歴史を動かした一族
1.シェルバーン一族(Shelburne)
シェルバーン一族は、18世紀のアイルランドおよび英国貴族制度に連なる家系である。特にウィリアム・ペティ=フィッツモーリス(第2代シェルバーン伯、後のランズダウン侯)によって名を高めた。一族の稼業は商業ではなく、土地所有と政治であり、英帝国期において議会政治・外交・植民地政策に深く関与した。産業革命期以降も地主貴族としての地位を維持し、知的サロンや政策形成に影響力を持った。現在は直接的な政治権力は失ったが、名門貴族として文化・学術・慈善分野で象徴的存在に留まっている。
2.タクシス家(Thurn and Taxis)
タクシス家の起源は13世紀の北イタリア・ロンバルディア地方である。当初は騎馬郵便事業を生業とし、神聖ローマ帝国の公的郵便制度を事実上独占することで巨大な富を築いた。一族の稼業は通信インフラであり、近代国家成立以前にヨーロッパ全域を結ぶ情報ネットワークを構築した点で画期的である。帝国解体後は郵便独占を失うも、蓄積した資本を金融・不動産・資産運用へ転換した。現在の事業は、往時の郵便事業そのものではなく、不動産・森林等の実物資産の保有管理とそれに付随する資産運用であり、歴史資産(城館)を核にした観光・文化イベント等に重心があると言われている。
3.サヴォイ家(Savoy)
サヴォイ家の起源は11世紀のアルプス山岳地帯に遡る。峠道と交易路を支配することで勢力を拡大し、やがてサルデーニャ王国を経てイタリア王国の王家となった。一族の稼業は国家統治そのものであり、軍事・外交・王権を通じて近代イタリア統一を主導した。第二次世界大戦後の王政廃止により政治的地位を失ったが、欧州王侯社会では依然象徴的存在である。現在は、王朝の伝統をめぐる団体活動(慈善・文化イベント、講演シリーズ等)や、個々の王族メンバーによる事業・メディア活動が中心となる。したがって事業としては、国家統治の延長ではなく、文化・慈善の組織運営とブランド化されたイベント、個人の事業という形に収れんしている。
4.デルバンコ家(Del Banco)
デルバンコ家はイタリア系またはセファルディ系に由来する金融・商業一族であり、名称は銀行(Banco)に由来する。中世後期から近世にかけて、地中海交易や両替・信用供与を稼業とし、都市国家経済を支えた。一族は王侯貴族よりも都市金融エリートとして活動し、商業資本主義の初期段階を体現した存在である。近代以降は家名としては分散し、特定の国際的名門としての連続性は弱いが、金融・学術分野に子孫が散在している。
6.ブロンフマン家(Bronfman)
ブロンフマン家の起源は東欧系ユダヤ人である。20世紀初頭にカナダへ移住し、酒類製造会社シーグラムを中核として巨大な富を築いた。一族の稼業は酒類・エンターテインメント・不動産・金融であり、近代企業経営を通じて影響力を拡大した。文化・慈善活動にも積極的で、ユダヤ系国際ネットワークの中核を担った。現在は一族としての単一中核企業というより複数の枝が投資・メディア・金融に分散して影響力を保っている。具体的には、エドガー・ブロンフマンJrがメディア領域で経営者として活動し、投資会社に関与してきた。一族の周辺に投資会社群が形成されている。現在のブロンフマン家は、王侯貴族型の領地経営ではなく、資本市場に直結した投資・メディア・慈善(財団)を通じて影響力を持つ家系である。
7.歴史を動かした一族の分析
これら一族は王権・通信・金融・交易・土地支配という中枢インフラ担い手である。共通点として国家や市場の外縁ではなく、むしろ国家と市場の接合部に位置してきた点にある。これら一族は陰謀論的な単一の黒幕に収斂させるよりも、時代ごとの中枢インフラが王権→土地→通信→市場→金融へと移るにつれて、各家がその都度、象徴化、機能転換、企業化・金融化のどれを選んだかという制度適応の歴史として理解するのが適切である。現代ディープ・ステート論的に言うならば、家名ではなく、彼らが規制設計、資金供給、情報流通、外交・政策コミュニティのどこにどれだけ関与しているかを個別に追う必要がある。
.①国際金融資本との関係
前近代の貴族(サヴォイ家など)は、資本市場よりも先に土地・徴税・軍事・同盟という国家の会計以前の収益装置を握った。これは国際金融資本と直結するというより、国際金融が成立する前段階の権力の担保に近い。近代以降、王権・領邦権力が縮小すると、彼らの資産は土地・不動産・文化財・持株などに姿を変え、金融資本とは資産運用の相手方として接続する形になる。一方、タクシス家は通信インフラを独占し、現代で言えばネットワーク産業の先駆として、国家横断の情報流通に深く関与した。これは金融資本に直結するというより、金融資本が機能するための前提である情報・信用伝達を提供することで、結果的に資本と相互依存した構造である。ブロンフマン家は近代企業資本の典型で、酒類・メディア・投資を通じて資本市場に直接統合された側である。つまり、貴族は担保(領地・称号・支配権)を資本へ変換し、タクシスは通信を通じて国家と市場の回路を形成し、ブロンフマンは企業と市場を通じて資本を増殖という違いがある。
