絵画の変遷と未来

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人類と絵画の変遷

ラスコーの動物壁画
ラスコーの動物壁画

絵画は人類の意識の軌跡である。ラスコーの動物壁画から現代美術に至るまで、絵画の歴史とは技法の進歩の物語ではなく、人類が世界と自己をどう理解してきたかの軌跡である。宗教、科学、社会、個人意識の変容がその都度画面に刻まれ、絵画は常に時代の精神を映し出してきた。絵画史とは、人類の意識史そのものにほかならない。

1.窟壁画(絵画の原点)

絵画の歴史は、言語や文字よりもはるかに古い地点から始まる。その代表例が、約1万7千年前に描かれたラスコー洞窟の動物壁画である。そこには写実的でありながら躍動感に満ちた牛、馬、鹿が描かれ、人類がすでに見ることと描くことを通じて世界を把握しようとしていた事実が示されている。洞窟壁画は単なる装飾ではなく、自然との交信を担う象徴的行為であり、絵画は誕生の瞬間から精神的機能を帯びていたのである。

2.古代文明(象徴から秩序へ)

古代エジプトでは、絵画は死後の世界への準備として厳格な規範のもとに描かれた。人物は正面性と側面性を組み合わせた様式に固定され、写実よりも永遠性が重視された。一方、古代ギリシアでは人間中心主義が芽生え、人体比例や運動表現が探究される。ローマに至ると、遠近法的表現や陰影を用いた壁画が発達し、現実世界の再現が志向されるようになる。ここで絵画は、象徴から秩序、そして現実模写へと段階的に展開していった。

3.中世(信仰のための絵画)

中世ヨーロッパにおいて、絵画は再び宗教の支配下に置かれる。ビザンティンのイコンやロマネスク・ゴシックの壁画では、写実性よりも神の超越性が優先され、金地背景や平面的構成が用いられた。ここで絵画は見るためのものではなく、鑑賞者を神の世界へ導く視覚装置として機能したのである。

4.ルネサンス(世界の再発見)

14世紀以降のルネサンスは、絵画史における決定的転換点となる。遠近法、解剖学、光と影の研究が進み、絵画は再び自然と人間を科学的に捉え直す。レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロに代表される巨匠たちは、絵画を単なる職能から知的創造行為へと引き上げ、人間精神の可能性を画面に刻み込んだ。

5.バロック(劇性と人間性)

17世紀のバロック絵画では、強烈な明暗対比と動的構成によって、宗教や人間の情念が劇的に表現された。カラヴァッジョの写実主義は、神聖と俗を同一画面に引き寄せ、絵画を現実の肉体へと引き戻した。続くオランダ絵画では、宗教画に代わり市民生活や肖像が主題となり、絵画は社会の鏡としての役割を担うようになる。

6.近代(視覚革命)

19世紀、写真技術の登場は絵画の存在意義を根底から揺るがした。印象派は、正確な再現ではなく、光と色がもたらす一瞬の知覚を描くことで応答した。モネやゴッホは、外界の再現から内面の表現へと絵画の重心を移し、主観の可視化という新たな地平を切り開いた。

7.現代(問いとしての絵画)

20世紀以降、絵画はもはや一つの様式に収斂しない。キュビスムは視点を分解し、抽象絵画は対象そのものを放棄し、表現主義は行為や精神状態を画面に刻みつけた。ピカソやカンディンスキーに象徴されるように、絵画は何を描くかから、なぜ描くのかを問う存在へと変貌したのである。

近現代絵画の変遷

近現代絵画とは何であったか。19世紀から21世紀にかけての絵画史は、再現から知覚へ、知覚から意識へ、そして概念へと重心を移してきた。その背後には、産業革命、戦争、科学技術、メディアの変化が常に存在した。近現代絵画とは、世界をどう描くかではなく、世界をどう理解し、どう疑うかを問い続ける知的時代であった。

