The Artemis Lunar Program
Returning People to the Moon
2020年5月刊
Manfred Dutch von Ehrenfried著
著者の経歴
著者マンフレッド・ダッチ・フォン・エーレンフリートは、米国の有人宇宙開発、特にNASAの月・火星探査構想や商業宇宙開発について長年研究してきた航空宇宙分野の専門家である。宇宙政策、宇宙技術、宇宙産業の論者として知られている。彼の著作の特徴は、単なるロケット工学の説明に留まらず、宇宙探査を国家戦略・文明戦略として捉えている。
本書が執筆された2020年前後は、NASAがアポロ計画以来約半世紀ぶりとなる本格的有人月面回帰計画を推進し始めた時期であった。2017年、トランプ政権は月面探査を火星探査への前段階として再定義し、アルテミス計画を正式に始動させた。著者はその歴史的転換点を強く意識し、なぜ人類は再び月へ戻るのかという問いを中心に据えている。アポロ計画が冷戦下における米ソ覇権競争の象徴であったのに対し、アルテミス計画は、長期滞在、国際協調、商業宇宙企業の参加、月資源利用、そして火星移住への布石という、より長期的かつ構造的な宇宙文明形成計画として描かれている。
アルテミス計画の全容
アルテミス計画とは、NASAを中心として進められている21世紀最大級の有人宇宙探査計画であり、その目的は単なる再度の月面着陸ではない。計画の本質は、持続可能な月面活動拠点の建設と火星有人探査への移行にある。NASAはアルテミス計画において、まずアルテミスIで無人飛行試験を行い、アルテミスIIで有人月周回飛行を実施し、その後アルテミスIII以降で有人月面着陸を目指している。将来的には、ゲートウェイ宇宙ステーションを中心とした月周回拠点を建設し、月面基地アルテミス・ベースキャンプを形成する構想を進めている。この計画の思想的核心は、月から火星への旅である。月面は最終目的地ではなく、火星探査へ向かうための中継基地と位置づけられている。アルテミス計画がアポロ計画と根本的に異なるのは、国家単独型プロジェクトではなく、国際共同型・商業宇宙企業連携型プロジェクトとして構築されている点である。欧州宇宙機関(ESA)、日本のJAXA、カナダ宇宙庁(CSA)などが深く参加し、更にSpaceX、Blue Origin、Lockheed Martinなど民間企業が中心的役割を担っている。著者は本書において、アルテミスを単なる宇宙探査ではなく、地球外経済圏形成の始まりとして理解している。そこでは月面が科学探査の対象であるだけでなく、エネルギー、鉱物資源、宇宙インフラ建設、深宇宙輸送の拠点として位置づけられている。
アルテミス計画を構成する巨大システム
1.SLS(Space Launch System)
SLSはアルテミス計画の中核となる超大型ロケットである。NASAがアポロ時代のサターンV以来再び建造した巨大有人打上げシステムである。スペースシャトル由来のRS-25エンジンや固体燃料ブースターを利用している。アメリカの宇宙開発技術資産を継承する。著者はSLSを国家宇宙インフラと位置づけている。これは単なるロケットではなく、米国の有人深宇宙探査能力そのものを象徴する存在だからである。一方で、開発遅延とコスト高騰という問題も常に抱えている。
2.Orion宇宙船
Orion宇宙船は、月周回から地球帰還までを担う有人宇宙船である。アポロ宇宙船より大型化され、長期深宇宙飛行に耐える設計が施されている。欧州宇宙機関によるサービスモジュールも採用されており、国際協力の象徴となっている。Orionは低軌道輸送ではなく、深宇宙輸送船として設計されている点が重要である。これはアルテミス計画が単なる月探査ではなく、最終的に火星有人飛行を視野に入れていることを意味している。
3.Lunar Gateway
Gatewayは月周回軌道上に建設される小型宇宙ステーションであり、アルテミス計画の最重要インフラの一つである。著者はGatewayを月版ISSとしてではなく、深宇宙探査の港湾施設として理解している。ここでは宇宙船の接続、補給、月着陸船運用、科学実験などが行われる予定である。Gatewayの存在によって、月面着陸は単発イベントではなく、継続的活動へ転換される。これはアポロ計画との決定的相違点である。
