨハネス・フェルメールは1632年、オランダのデルフトに生まれた。父は宿屋兼美術商を営んでおり、フェルメールは幼少期から絵画や芸術取引に触れる環境の中で育った。1653年、彼はデルフトの画家組合である聖ルカ組合に加入し、同年にカタリーナ・ボルネスと結婚した。妻の家系は裕福なカトリック家庭であり、この結婚を契機としてフェルメールもカトリックへ改宗した。17世紀のオランダは、海上貿易と金融によって空前の繁栄を誇る国家であり、同時に顕微鏡やレンズ技術が飛躍的に発展した視覚革命の時代でもあった。デルフトには顕微鏡研究で知られるレーウェンフックらが存在し、都市全体が科学と光学への強い関心に包まれていた。そのような環境の中でフェルメールは、単なる風俗画家ではなく、見るという行為を探究する極めて知的な画家として活動していた。しかし彼の制作速度は非常に遅く、生涯に残した作品は現在確認されているものでわずか三十数点に過ぎない。1672年、オランダはフランス軍侵攻による災厄の年を迎え、美術市場は深刻な打撃を受けた。美術商でもあったフェルメールは経済的苦境に陥り、1675年、43歳で急死する。死後長らく忘却されていたが、19世紀後半になって再発見され、現在では西洋美術史上最も重要な画家の一人として位置づけられている。

本書の内容

1.フェルメール研究の総合的到達点

本書は、単なる画集や作品解説書ではない。本書はフェルメールを、17世紀オランダ文化を凝縮して捉え直した総合研究書である。本書ではまず、デルフトという都市の社会構造、宗教状況、市民文化、美術市場、科学革命が詳しく論じられる。その上で、フェルメールの作品がいかに成立したかが、一点一点緻密に分析されていく。ホイーロックは、作品を孤立した芸術作品として扱わない。彼は窓の位置、光の方向、室内に置かれた地図や楽器、衣服の質感、壁面の余白、人物の視線や沈黙に至るまで、17世紀オランダ社会の精神構造と結びつけながら読み解いていく。本書では、フェルメールの画面構成に見られる数学的秩序や遠近法、カメラ・オブスクラとの関連性も慎重に検討されている。ホイーロックは、フェルメールが単に現実を写実的に描いただけではなく、視覚を再構築しようとしていたことを示している。

フェルメール
デルフトの眺望

2.光と静寂の分析

本書の中心を成しているのは、フェルメール独特の光に対する分析である。ホイーロックによれば、フェルメールの光は単なる自然光ではなく、物体を照らす以上の意味を持っている。それは空間に精神的緊張と静寂を与える、極めて本質的な要素である。牛乳を注ぐ女では、窓から差し込む光がパンや陶器や壁面に触れることで、日常的な家事行為が一種の宗教的儀式へと変貌していく。真珠の耳飾りの少女では、闇の中から浮かび上がる少女の顔と真珠が、現実を超えた神秘的存在感を帯びている。ホイーロックは、この光を内面的時間を可視化するものとして捉えている。フェルメールの絵画においては、時間が停止し、見る者は静寂の中へ引き込まれていく。

フェルメール
牛乳を注ぐ女

フェルメールの絵画

1.光を描いた画家

フェルメールは、物を描いたのではなく、光を描いた。彼の絵画では、人物、壁、机、パン、ガラス、真珠、地図といったあらゆる対象が、光を媒介として存在している。フェルメールの本当の主題は物体そのものではなく、光によって存在が成立する瞬間である。そのため彼の画面には、他のバロック絵画に見られる劇的な動作や感情の爆発はほとんど存在しない。人物たちは静かに立ち、読む、注ぐ、計る、手紙を書くといった日常的行為を行うだけである。しかし、その静寂こそがフェルメール絵画の本質である。

小路

2.空間と沈黙

フェルメールは、沈黙を描いた。彼の室内空間は極度に整理されており、壁面の余白や床タイル、窓から差し込む光が精密な秩序を形成している。その結果、画面全体が異様な静けさに包まれている。この沈黙は単なる静止ではない。そこには内省、思索、停止する時間、深淵なる存在が宿っている。フェルメールは外的事件を描くのではなく、人間の内面へ差し込む光描こうとしていた。

フェルメール
手紙を読む女

3.色彩と物質感

フェルメールは色彩の魔術師でもあった。特に有名なのは、天然ラピスラズリから作られる極めて高価な顔料ウルトラマリンの使用である。彼は青を単なる色としてではなく、空間を満たす空気として用いた。黄色、白、灰色、黒を極めて繊細に調和させることで、光が空気の中を漂う感覚を生み出している。フェルメールの絵画では、物体は輪郭によって存在しているのではない。光に包まれ、空気の中から静かに浮かび上がってくる。

フェルメールが美術史にもたらした価値

1.見るという行為の革命

フェルメールは、見るという行為を変革した。それ以前の西洋絵画は、宗教的物語や神話、英雄的事件を中心に描いていた。しかしフェルメールは、名もなき市民の日常を描きながら、その中に宇宙的とも言うべき静寂を見出した。彼は、世界とは光によって知覚される現象であるという近代的視覚意識を、絵画として初めて完成させた画家であった。

2.近代絵画への影響

フェルメールの影響は19世紀以降、爆発的に拡大した。印象派の画家たちは、フェルメールを光の巨匠として崇拝した。印象派は光の変化を追求したが、その源流にはフェルメールがいる。ハンマースホイの静謐な室内画や、ダリの幻想的空間にも、フェルメールの影響を見ることができる。また20世紀の写真芸術や映画美術にも、フェルメール的空間は深く浸透している。

3.現代におけるフェルメール

現代においてフェルメールは、単なる古典画家ではない。彼は情報過剰の時代における静寂の画家として、現代において新たな意味を獲得している。彼の絵画を見るとき、人は単に美を鑑賞しているのではない。光、時間、沈黙、存在について考えさせられる。フェルメールは、絵画を通して世界をどのように見るべきかを問い続けた。そしてその問いは、科学と映像と情報に囲まれた現代社会において、ますます重要性を増している。

私のフェイルメール(付記)

フェルメールをはじめて見た時の衝撃を忘れないように、私が模写したフェルメールを一枚。

フェルメールの青いターバンの少女別名真珠の耳飾りの少女
真珠の耳飾りの少女
國井正人作
パステル

未来の輪郭

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