1.ロマン主義と写実主義

19世紀初頭の西洋絵画は、産業革命とフランス革命後の社会不安を背景に、理性と秩序を重んじた新古典主義から、感情と個の内面を重視するロマン主義へと傾斜した。ロマン主義は、自然の崇高さ、個人の激情、歴史的悲劇を主題とし、理性万能の近代への懐疑を画面に刻み込んだ。その後に登場する写実主義は、英雄的主題や神話を拒否し、労働者や農民といった同時代の現実を描くことで、絵画を社会批評の装置へと転換した。ここで絵画は、美や理想を示すものから、現実を直視する行為へと踏み出した。

2.印象派

19世紀後半、都市化の進展、鉄道網の拡張、チューブ入り絵具の発明といった技術革新は、画家をアトリエから戸外へ解き放った。印象派は、対象の輪郭や物語性よりも、光と色がもたらす一瞬の視覚体験を捉える。クロード・モネは、同一の風景を異なる時間帯で描き分け、世界が固定された実体ではなく、流動する現象であることを示した。印象派は写真の登場に対する絵画の根源的応答であり、再現ではなく知覚の芸術への転換点であった。

3.ポスト印象派

印象派の成果を引き継ぎつつ、それを超えようとしたのがポスト印象派である。ここでは方向性が複数に分岐する。ゴッホは、激しい筆触と色彩によって内面の感情を直接画面に刻み込み、絵画を心理表現の場へと押し広げた。一方セザンヌは、自然を円筒・球・円錐として捉え直し、感覚的印象の背後にある構造を探究した。ポスト印象派は、20世紀美術への二つの道(感情の解放と構造の探究)を同時に切り開いたのである。

4.フォーヴィスムと表現主義

20世紀初頭、ヨーロッパ社会は帝国主義の緊張と都市文明の加速の中にあった。フォーヴィスムは、自然再現を放棄し、純粋な色彩の力を解放することで、絵画を感覚の発露へと変えた。一方同時期の表現主義は、都市生活の疎外感や不安を歪んだ形態と強烈な色で表し、絵画を内的叫びとして表現した。ここで絵画は、外界の模写ではなく、精神状態の可視化へと決定的に舵を切る。

5.キュビスム

ピカソとブラックによって始まったキュビスムは、単一視点による再現を否定し、対象を複数の視点から同時に捉える試みであった。これは、写真や科学的思考、さらには相対性理論の登場と共鳴し、世界が一義的に把握できないという近代的認識を造形化した運動である。キュビスムは、その後の抽象美術とデザイン、建築にまで決定的影響を与えた。

6.未来派とシュルレアリスム

第一次世界大戦前後、絵画は文明そのものへの態度を問われる。未来派は機械、速度、暴力を賛美し、近代技術への陶酔を示したが、大戦の惨禍はその楽観を打ち砕いた。ダダは、戦争を生んだ理性と制度そのものを嘲笑し、反芸術としての態度を取る。そこから派生したシュルレアリスムは、フロイト心理学の影響を受け、無意識や夢のイメージを通じて理性中心主義を内側から解体した。絵画はここで、文明批評と深層心理の探究を同時に担うようになる。

7.抽象表現主義

第二次世界大戦後、美術の中心はパリからニューヨークへ移動する。抽象表現主義は、巨大な画面と身体的行為を通じて、個人の自由と実存を表現した。ポロックのドリッピング技法は、制作行為そのものを作品化し、絵画を出来事へと変えた。冷戦下において、この自由で非具象的な表現は、政治的にも象徴的意味を帯びていた。

8.ポップ・ミニマル・コンセプチュアル

大量消費社会とマスメディアの拡大は、ポップアートを生んだ。日用品や広告イメージを用いることで、芸術と日常の境界が解体される。一方、ミニマル・アートは、感情や物語を排し、形態そのものへ還元することで、見る行為の純化を試みた。コンセプチュアル・アートは、物質としての作品よりも概念を重視し、絵画とは何かという問いを社会そのものへ向けた。

9.多元化する絵画

グローバル化とデジタル技術の進展により、現代絵画は単一の潮流を持たない。写真、映像、デジタル技術、さらにはAIが制作に関与し、絵画は他メディアと融合しながら再定義され続けている。同時に、具象絵画の復権や社会問題への応答も進み、絵画は依然として思考するイメージとしての力を保持している。