➁現代ディープ・ステート論との関係
誤解が生まれやすいが、現実的にいうディープ・ステートは、単一の秘密結社というより、官僚機構・安全保障機関・大企業・金融・メディア・シンクタンクなどが織りなす制度的ネットワークである。これら一族が現代ディープ・ステートの中枢に君臨していると短絡する訳にはいかない。むしろ、歴史的に中枢インフラを担った一族は、現代では次のように理解した方が適切である。第一は象徴化で、旧貴族が政治権力を失い、文化資本・社会的威信として残るケース(多くの中世伯爵家の末裔)。第二は機能転換で、タクシスのようにインフラ独占から資産運用・不動産・持株へ移り、制度内のプレイヤーとして影響力を保つケース。第三は企業化・金融化で、ブロンフマンのように市場制度の内部で影響力を行使するケースである。ここで重要なのは、現代の影響力は血統そのものより、資本・規制・情報・人的ネットワークの結節点に生まれるという点である。家名は結節点へのアクセスを助ける場合があるが、決定要因ではない。
➂ユダヤ系・非ユダヤ系の比較構造
これは能力や本質の差ではなく、歴史的に置かれた制度環境の差として整理すべきである。一般に欧州では、キリスト教社会の制度の中でユダヤ人が土地所有やギルド加入を制限される局面があり、その結果都市部の商業・金融・国際ネットワークに相対的に比重が置かれた時期があった。逆に非ユダヤ系の貴族は、土地・軍事・官職を通じて国家権力の内部に入り込み易かった。ここからユダヤ系が越境型(都市・商業・金融・ディアスポラネットワーク)、非ユダヤ系貴族が領域型(土地・統治・軍事・官職)という役割分化してきた。近代以降、資本市場と国民国家が整備されると、この分化は急速に混ざり合う。ブロンフマン家はユダヤ系の越境型ネットワークを背景にしつつも、やっていることは典型的な近代企業資本であり、非ユダヤ系エリートと同じ市場規範で動く。タクシス家は非ユダヤ系貴族だが、越境通信という点では越境型の機能を担った。つまり、現代ではユダヤ系=金融、非ユダヤ系=権力といった単純化は当てはまらず、むしろ国家内の制度(規制・官僚・政治)と、国家外の制度(市場・資本・情報)の結節点をどれだけ押さえているかが本質になる。
ロスチャイルド(ロートシルト)
ロスチャイルド(Rothschild英語圏表記、ロートシルトは独仏語圏表記)一族は、18世紀後半に成立した近代国際金融の原型を築いた家系であり、越境ネットワーク・信用・制度適応によって影響力を形成してきた一族である。
1.起源と成立
ロスチャイルド家の起源は、ドイツ・フランクフルトのユダヤ人居住区に生まれたマイヤー・アムシェル・ロートシルトに遡る。彼は両替・貴金属取引を基盤に信用を積み上げ、18世紀末から19世紀初頭にかけて、5人の息子をロンドン、パリ、ウィーン、ナポリ、フランクフルトへ配置した。この五本支店体制は、国境を越える情報伝達・為替決済・資金移動を同族内で完結させる画期的な仕組みであり、戦争と国家財政が肥大化する時代に、各国政府の信認を獲得した。
2.事業の本質
ロスチャイルド家の事業は、単なる銀行業に留まらない。その核心は国家金融の仲介(戦時国債の引受、政府融資、通貨安定への関与)にある。独自の通信網により、政治・戦況・相場情報を迅速に把握し、情報優位を確立した。また王侯・政府・市場からの信認を家名として蓄積し、信用を制度化した。ロンドン拠点のN M Rothschild & Sonsは、19世紀以降の英金融の中核的存在であり、金市場や政府金融に深く関与した。ロスチャイルド家はしばしば裏で世界を操ると描かれるが、実態は制度の内側で機能する金融仲介者である。彼らの力は、軍事や政治を直接指揮する権力ではなく、資金・信用・決済という国家運営に不可欠な回路を支える力にあった。つまり、王権や官僚に代わる支配者ではなく、国家が依存する金融インフラとして影響力を持ったのである。
3.ユダヤ系ディアスポラとしての特徴
ロスチャイルド家はユダヤ系ディアスポラであり、特定の領土や王朝に依存しない立場が、越境金融に適していた。土地支配や官職に制限がある環境下で、信用・教育・親族ネットワークを資本化した点が特徴である。これは能力の優劣ではなく、歴史的状況に適応した結果であり、同時代の非ユダヤ系貴族が土地と軍事を基盤にしたのと対照的である。
4.現代における位置づけ