4.Human Landing System(HLS)
HLSは宇宙飛行士を月面へ輸送する着陸船システムである。現在はSpaceXのStarship HLSやBlue Origin系Blue Moonなどが候補となっている。著者はここに、NASA宇宙開発思想の大転換を見ている。アポロ時代はNASA自身がほぼ全てを設計・管理していたが、アルテミスでは民間企業が主導的技術開発主体となっている。
5.商業宇宙企業との連携
アルテミス計画の最大の特徴の一つは、商業宇宙企業との全面的連携にある。SpaceX、Blue Origin、Lockheed Martin、Northrop Grummanなどが計画全体に深く組み込まれている。著者はこれを、国家宇宙開発から宇宙経済圏形成への転換と捉えている。NASAは全てを自前で行う機関ではなくなり、むしろ巨大宇宙市場を形成する触媒へ変化している。
6.月資源利用
アルテミス計画では、月面の水資源やヘリウム3などの利用可能性が重要視されている。特に月極域に存在すると考えられる氷資源は、水、酸素、水素燃料生成に利用できる可能性がある。著者は、月資源利用こそが持続的月面活動の鍵であると述べている。地球から全物資を輸送するのではなく、現地資源利用が確立されて初めて、真の宇宙経済圏が成立する。
7.火星探査への接続
アルテミス計画の最終目標は火星有人探査である。NASAは月面を、火星探査のための技術実験場として位置づけている。長期滞在、放射線対策、閉鎖環境生命維持、現地資源利用など、火星探査に必要な技術は月面で先行実験される。著者は、アルテミスを第二のアポロ計画ではなく、人類が地球外文明へ移行する初期段階として理解している。
アルテミス計画のリスクと課題
アルテミス計画は壮大な構想であるが、その一方で数多くのリスクと課題を抱えている。それでも著者は、アルテミス計画を人類文明史における不可逆的転換点として捉えている。アポロ計画が月へ行って帰る時代であったのに対し、アルテミス計画は月に留まり、やがて火星へ進出する時代の始まりである。
1.莫大なコスト
SLSやOrionは極めて高価であり、開発遅延も繰り返されている。特にSLSは国家雇用維持型ロケットと批判されることもあり、商業ロケットと比較して費用効率に疑問が呈されている。
2.政治的継続性の問題
アポロ計画後に有人月探査が半世紀停止した最大理由は、国家戦略の変化であった。アルテミスも政権交代や財政事情によって縮小・延期される可能性を常に抱えている。
3.技術的複雑性
SLS、Orion、Gateway、HLS、月面基地、宇宙服など、多数のシステムが相互依存しているため、一部の遅延が全体計画を大きく停滞させる危険性がある。
4.国際政治上の問題
アルテミス計画は中国の有人月探査計画と競合関係にあり、将来的には月面覇権競争が激化する可能性がある。アルテミス協定は新たな宇宙秩序形成を目指しているが、その法的正当性や資源所有権については国際的議論が続いている。
5.月面長期滞在の問題
人類が月面で長期滞在する際には、宇宙放射線、低重力、心理的ストレス、生命維持系故障など、深刻な医学的・生理学的問題も存在する。
アルテミス計画と日本(付記)
1参加国ではなく中核パートナー
日本は現在、NASA主導のアルテミス計画において、単なる協力国ではなく戦略的中核パートナーの地位へ移行しつつある。アポロ計画時代、日本はほぼ外部観察者であったが、アルテミスではJAXA(宇宙航空研究開発機構)と日本企業群が、月周回拠点・有人輸送・月面探査・補給・居住技術に深く関与している。これは日本宇宙開発史上の大転換であり、日本が初めて人類の深宇宙進出インフラ構築に本格参画する段階へ入ったことを意味している。
2.アルテミス協定と日本の地政学的位置