現代絵画のムーブメント

20世紀後半以降の現代絵画は、社会やメディアの変化に応じて絵画とは何かという定義を更新し続けてきた。写真やメディアが視覚を支配する中で、絵画の核心は様式ではなく態度へと移行する。抽象絵画は、再現から離脱して色彩と形態を感覚的かつ時間的な経験へと変えた。ミニマリズムは表現の主体性を極限まで削ぎ落とし、空間を革新し、さらにポストミニマリズム以降は物質性や制作行為そのものが再び前景化した。デジタルとAIの時代、絵画は何を描くか以上に、いかなる時間感覚で世界を引き受けるかを問う媒体となり、過剰なイメージの中で迷いながらも、なお格闘を続けている。

1.抽象表現主義の余熱

戦後アメリカで隆盛した抽象表現主義は、絵画を描かれた像ではなく起きた出来事として成立させた。ポロックのドリッピングは、線を描くのではなく身体の軌跡を画面に沈殿させる。クーニングは形象と抽象の境界で、絵画がなお肉体的葛藤であることを示した。絵画は自由や実存と結びつけられた。巨大なキャンバス、強いジェスチャー、作者の個性の神話。それらが戦後絵画の出発点となる。

2.カラーフィールドとミニマリズム

抽象表現主義の熱を冷ますように、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンに代表されるカラーフィールドは、筆致の劇性を抑え、色面と場の経験へ絵画を移した。ロスコの画面は絵を見せるというより色の前に立たせる装置であり、鑑賞者の瞑想を前提に成立する。同時期のミニマリズムは、絵画をさらに還元し、フランク・ステラは見えるものがすべてだという態度で、作品を物体としての平面へ押し戻した。ここで絵画は、内面の告白から距離を置き、知覚を問う方向へ向かった。

3.ポップアート

テレビ、広告、コミック、パッケージ。大量複製されるイメージそのものが主題になるのがポップアートである。ウォーホルは、手触りある作者性を意図的に薄め、反復と機械的手続きで商品としてのイメージを絵画に移植した。リキテンスタインはコミックの網点と記号化された感情を拡大し、絵画が高尚である必要などないと宣言した。

4.コンセプチュアルとポスト・ミディアム

この時代の急進性は、絵画が不要だと言い切る地点にある。概念芸術は、作品の物質性よりもアイデアを主役にし、制作・展示・言語の枠組みそのものを問題化した。これにより、絵画は中心から追い出され、写真、映像、パフォーマンス、インスタレーションが前面に躍り出る。しかし皮肉なことに、絵画はここで死ななかった。むしろ絵画は終わったという言説を背負ったまま生き延びた。以後の絵画は常に自問を内蔵することになる。

5.フォトリアリズム

写真が現実の記録を担うなら、絵画は何をするのか。フォトリアリズムは、写真を参照して写真以上に精密に描くことで、この問いを逆手に取った。それは写実の復活ではなく、現実がすでに写真を通じて経験されるという状況認識である。リヒターの絵画はさらに複雑である。写真をぼかし、写真の上に描くことで、記憶と歴史の不確かさを視覚化する。彼にとって絵画は、真実を断定する媒体ではなく、むしろ真実の曖昧さを保持する媒体である。

6.ネオ・エクスプレッショニズム

コンセプチュアルの冷えた空気の反動として、絵画は劇的に回帰する。シュナーベルやキーファーは、荒々しい筆致、象徴、歴史、個人神話を前面に押し出した。だがこの回帰は、ルネサンスの再来ではない。絵画はすでに終わったと言われた後であり、引用と断片、歴史の瓦礫、メディアの残骸を抱えたまま戻ってくる。同時に80年代は美術市場の国際化が進み、絵画は投資対象としても急速に流通する。ここで絵画は、表現であると同時に商品でもあるという矛盾を、より露骨に引き受けることになる。

