諏訪敦 絵画作品集 Blue

諏訪敦 絵画作品集 Blue
2017年刊
諏訪敦著

目次

諏訪敦の経歴

諏訪敦は1967年北海道生まれ。武蔵野美術大学大学院で油画を学び、早くから徹底した写実技術によって注目を集めた。1990年代以降、日本の写実絵画の再興の流れの中で頭角を現し、人物、静物、歴史的主題へと領域を拡張してきた。単なる技巧的写実にとどまらず、死、不在、記憶といった主題を扱う点において、同時代の写実画家の中でも特異な位置を占める。

本書の内容

本書は、約70点に及ぶ作品図版を中心に構成されており、諏訪敦の初期から中期にかけての代表作を体系的に収録している。内容は大きく4つの軸から成る。

1.人物画
人物(とりわけヌード)画は単なる肉体描写ではなく、存在の不確かさや時間の堆積を感じさせるものであり、見る者に強い心理的緊張を与える。

諏訪敦
諏訪敦
諏訪敦
諏訪敦の人物画

2.静物画
豆腐や日用品などを描いた静物画は、極度の写実性によって物質の存在感を強調しつつ、その背後にある消滅や儚さを浮かび上がらせる。

諏訪敦
諏訪敦の静物画

3.歴史的主題
歴史的主題は後年へとつながる棄民的テーマの萌芽が見られる。

諏訪敦
諏訪敦
諏訪敦の独特の絵画

4.絵画哲学
本書は、単なる図版集にとどまらず、諏訪自身の言葉によって見ること、描くことの哲学が語られている。写実とは再現ではなく、認識の行為であるという姿勢が、作品とテキストの双方から浮かび上がる。

諏訪敦の絵画

諏訪敦の絵画は、見えるものを描くのではなく、見えないものを可視化する。技術的側面において、彼の描写は極めて精密である。皮膚の質感、微細な光の変化、物質の重量感に至るまで徹底的に観察され、再現されている。しかしその精密さは、いわゆるスーパーリアリズム的な表層の再現とは異なる。むしろ、描写の精度が高まるほどに、対象の不在や死の気配が浮かび上がる。人物画においては、モデルはしばしば無表情であり、視線は曖昧である。そこには個人の肖像というよりも、存在そのものが問われている。静物画においても同様に、豆腐や食品といった腐敗や消滅を内包するモチーフが選ばれ、時間の流れが画面に封じ込められる。諏訪の絵画とは、現実の再現ではなく、存在の痕跡の記録である。

写実絵画における突出性

諏訪敦の写実絵画が際立っている理由は、単なる技巧の高さではない。むしろ以下の三点において、従来の写実画家の中で図抜けている。諏訪敦の写実は、巧い写実ではなく思想としての写実へと到達している。この点において彼は、日本の写実絵画を次の段階へ押し上げた作家である。

1.主題の深度
多くの写実画家が美や精度に価値を置くのに対し、諏訪は死、記憶、不在という哲学的主題を正面から扱う。これにより、作品は単なる視覚的快楽を超え、存在論的問いを孕むものとなる。

2.写実の方向性
一般的な写実がより正確に見せることを目標とするのに対し、諏訪は見えないものを感じさせることに向かう。写実がむしろ不可視性を強調するという逆説的構造が、彼の独自性を形成している。

3.歴史性の導入
近年の棄民シリーズに代表されるように、個人的なモチーフを超えて、歴史や社会の問題を写実の中に取り込み、稀有な存在である。

諏訪敦にとってのレオナルド

諏訪敦にとってレオナルド・ダ・ヴィンチとは、写実の祖ではなく、技術の模範でもない。それは見ること=考えることであるという原理そのものである。その意味で彼の写実は、レオナルドの延長線上にありながら、現代において存在の不確かさを描く方向へと更新されたものである。諏訪敦は、レオナルドの後継者ではなく、その問いを現代において再起動する者である。

1.見ることの徹底としてのレオナルド
レオナルドの本質は、しばしば言われる万能性ではなく、観察の極限にある。彼は解剖、光学、運動、心理といったあらゆる領域を通して、対象を単なる外形ではなく、その成り立ちそのものとして把握しようとした。諏訪敦の写実もまた、同様に表面の再現を目的としない。皮膚の質感や光の揺らぎを描くことは、対象の背後にある時間や存在の不確かさを捉えるための手段である。この意味で諏訪にとってレオナルドとは、正確に描く人ではなく、世界をどのように見るかを発明した人である。