日本は2020年、米国が主導するアルテミス協定に初期署名国として参加した。これは単なる宇宙協力文書ではなく、将来的な月面活動、宇宙資源利用、探査ルール形成を巡る新たな宇宙秩序形成への参加を意味している。アルテミス協定は、中国・ロシア主導の国際月面研究ステーション(ILRS)構想に対抗する側面を持っており、日本は米国側宇宙圏の最重要アジアパートナーとして位置づけられている。その背景には、日本が高度製造技術、ロボティクス、精密機器、長期信頼性工学、補給技術などにおいて世界的優位性を持っているという事情がある。NASAは、長期間にわたり極限環境で安定稼働する日本の工学技術を高く評価しており、特に深宇宙開発では日本型の高信頼性技術が不可欠であると認識している。
3.月周回拠点Gatewayへの参加
日本の最重要貢献の一つが、Lunar Gateway計画への参加である。Gatewayは月周回軌道上に建設される宇宙ステーションであり、アルテミス計画全体の中核インフラとして位置づけられている。JAXAはGatewayに対して、生命維持技術、電力・熱制御、居住環境技術、補給機運用など多方面で参加している。これはISS(国際宇宙ステーション)において日本が培ってきた有人宇宙技術を、低軌道から深宇宙へ発展させる試みでもある。特に、日本実験棟きぼうは長期間にわたり極めて高い運用実績を示してきた。そのため、日本は単なる部品供給国ではなく、人間が宇宙で長期滞在するための環境構築能力を持つ国家として評価されている。Gatewayは単なる宇宙ステーションではない。それは月面活動、宇宙船接続、物資補給、火星探査準備を担う深宇宙港湾施設であり、日本はその重要部分を支える役割を担っている。
4.日本の補給船技術
日本はISS補給機こうのとり(HTV)によって、世界でも数少ない高精度宇宙補給能力を確立した国家となった。この技術をさらに発展させたものが、次世代補給船HTV-Xである。HTV-Xは将来的にGatewayへの物資輸送を担う可能性が高く、日本は深宇宙補給ネットワーク構築において極めて重要な位置を占める。宇宙開発では、行く能力よりも維持する能力の方が本質的に重要である。月面基地やGatewayが実際に機能するためには、食料、機材、燃料、交換部品などを継続的に輸送する安定した補給能力が不可欠だからである。NASAはこの点において、日本の輸送信頼性を極めて高く評価している。日本の宇宙輸送システムは派手さこそ少ないが、故障率の低さ、精密運用能力、長期安定性に優れており、長期宇宙活動において重要な意味を持っている。
5.月面探査車(Lunar Cruiser)
アルテミス計画における日本最大級の独自貢献が、JAXAとトヨタによる有人月面探査車Lunar Cruiserである。この探査車は単なる移動車両ではなく、宇宙飛行士が宇宙服を脱いだ状態で長期間活動可能な移動型月面居住施設として構想されている。アポロ計画時代の月面車両が短距離移動用であったのに対し、Lunar Cruiserは長距離探査、長期滞在、科学調査、資源探査、月面インフラ支援を前提としている。これは、日本が単なる探査支援ではなく、月面社会インフラ構築そのものに参加していることを意味している。特に重要なのは、トヨタが地上で培ってきた燃料電池技術、閉鎖環境制御技術、高耐久モビリティ技術が、宇宙開発へ応用されている点である。月面は極端な温度差、放射線、粉塵、低重力環境という過酷な世界であり、日本企業の高耐久設計思想はその環境と極めて相性が良い。
6.日本人宇宙飛行士の月面着陸
2024年の日米首脳会談において、日本人宇宙飛行士がアルテミス計画で将来的に月面着陸を行う方針が正式に確認された。これは実現すれば、アジア人初の月面着陸となる可能性が高い。この決定は単なる象徴的外交措置ではない。NASAは、日本がGateway、補給技術、月面探査システムなどに対して果たしている大規模貢献を重視しており、その実績に対する共同運営国としての扱いを示している。日本人宇宙飛行士の月面参加は、協力国への配慮ではなく、日本がアルテミス計画の実働パートナーであることの証明でもある。
7.月資源利用と日本の技術的優位
アルテミス計画では、月極域に存在すると考えられる氷資源の利用が極めて重要視されている。水は飲料水としてだけでなく、水素・酸素燃料生成にも利用可能であり、将来的な宇宙経済圏形成の基盤となる。日本は、精密ロボット、自動化技術、小型高効率機器、極限環境耐久技術において世界的競争力を持っている。そのため、日本は月面資源採掘、自律ロボット運用、長期基地保守などの分野で重要な役割を期待されている。特に、日本企業が得意とする小型・高効率・長寿命という技術思想は、補修が極めて困難な月面環境に適している。大量消費型システムではなく、長期間安定稼働する高信頼性システムこそが、深宇宙開発において重要だからである。