7.アイデンティティの多様化

冷戦の終結とグローバル化の進展は、美術を欧米中心から多極化へ向かわせた。絵画もまた、単一のスタイルではなく、政治・ジェンダー・人種といった主題を引き受ける複数の語り口へ分岐する。キーファーが歴史の負債を扱うのに対し、デュマスは身体と欲望、権力と視線を、淡い絵具の不安定さで描く。ルシアン・フロイドは、肉体を容赦なく見つめることで、写真時代における絵画的な見ることの残酷さと誠実さを示した。ここでは、上手い下手より、何をどう引き受けるかが核心となる。

8.抽象の再起動

抽象は終わらなかった。ただし純粋抽象という理想形ではなく、歴史と制度を知った後の抽象として再起動する。マーデンの線は瞑想のように密度を増し、マーティンの格子は、感情を消すことで逆に精神の震えを浮上させる。抽象は何も描かない態度ではなく、見ることの速度を変える。情報が過剰な社会において、抽象は時間を取り戻すための技術になる。

9.新しい具象と絵画的リアリティ

21世紀に入ると、具象は多様な形で再評価される。だがそれは、19世紀的写実の復古ではない。写真・映画・ゲーム・SNSを前提に、絵画だけが作れる嘘のリアリティを積極的に扱う。ワイリーは古典絵画の構図と権威を引用しつつ、黒人男性像を堂々と中心に据え、歴史画を転覆させる。サヴィルは肉体の量感を過剰に描き、理想化された身体像を破壊する。ここで絵画は、再現ではなく、歴史と権力を編集する機械となる。

10.ポスト・インターネットと絵画

インターネットは画像を無限に流通させ、絵画を希少な手作業へ追いやったかに見える。だが同時に、画面の洪水は、人間の視覚と注意を消耗させた。ポスト・インターネット的な感覚のもと、絵画はデジタルの質感、スクリーンの平面性を参照にしながら、逆に物質としての絵具、サイズ、存在感を武器にしていく。絵画はネットと競争するのではなく、ネットによって変形した知覚を引き受け、その後の身体感覚を回復させる媒体になった。

11.AIと絵画

生成AIや高度な編集ツールは、イメージ制作の速度と量を極限まで引き上げた。これにより、絵画は手で描いたという事実だけで価値を保証されにくくなる、一方逆に、なぜ手で描くのかという動機が作品の中心に浮上する。絵画は、AIと競う写実ではなく、選択・ためらい・痕跡といった人間固有の時間を可視化する方向に強みを持つ。同時に、美術市場のグローバル化と投機性は続き、作品は金融商品のように移動する。絵画は、制度と市場に絡め取られながらも、その内部で人間性をどう確保するかを迫られている。

写真と絵画

写真は絵画を殺さず、鍛え続けた。写真の発明と普及は、絵画から再現の特権を奪った。しかしそれは終焉ではなく、再定義であった。写真が世界がどう見えるかを示すなら、絵画は人間がどう世界を見るかを問い続ける。フェルメールに始まる光学的視覚、印象派の知覚革命、前衛の時間分解、リヒターの写真批評、そしてデジタル時代の再物質化。写真は常に絵画の隣に立ち、その弱点を突きながら、可能性を押し広げてきた。写真と絵画の関係とは、競争ではなく、緊張に満ちた共進化の歴史なのである。

1.カメラ・オブスクラと正確に見る欲望

写真の歴史は、近代写真機の発明以前から、すでに絵画の内部で始まっている。その象徴がカメラ・オブスクラ(暗箱)である。外界の光を小孔やレンズを通して反転投影するこの装置は、自然を正確に写し取るための補助具として、ルネサンス以降の画家たちに利用された。とりわけ17世紀オランダ絵画において、フェルメールの室内画に見られる独特の焦点の浅さや光の粒立ちは、カメラ・オブスクラ的視覚の影響を強く示唆する。ここで重要なのは、写真以前から絵画がすでに機械的視覚を部分的に内面化していた点である。写真は絵画の外部から突然現れた異物ではなく、長年にわたって準備されてきた視覚革命の帰結であった。

