有元利夫 絵を描く楽しさ
1983年刊
有元利夫著
有元利夫の経歴
有元利夫(1946–1985)は、戦後日本美術においてきわめて特異な位置を占める画家である。東京に生まれ、藝大油画科に学び、在学中より独自の作風を確立した。彼は同時にバロック音楽に深い関心を持ち、リコーダー奏者としても活動していた。1970年代後半から80年代初頭にかけて頭角を現し、サントリー美術館大賞などを受賞して評価を確立する。しかし1985年、わずか38歳で急逝する。短い生涯であったが、その作品にはすでに完成された静謐な世界があり、時間を超えた普遍性を帯びている。
本書の内容
本書は単なる技法書ではなく、画家がなぜ描くのかという根源的問いに対する内面的記録である。彼にとって絵画とは、何かを主張する手段ではなく、世界と静かに響き合う行為であった。文章は平易でありながら極めて詩的で、制作の喜び、迷い、直観の重要性が静かに語られる。有元は、絵画を理論や技巧の集積としてではなく、自然に湧き上がる感覚によって成立するものと捉える。そこでは、上手に描くことよりも、心の中にあるまだ言葉にならない何かを掬い上げる行為こそが重要であるとされる。彼は、子供のような自由な視線、音楽的なリズム、そして沈黙の中に宿る感情を重視する。絵を描くことは苦行ではなく、むしろ世界と静かに共鳴する楽しさであり、このタイトルは単なる表現ではなく、彼の芸術観そのものである。
有元利夫の絵画世界
有元の絵画は、一見して古典的でありながら、どの時代にも属さない独特の時間感覚を持つ。画面にはしばしば人物像が配置されるが、それらは物語を語る存在ではなく、むしろ象徴として静かに佇む。特徴的なのは、構図の音楽性である。彼の画面にはリズムと間があり、まるで室内楽のように要素が均衡している。これは彼自身の音楽的素養と深く結びついている。色彩は抑制され、柔らかなトーンが支配し、強い主張を避けた静かな調和を生み出している。重要なのは沈黙である。有元の絵画には劇的な動きや感情の爆発はない。その代わりに、観る者の内面に静かに響く余白が広がっている。この沈黙こそが、彼の作品に詩的深度を与えている。


テンペラ
日本絵画史における位置
有元利夫は、日本の戦後絵画において主流であった前衛的抽象や社会性の強い表現とは異なる道を歩んだ。1970年代以降の日本美術がコンセプチュアルな方向へ向かう中で、彼はあえて絵画そのものの静かな本質に立ち返った。その位置づけは、単なる具象画家ではない。むしろ彼は、ルネサンス的静謐と東洋的余白を融合させた、極めて稀有な存在である。彼の作品は西洋絵画の形式を借りながら、日本的感性である間や沈黙の美を深く内包している。近年の若手作家における静謐志向や内面的表現への回帰において、その存在は再評価されている。彼は孤高の基準として、後世に静かな影響を与え続けている。
有元利夫の絵画と音楽(付記)
有元利夫の絵画と音楽の関係は、単なる主題的引用ではなく、作品の構造そのものに深く浸透している。彼は若い頃からバロック音楽に親しみ、自らリコーダーを演奏するほどの音楽的素養を持っていた。そのため彼の絵画には、旋律や和声に対応する視覚的秩序が内在している。画面に配置される人物やモチーフは、主役と伴奏の関係のように均衡を保ち、全体として室内楽的な静かな調和を形成する。彼の作品に顕著な間や沈黙は、音楽における休符や余韻に近く、時間の流れを可視化する役割を担う。強い感情の表出を避けた抑制的な色彩と簡潔な構図は、過剰な装飾を排したバロック音楽の精神とも通底する。有元の絵画は、音を持たない音楽、視覚化された旋律として成立しており、観る者は画面を通して静かな音楽的体験へと導かれる。