8.日本にとってアルテミス計画とは何か
アルテミス計画は、日本にとって単なる宇宙科学プロジェクトではない。それは日米同盟深化、次世代産業育成、宇宙インフラ産業参入、ロボティクス輸出、エネルギー技術応用、地政学的プレゼンス強化を含む総合国家戦略でもある。日本は人口減少と成熟経済化が進む中で、地上経済のみでは長期成長余地が限定されつつある。宇宙開発は、AI、ロボティクス、半導体、エネルギー、通信、素材工学を統合する巨大先端産業である。日本が再び技術国家として存在感を取り戻すための新たな舞台ともなる。アルテミス計画における日本の役割とは、単なる月探査への参加ではない。それは、人類が地球文明から宇宙文明へ移行していく初期段階に、日本が中核技術国家として参画することを意味している。
中国の動向(付記)
中国は現在、NASAのアルテミス計画に対抗する形で、独自の有人月探査計画を急速に推進している。中心となっているのは中国国家航天局(CNSA)と中国有人宇宙プロジェクト(CMSA)である。その目標は2030年前後の中国人宇宙飛行士による月面着陸である。中国はすでに嫦娥計画によって月周回・月面着陸・月裏側探査・月試料採取に成功しており、特に嫦娥4号による世界初の月裏側着陸は、中国宇宙開発の技術的成熟を示した。中国は、ロシアと共同で国際月面研究ステーション(ILRS)構想を進めている。これはNASA主導のアルテミス協定圏に対抗する宇宙圏形成戦略であり、将来的な月面基地建設や資源利用を視野に入れている。中国の特徴は、NASA型の政府+民間企業モデルとは異なり、国家主導型である。長征10号ロケット、新型有人宇宙船、月着陸船、月面インフラ開発などが中央集権的に進められている。また中国は、月を単なる科学探査対象ではなく、将来的な宇宙資源・宇宙覇権の拠点として捉えている。特にヘリウム3や月極域水資源への関心は強い。現在の米中宇宙競争は、冷戦期の米ソ宇宙開発競争に似た側面を持ちながらも、単なる国威発揚ではなく、誰が21世紀の宇宙秩序を主導するのかを巡る競争へ変化している。
インドの動向(付記)
インドは近年、世界の宇宙開発競争において急速に存在感を高めており、特に月面探査分野では米国・中国に次ぐ第三極として注目されている。その中心にあるのがインド宇宙研究機関(ISRO)によるチャンドラヤーン計画である。2023年、インドはチャンドラヤーン3号によって月南極付近への軟着陸に成功し、世界で初めて月南極地域へ着陸した国家となった。これはソ連・米国・中国に続く4番目の月面軟着陸成功国でもあり、インド宇宙開発史上最大級の成果と評価されている。現在インドは、単発の探査ではなく、継続的月面開発へ戦略を拡大している。次期計画であるチャンドラヤーン4号では月試料採取が検討されており、日本のJAXAと共同で進めるLUPEX(月極域探査計画)では、月南極の氷資源調査が予定されている。これは将来の月面基地建設や燃料生成を見据えた重要計画である。インドは、2035年頃の独自宇宙ステーション建設、2040年頃のインド人宇宙飛行士による月面着陸も構想している。米国のアルテミス計画とも連携を深めており、アルテミス協定にも参加した。一方で、中国とも一定距離を保ちながら独自路線を維持している。インドは、米中宇宙覇権競争の単なる追随者ではなく、戦略的自立型宇宙大国として月探査時代への参入を進めている。
ラグランジュ点の争奪(付記)

1.ラグランジュ点とは
地球と月の間に存在する重力的に特別な位置は一般にラグランジュ点と呼ばれる。これは18世紀の数学者・天文学者であるラグランジュに由来する名称であり、二つの巨大天体(ここでは地球と月)の重力と遠心力が釣り合う地点である。地球‐月系には五つのラグランジュ点(L1〜L5)が存在する。その中でも宇宙開発上とりわけ重要視されているのが、地球と月の間に位置するL1、そして月の裏側方向に位置するL2である。しかし、安定的な位置という表現には注意が必要である。厳密には、地球‐月系のL1やL2は完全安定ではなく、少しずれると離脱してしまうため、宇宙船側が軌道修正を続ける必要がある。本当に重力的に安定しているのはL4とL5であり、そこでは物体が比較的長期間とどまりやすい。ただし、現在の月探査・宇宙基地構想で最重要視されているのは、実用性の高いL1とL2付近である。