2.写真の発明と再現の危機

1839年のダゲレオタイプ発表により、光は人間の手を介さず、化学反応によって像を定着させるようになった。この瞬間、絵画が担ってきた正確な再現という使命は、根底から揺らぐ。肖像画、風景画、記録画という領域において、写真は速度・精度・費用のすべてで絵画を凌駕した。この衝撃は、絵画を衰退させるどころか、逆にその本質を問い直す契機となった。もはや絵画はどれほど似ているかでは存在意義を主張できなくなった。写真の登場は、絵画を再現から解放し、別の価値領域へ押し出す決定打となったのである。

3.写真への応答としての近代絵画

写真が現実を自動的に固定する装置であるなら、絵画は何を描くべきか。写実主義は、写真の存在を前提にしつつも、社会的現実や労働の重みを主題として選び、単なる視覚再現ではない現実への態度を絵画に持ち込んだ。印象派は、さらに根本的な転回を行う。写真が瞬間を切り取るなら、絵画は見る行為そのものを描く。モネは、輪郭を曖昧にし、光と色の揺らぎを前面化することで、客観的記録ではなく主観的知覚を主題化した。印象派の画面に見られる大胆なトリミングや非対称構図は、明らかに写真のフレーミング感覚と共振している。

4.写真がもたらした新しい構図と時間感覚

写真は、動きの途中で切り取られた身体、画面外へはみ出す人物、中心を外した構図といった、それまでの絵画には稀だった視覚を普及させた。ドガの踊り子や競馬の場面は、まさにスナップ写真的視覚を絵画へ移植したものである。ここで絵画は、永遠性の象徴から、一瞬性と偶然性を内包する媒体へと変質する。写真は時間を止める技術であり、絵画はその時間感覚を学び取り、再構成したのである。

5.写真と前衛美術

20世紀に入ると、写真技術は連続撮影や高速撮影へ進化し、肉眼では捉えられない運動や時間構造を可視化した。これに呼応するかのように、キュビスムは単一視点を解体し、対象を複数の角度から同時に描く。ピカソの絵画は、写真が示した現実は一視点では把握できないという認識を、造形的に推し進めた結果である。未来派は、連続写真の影響を受け、運動そのものを画面上に分解・重ね合わせ、時間を可視化しようとした。写真はここで、単なる競争相手ではなく、思考の触媒として機能している。

6.写真を描くという選択

第二次世界大戦後、写真は報道・記録・記憶の主要メディアとなり、絵画はその影に追いやられる。しかし一部の画家は、写真を排除するのではなく、あえて写真を描く道を選んだ。フォトリアリズムは、写真を忠実に再現することで、現実がすでに写真を介して知覚されている事実を逆説的に示した。その中で決定的存在がリヒターである。彼は写真を基に描きながら、像を意図的にぼかすことで、写真が約束する客観性や真実性を不安定化させた。リヒターにおいて絵画は、写真の代替ではなく、写真の信頼性そのものを疑う装置となる。

7.デジタル写真の時代

21世紀において、写真はデジタル化され、無限に複製・加工・流通する。もはや写真は現実の証拠ではなく、操作可能なデータである。この状況下で、絵画は再び独自の役割を獲得する。多くの現代画家は、写真やスクリーンの平面性を前提にしながら、絵具の物質性、サイズ、制作時間といった身体的条件を強調する。写真が瞬時に生まれる像であるのに対し、絵画は遅く、痕跡を残し、修正を内包する。その遅さこそが、過剰なイメージへの抵抗となる。

AIと絵画

AI合成画像がさらに高度化すれば、視覚は真偽を判定する手段ではなくなる可能性がある。そのとき、絵画に残される役割は、真実を示すことではなく、世界に対する態度を示すことである。AIが統計的平均としての世界らしさを生成するのに対して、絵画は、正確さや速さではなく、人が世界をどう引き受けるかを、遅く不可逆的な痕跡として提示する。AIは絵画を終わらせるのではなく、人間にした担えない絵画をかえって際立たせることになる。

1.AI合成画像という新たな断層

写真の発明が絵画から再現の特権を奪い、デジタル写真が証拠としての信頼性を揺るがしたとすれば、AIによる合成画像は、イメージと現実の因果関係そのものを切断する段階に到達した技術である。カメラが光を受けて像を定着させる装置であったのに対し、生成AIは外界を必ずしも参照しない。そこにあるのは、世界の写しではなく、膨大な既存画像から統計的に生成されたもっともらしい像である。この断層は、写真史・絵画史において、かつてない質の転換をもたらしている。