2.スフマートと存在の曖昧性
レオナルドのスフマートは、形態を曖昧にすることで、存在を深める方法であった。輪郭が消えることで、対象は固定された物体ではなく、時間の中で揺らぐ存在として現れる。諏訪敦の絵画においても、極度の写実でありながら、人物はどこか不確定である。そこには生と死の境界、存在と不在を漂う。諏訪にとってレオナルドとは、輪郭を曖昧にすることで、存在をより深くする方法の先駆者である。

3.科学と絵画の統合
レオナルドは科学と芸術を分離しなかった。観察、分析、記述のすべてが絵画へと統合されていた。諏訪敦もまた、対象を単に視覚的に写すのではなく、時間の蓄積、死の気配、記憶の痕跡といった不可視の要素を、徹底した観察と制作過程を通して画面に定着させる。この点でレオナルドは、諏訪にとって絵画が世界理解の方法であり得ることを証明した先駆的存在である。

4.オマージュの意味
諏訪敦がレオナルドを引用し、オマージュ作品を制作するのは、様式を借りるためではない。それはむしろ、人はどこまで世界を理解し、描くことができるのかという問いを引き受ける行為である。レオナルドを参照することで、諏訪は写実を単なる技術競争から切り離し、思考の領域へと押し戻す。諏訪のレオナルドへのオマージュとは、過去の再現ではなく、未完の問いへの参加である。

諏訪敦にとってのフェルメール

諏訪敦にとってフェルメールとは、単なる光の画家ではない。それはむしろ、見るという行為がどこまで静かに、そして深く世界を捉えうるかを示した極限の実例であり、写実が到達しうる精神的緊張の基準である。レオナルドが見ること=考えることの原点であるとすれば、フェルメールは見ること=感じることの完成形であり、諏訪敦はその両者のあいだで、現代の写実を再定義している。

1.光ではなく知覚の構造
フェルメールはしばしば光の画家と称される。しかしその本質は、光そのものではなく、光によって成立する知覚の構造にある。窓から差し込む光は、物体を照らすだけでなく、空間を分節し、時間を静止させ、見る者の意識を一点へと集中させる。諏訪敦が模写を行う理由もここにある。彼にとって模写とは、どのように世界が見えているのかという知覚のプロセスを身体的に再体験する行為である。フェルメールはその最も純粋なモデルである。

2.静止の中の時間
フェルメールの絵画は一見静止している。しかしその静けさは単なる停止ではなく、時間が極限まで凝縮された状態である。人物は動かず、物も変化しないが、そこには今まさに存在しているという強い時間意識が宿る。諏訪敦の人物画や静物画にも同様の性質がある。対象は動かないにもかかわらず、むしろその静止によって時間の重みが強調される。腐敗や死の気配すら感じさせる緊張は、この静止した時間から生じる。諏訪にとってフェルメールは、時間を止めることによって、逆に時間を感じさせる方法を示した。

3.存在の距離と匿名性
フェルメールの人物は、親密でありながらどこか遠い。視線は合っているようで合わず、個人の物語は語られない。この距離感が、見る者に強い内省を促す。諏訪敦の人物もまた、個人の肖像を超えた存在として描かれる。モデルは特定の人格としてではなく、存在そのものとして提示される。ここにはフェルメール的な匿名性が現代的に再構成されている。フェルメールは、人物を説明しないことで、逆にその存在を深くする方法を確立した画家であり、諏訪はその方法をより極端な形で引き継いでいる。

4.模写の意味
諏訪敦が青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)を模写し、その過程を公開した行為は象徴的である。それはどれだけ似せられるかという競技ではない。むしろ、光がどのように立ち上がるのか、形がどの段階で意味を持つのか、絵画がどの瞬間に存在へ変わるのかという問いを検証するプロセスである。フェルメールはこの問いを最も純粋な形で体現しているため、模写は過去への敬意であると同時に、現在の制作を問い直す実験でもある。

私のフェルメール(付記)

諏訪敦に触発されて、私もフェルメールを模写することに。

フェルメールの青いターバンの少女別名真珠の耳飾りの少女
真珠の耳飾りの少女
國井正人作
パステル

未来の輪郭

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