2.なぜラグランジュ点が重要なのか
それは、ここがシスルナー空間(地球‐月圏)の交通結節点だからである。地球低軌道から月へ直接向かうには大量の燃料が必要となるが、L1やL2付近を経由すると、より効率的に人員・物資・燃料を輸送できる。言い換えれば、ここは将来の宇宙時代における海上交通の要衝や宇宙の港湾に相当する。特に注目されているのが、米国主導の月周回宇宙ステーション構想であるLunar Gatewayである。これは NASA を中心に、日本、欧州、カナダなどが参加するアルテミス計画の一部であり、月近傍のNRHO(Near Rectilinear Halo Orbit)という特殊軌道に建設予定である。この軌道はL1・L2の重力バランスを利用する準安定軌道であり、月面へのアクセスと地球との通信を効率化できる。
3.ラグランジュ点が盛衰を左右する理由
この宇宙ステーションが重要視される理由は、単なる科学基地ではないからである。そこを押さえる国家は、将来的に以下を掌握できる可能性がある。
①月輸送インフラの主導権
月面基地、資源採掘、ヘリウム3採取、氷(水資源)利用などが現実化した場合、中継拠点を持つ国が物流を支配しやすくなる。
②宇宙通信・監視の優位性
L1やL2は地球・月・深宇宙を結ぶ監視拠点にもなりうる。軍事的には、宇宙状況監視(SSA)や衛星追跡の前進基地としての意味を持つ。
③深宇宙進出の玄関口
火星探査や小惑星探査では、地球から直接出発するより、月近傍拠点から出発した方が燃料効率が良い場合がある。つまり、ここは将来の“宇宙版シンガポール”あるいは“宇宙版スエズ運河”になりうる。
4.ラグランジュ点を巡る攻防
そのため、現在は NASA のアルテミス計画に対抗する形で、中国とロシアも独自の国際月面研究基地(ILRS)構想を進めている。単なる科学競争ではなく、誰がシスルナー空間のルールを作るかという覇権競争の側面が強い。最初にそこへ中継ステーションを築くということは、19世紀に海峡・港湾・運河を押さえた海洋国家が世界覇権を握ったのと類似する意味を持つのである。21世紀後半の宇宙経済において、ラグランジュ点周辺は地政学上の宇宙のチョークポイントになる。
火星探査(付記)
1.人類文明の次なるフロンティア
火星探査計画とは、人類が地球外天体へ恒久的活動領域を拡大しようとする壮大な宇宙開発構想である。月探査が地球近傍圏への進出であるのに対し、火星探査は惑星間文明への移行を意味している。現在、NASA、ESA(欧州宇宙機関)、中国国家航天局(CNSA)、インド宇宙研究機関(ISRO)、更にはSpaceXを中心とする民間宇宙企業が、火星到達を21世紀最大の宇宙目標として掲げている。火星が特別視される理由は、太陽系の中で比較的地球環境に近い惑星だからである。火星には四季が存在し、一日の長さも地球に近く、かつて大量の水が存在していた痕跡も確認されている。そのため、火星は第二の地球候補として長年注目されてきた。現在の火星探査は、単なる科学探査ではなく、人類は地球外で生存可能かという文明論的課題へ接近しつつある。
2.冷戦から惑星文明構想へ
火星探査は1960年代の冷戦期に始まった。当初はソ連と米国による宇宙覇権競争の一環であり、多数の探査機が打ち上げられた。しかし初期の火星探査は失敗の連続であり、火星到達自体が極めて困難であった。本格的転換点となったのは、NASAのマリナー計画、バイキング計画である。1976年、バイキング1号・2号は火星表面着陸に成功し、火星地表写真や土壌分析を人類にもたらした。ここで火星は、単なる赤い星から、科学的研究対象へ変化した。21世紀に入ると、探査の重点は生命存在可能性へ移行した。NASAのスピリット、オポチュニティ、キュリオシティ、パーサヴィアランスなどの探査車は、火星に古代の水環境が存在した証拠を次々に発見した。特に2021年に着陸したパーサヴィアランスは、将来のサンプルリターン計画を前提として火星岩石試料を採取しており、これは人類初の本格的火星地質学への入口と位置づけられている。