2.写真からAIへ

写真は、たとえ加工されても、原理的にはそこにあった光の痕跡を内包していた。しかしAI合成画像にはそれがない。この点において、AI画像は写真よりもむしろ絵画に近い。だが決定的に異なるのは、作者の身体や判断が、制作過程から大きく後退している点である。絵画が描く時間を通じて世界との関係を編み直してきたのに対し、AI画像は即時的に生成され、時間の厚みを欠く。この非対称性が、現代の絵画に新たな課題を突きつけている。

3.現在進行形の影響

現在、AI合成画像の影響が三つの方向で顕在化している。第一に、視覚証拠の崩壊である。ディープフェイク技術は、報道写真や歴史的記録の信頼性を根本から揺るがし、視覚はもはや真実の保証にならない。これは政治やメディアの問題であると同時に、絵画にとっては、写真が占拠してきた現実性の代行という役割が完全に空洞化したことを意味する。
第二に、作者性の希薄化である。生成AIは、個々の画家のスタイルを学習し、模倣可能にする。これは、近代以降絵画が築いてきた個人の筆触=固有性という神話を解体する圧力として作用している。
第三に、イメージ過剰の極限化である。SNSと生成AIの結合により、世界はもはや人間が消費しきれない量の画像で満たされる。この状況は、絵画をさらに作ること自体の意味を問い直す。

4.写真批評の継承

ここで改めて参照されるべき存在が、リヒターである。リヒターは20世紀後半、写真を基に絵画を描きながら、意図的なぼかしによって写真の客観性と真実性を不安定化させた。彼にとって絵画とは、写真を否定するものではなく、写真が隠している不確かさを可視化する行為であった。AI時代において、この態度は新たな意味を帯びる。AI画像が完璧にもっともらしい像を即座に生み出す時、絵画は逆に、不完全さ、迷い、修正、失敗といった人間的プロセスを引き受けることで、批評性を保持しうる。リヒターの仕事は、写真からAIへの移行期における一つの思想的橋渡しとなる。

5.AIと共存する現代絵画

現代絵画において、AIは敵対すべき存在というより、前提条件として受け入れられつつある。多くの画家は、AI生成画像を参照資料として用いたり、あえてAI的な均質さを画面に持ち込んだりしながら、その上でなぜ人が描くのかを問い直している。このとき重要なのは、写実性や完成度ではない。むしろ、制作にかかる時間、絵具の物質性、画面のサイズ、身体の痕跡といった、AIが容易に代替できない要素が、絵画の核心へと浮上する。AIが即時的な像を量産するほど、絵画は遅く、重く、局所的なメディアとして再定義される。

未来の絵画

1. AIと量子コンピュータがもたらす不可逆的変化

AIと量子コンピュータの普及は、絵画にとって単なる制作支援技術の登場ではない。それは、近代以降の絵画が依拠してきた人間だけが世界を認識し、像を生み出すという前提そのものを解体する出来事である。写真が再現の役割を奪い、デジタル技術がイメージの複製と流通を無限化したのに続き、AIは生成の主体性を揺るがし、量子コンピュータは世界理解の計算的枠組みを根底から書き換えつつある。絵画は今、技術史の節目において、再び自らの存在理由を問われている。

2.AIを前提とした絵画

AIによる画像生成が一般化した世界では、具象・抽象を問わず、高度に完成されたイメージは誰でも即座に得られるようになる。ここで起きている最大の変化は、上手く描けることがもはや絵画の価値を保証しなくなった点である。この状況は、20世紀後半にポロックが示した描かれた像よりも行為が重要であるいう転換を、別の角度から再び突きつけている。AIが完璧な像を量産するほど、絵画は完成度ではなく、なぜその像を引き受けたのかという動機と態度を問われるようになる。

AI時代の絵画は、AIを排除するよりも、むしろそれを前提として取り込んでいく。写真を描いたフォトリアリズムや、写真の不確かさを可視化したリヒターの仕事は、その先駆である。今日では、AI生成画像を参照し、それを意図的に歪め、破壊し、描き直すことで、AI的なもっともらしさを批評する絵画が現れている。ここで絵画は、生成技術に対抗するのではなく、生成結果を思考の素材として引き受ける装置へと変質している。

3.量子コンピュータがもたらす視覚の変化

量子コンピュータの本質は、世界を決定された状態ではなく、確率的に重ね合わされた状態として扱う点にある。この量子的世界観は、やがて視覚表現にも影響を及ぼすだろう。従来の絵画が、単一視点・単一時間・単一解釈を前提としてきたとすれば、量子的思考に親和的な絵画は、複数の状態や意味が同時に成立する画面を志向する。これはキュビスムが示した複数視点の思想を、さらに深いレベルで拡張するものである。絵画は決まった意味を示す像から、意味が揺らぎ続ける場へと近づいていく。

4.絵画は遅いメディアになる

AIと量子計算が高速化すればするほど、絵画は意図的に遅くなる。制作にかかる時間、絵具の乾燥、修正の痕跡、身体の疲労といった要素は、効率化できないがゆえに価値を持つ。これは技術的な後退ではない。むしろ、即時的に生成されるAI画像に対して、絵画は人間の時間を引き受けるメディアとして再定義される。

5.完成ではなく選択を示す絵画

AIは無数の可能像を生成できるが、選ばない。選ぶのは人間である。今後の絵画において重要になるのは、何を描いたか以上に、無数の可能性の中から何を捨て、何を残したかである。この意味で、画面は結論ではなく、選択の痕跡となる。量子計算的に言えば、観測によって状態が収束する瞬間を、絵画は可視化する行為になるだろう。

6.AIと量子時代における画家とは何か

この時代の画家は、もはや卓越した職人や孤高の天才ではない。画家とは、生成されすぎる世界において、どの像を引き受け、どの像を拒否するかを引き受ける存在である。AIが平均的な美を生成し、量子計算が複雑性を処理するなら、画家は偏り、執着、倫理といった、人間固有の歪みを引き受ける役割を担う。画家とは、世界を最適化しない者である。

絵画は、正しさや速さを競うメディアではない。AIと量子コンピュータの時代において、絵画が生き残る理由は、世界をうまく説明することではなく、説明しきれないものを、あえて残すことにある。画家は、その残余を引き受ける最後の主体であり続ける限り、消滅することはない。

座右の絵画

人類の絵画史を振り返ると、絵画は常に時代背景や技術、思想の変化とともに姿を変えながら、その都度、驚くべき達成を示してきた。洞窟壁画から宗教画、写実、抽象、そしてAIの時代に至るまで、画家たちはそれぞれの条件の中で世界を掴み取ろうとしてきた。しかし、私には、絵画が本来持っていた原初的な力という点において、人類は未だにラスコー洞窟の壁画を超えられないように思う。あの圧倒的な感動と生命の実在感は人類不滅の絵画である。

ただしかし、人類の英知が絵画として極限まで高められた瞬間も確かに存在する。私にとってそれは、スフマートによって何十年もの歳月をかけ、人間の奥底を画面に封じ込めたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画であり、生涯を捧げて聖母の崇高を描き切ったラファエロの絵画である。そこには、知性と感性が均衡した、人類が到達し得た一つの絵画的境地が示されていると思う。

岩窟の聖母
「岩窟の聖母より天使部分」
モナリザ
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
草原の聖母
ラファエロ「草原の聖母」

それらをも超えて、自然そのものを人間の手で画面に定着させ得た稀有な例が長谷川等伯の「松林図屏風」であると私は思う。この作品は、自然を再現するのでも、解釈するのでもなく、人と自然が同じ呼吸の中で立ち現れた瞬間を捉えている。対局の絵画ではあるが、ラスコーの動物壁画に対峙できる人類が到達した境地であると思う。絵画とは何かという問いに対し、技術や理論を超えて静寂で答えるこの一双の屏風に、私は人類の絵画が到達し得た最深部を見るのである。國井正人

長谷川等伯松林図屛風
長谷川等伯「松林図屛風」

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