3.NASAの火星探査戦略
現在NASAは、Moon to Mars戦略を推進している。これは、アルテミス計画による月面活動を火星探査への前段階と位置づける構想である。NASAは、火星有人探査に必要な技術として、長期宇宙滞在技術、放射線防護技術、閉鎖型生命維持システム、現地資源利用、深宇宙通信、長距離輸送システムなどを挙げている。これらはすべて、まず月面で実証される計画となっている。火星は地球から平均約2億2500万km離れており、現在の技術では片道半年以上を要する。そのため、火星探査は単なる宇宙飛行ではなく、人間が完全孤立環境で長期間生存可能かという実験でもある。
4.火星サンプルリターン計画
NASAとESAは現在、火星サンプルリターン計画を進めている。これはパーサヴィアランスが採取した火星岩石サンプルを地球へ持ち帰る計画である。もし実現すれば、人類は初めて火星物質を本格的に地球研究施設で分析可能となる。そこでは、火星生命痕跡、有機分子、古代水環境、火星地質進化などが詳細に解析される予定である。この計画は技術的難度が極めて高く、地球外天体からの自動離陸、宇宙空間ドッキング、長距離帰還など、多数の新技術を必要としている。
5.SpaceXとイーロン・マスクの火星構想
現在、火星探査を最も急進的に推進しているのが、SpaceXの創設者イーロン・マスク である。マスクは単なる火星探査ではなく、火星都市建設を最終目標として掲げている。彼は、人類文明が単一惑星文明に留まる限り、核戦争、人工知能暴走、パンデミック、小惑星衝突などによって絶滅リスクを抱え続けると主張している。そのため、火星移住は文明バックアップ計画として位置づけられている。SpaceXが開発中のスターシップは、火星輸送を前提とした超大型宇宙船である。従来の宇宙船とは異なり、完全再使用型であり、大量輸送を前提としている点が特徴である。もしStarshipが実用化されれば、宇宙輸送コストは劇的に低下する可能性がある。これは、航空機が大量輸送時代を開いたのと同様、宇宙開発史における構造転換となり得る。マスクは将来的に数百万人規模の火星都市建設を語っているが、現時点では極めて長期的構想であり、多数の技術的課題が残されている。
6.中国の火星探査戦略
中国もまた、火星探査を国家戦略の中心へ据えつつある。2021年、中国は天問1号によって火星周回・着陸・探査車運用を同時成功させた。これは米国以外では極めて画期的成果であった。中国は、NASA型の国際協力・民間企業連携型ではなく、中央集権的国家主導モデルを採用している。現在中国は、火星サンプルリターン、有人火星探査、深宇宙基地構想などを進めており、米国との惑星間覇権競争の様相を強めつつある。
7.火星探査の技術的課題
火星探査には極めて多くの困難が存在する。最大の問題の一つは宇宙放射線である。火星には地球のような強力磁場が存在せず、宇宙飛行士は長期間にわたり高エネルギー放射線へ曝露される危険がある。また低重力環境による筋力低下、骨密度減少、閉鎖空間ストレス、通信遅延も深刻である。火星との通信には数分から20分以上の遅延が生じるため、リアルタイム地上支援は不可能となる。更に、火星着陸自体も極めて難しい。火星大気は薄すぎて完全空力減速が困難であり、一方で大気は存在するため単純な月面着陸方式も使えない。この薄すぎるが存在する大気が、火星着陸を宇宙工学上最大級の難題にしている。
8.火星探査が意味するもの
火星探査の本質は、単なる惑星科学ではない。それは、人類は地球という揺り籠を離れられるのかという問いそのものである。アポロ計画が冷戦の象徴であったのに対し、火星探査は文明存続戦略へ近づきつつある。そこでは宇宙開発は国家威信ではなく、人類種全体の長期生存可能性に関わる問題となる。もし人類が火星で自律的社会を築くならば、それは地球文明誕生以来最大級の歴史的転換となる。火星探査とは、単なる宇宙旅行計画ではなく、人類文明が惑星文明から恒星系文明へ移行できるかを試す壮大な実験である。