20世紀後半以降、金融は株式会社化・規制化・市場化が進み、一族が国家金融を左右する時代は終わった。この家系が特異なのは、現在も実在する金融機関を複数保持している点である。ロンドンおよびパリを中核とする Rothschild & Co は、19世紀の商業銀行から形態を変え、今日ではM&A、資産運用、マーチャントバンキングを行うグローバルな金融アドバイザリー企業として活動している。これは伝統的銀行がそのまま国家金融を動かしているという形ではなく、現代の規制と市場環境に適応した投資銀行への転換である。
同時に、スイス金融界との関係で特に重要なのが、ジュネーブを本拠とする Edmond de Rothschild Groupである。同グループはプライベートバンキング、資産運用、オルタナティブ投資を中核とし、スイスの伝統的な富裕層金融の一角を占めている。ここでは、ロスチャイルド家の末裔が実際に経営や戦略に関与する家族資本型金融グループが、スイスの金融規制の枠内で活動している。これは君臨という表現が想起させるような政治的・国家的支配ではないが、スイス金融界において無視できない実体を持つ存在である。
ロスチャイルド系金融機関は、中央銀行を統治したり、国家政策を直接決定したりする立場にはない。彼らは、規制当局の監督下にある民間金融機関として、他の大手プライベートバンクや資産運用会社と同列の競争環境に置かれている。影響力の源泉は、血統そのものではなく、長期にわたって蓄積された信用、顧客基盤、国際ネットワーク、専門人材である。
5.ロスチャイルドの実像
この点を踏まえると、ロスチャイルドという言葉がしばしば示す全能的で不可視の支配者像は、事実とは異なる。実像としてのロスチャイルド家は、近代金融史の初期において国家金融を支えた成功した金融家系であり、20世紀以降は規制と市場の変化に適応し、事業形態を転換し、現代においては、複数ある国際的資産家・金融グループの一つとして活動しているという位置づけにある。確かに、他の多くの歴史的銀行家一族が消滅・吸収・象徴化したのに対し、ロスチャイルド家は家名と実体を部分的に維持した稀有な例である。その意味で、彼らが今も金融界に存在感を持つのは事実である。しかしそれは、世界を裏から操るという意味での支配ではなく、制度化された金融資本主義の中で、老舗として競争力を保っているという現実的な意味においてである。
東インド会社
英国東インド会社とオランダ東インド会社は、ともに民間資本と国家権力が結合した存在であり、近代帝国主義と資本主義の交差点に立っていた。英国東インド会社は、企業が国家を代行して統治するという極端な形に至り、その反動として国家統治への回帰を生んだ。一方、オランダ東インド会社は、企業制度と資本市場の革新を通じて、現代株式会社の原型を築いた。両者は消滅したが、その残像は今も、国家制度、企業統治、国際貿易、金融市場の深層に生き続けている。近代世界は、これら東インド会社の成功と失敗の上に構築されたと言っても過言ではない。
1.英国東インド会社
英国東インド会社(British East India Company)は1600年、エリザベス1世の勅許によって設立された。起源はアジア貿易を目的とする民間株式会社であり、香辛料、綿織物、茶などの輸入を通じて利益を追求する存在であった。当初はインド沿岸部に商館を設け、ムガル帝国の庇護の下で活動する商人集団に過ぎなかった。
しかし18世紀に入ると、同社は急速に性格を変える。フランスとの植民地競争、ムガル帝国の衰退、現地諸侯間の抗争を背景に、東インド会社は自前の軍隊を保有し、徴税権・司法権を掌握するようになった。1757年のプラッシーの戦いを契機に、同社はベンガル支配を確立し、一企業が一国家規模の領土と人口を統治する前例のない存在となった。最盛期には、現在のインド、パキスタン、バングラデシュに及ぶ広大な地域を支配し、財政・軍事・外交を事実上独占していた。
しかし、その統治は苛烈であった。過酷な徴税、独占貿易、現地経済の歪曲は社会不安を生み、1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を招く。この反乱を機に、英国政府は企業による統治の限界を認識し、1858年にインド統治権を国王に移管した。これにより東インド会社は政治的権限を失い、1874年に正式解散となった。
現在、英国東インド会社は企業としては存在しない。しかし、英領インド帝国、官僚制度、法制度、鉄道網、英語教育など、その統治構造は現代インド国家の基層に深く残っている。また株式会社が国家機能を担うというモデルは、近代資本主義と帝国主義の結合を象徴する歴史的前例として、今日まで語り継がれている。
2.オランダ東インド会社
オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)は1602年、オランダ共和国によって設立された。起源は、分散していたアジア貿易商人を統合し、国家主導で競争力を高めるための巨大株式会社である。VOCは世界初の本格的な株式会社であり、株式の自由譲渡、配当、取締役会制度を備えた点で、現代企業制度の原型とされる。
VOCの最盛期は17世紀である。同社は香辛料貿易を軸に、インドネシア諸島、セイロン、南アフリカ喜望峰、日本(出島)などに拠点を築き、アジア交易網を支配した。バタヴィア(現在のジャカルタ)を首都として、軍事力と外交を駆使し、競合するポルトガル・英国勢力を排除した。VOCは貿易だけでなく、条約締結、戦争、通貨発行、植民地行政を行い、企業でありながら主権的権限を行使する存在であった。
しかし18世紀に入ると、状況は一変する。汚職、官僚化、維持費の高騰、香辛料独占の崩壊、英国との競争激化により、VOCは慢性的な赤字に陥った。1799年、同社は破綻・解散し、その領土と負債はオランダ国家に引き継がれた。その後、オランダ領東インド(インドネシア)として国家統治が行われ、20世紀半ばまで植民地支配が続いた。
現在、VOCも企業としては存在しない。しかし、インドネシアの国境線、行政区分、商業都市、港湾網はVOC統治の遺産であり、アムステルダムの金融市場、海運・保険制度、株式会社制度はVOCの成功と失敗を通じて成熟した。VOCは世界初の多国籍企業であり、最初のグローバル企業として、現代資本主義の制度史に決定的な影響を残している。
3.東インド会社の派生企業群
英国の東インド会社は、単なる貿易会社ではなく、17〜18世紀にかけてアジア交易・港湾・航路・金融・保険・法制度を一体化した巨大なプラットフォームであった。インド・中国・東南アジアを結ぶ交易圏を独占的に管理し、徴税・軍事・外交まで担ったこの企業国家の存在が、後に民間企業が活動できる英領アジア経済圏を形成した。19世紀に同社が解体・後退すると、その空白を埋める形で、同社の制度・人材・取引慣行を引き継いだ民間企業群が台頭する。
その代表例がジャーディーン・マセソン商会である。同社は東インド会社の独占が崩れた後のアジアで、香港という英領拠点を基盤に急成長した私商であり、茶・綿花・海運・保険・不動産へと事業を拡張した。これは、東インド会社が築いた港湾・航路・法制度を最大限に活用した典型である。
金融面では、HSBCが象徴的である。1865年に香港で設立された同銀行は、東インド会社解体後の英領アジアにおいて、貿易金融・為替・送金を担うために生まれた。顧客はEIC系商社や植民地政府であり、同社は事実上東インド会社の金融機能を民間銀行として引き継いだ存在であった。同様に、Standard Chartered銀行も、インド・アフリカ・中東の英領圏で成長し、植民地金融の中核を担った。
海運と保険の分野でも連続性は明確である。P&Oは、東インド会社時代に整備された航路と港湾を引き継ぎ、インド・中国航路の郵便・軍事輸送を担った。また、ロイズ保険は、東インド航路の海上保険を通じて発展し、交易リスクを制度的に吸収する仕組みを確立した。これらは、EICが担っていた物流・リスク管理機能の民営化であった。
一方、オランダの東インド会社(VOC)は、世界初の本格的株式会社として、株式市場・取締役会・配当という現代企業制度の原型を作り上げた。その拠点であるアムステルダムは、VOC株の売買を通じて世界最初の証券市場を形成し、この金融文化は現在のEuronext Amsterdamへと連なっている。VOC解体後も、オランダは商業金融国家としての性格を維持し、ABN AMROのような銀行群がその系譜を引き継いだ。
さらに、VOCが支配した旧蘭領東インド(インドネシア)では、香辛料に代わって石油・資源開発が進み、その延長線上にRoyal Dutch Shellが誕生した。これは、VOCの交易・支配地域が、20世紀には資源資本主義の舞台へ転換したことを示している。また、Heinekenのような消費財企業も、VOC由来の航路と植民地市場を利用して国際展開を進めた。
英国東インド会社とオランダ東インド会社は消滅したが、その機能は分解され、民間企業と制度として生き残った。EICの系譜は、アジア商社・銀行・海運・保険として現代に連なり、VOCの系譜は、金融市場・資源企業・多国籍企業の形で継承された。現代のグローバル企業や金融市場は、これら東インド会社という原始的グローバル企業国家が築いたインフラと制度の上に成立しているのである。
ジャーディーン・マセソン商会
1.起源
ジャーディーン・マセソン商会は、1832年にウィリアム・ジャーディーンとジェームズ・マセソンによって中国(広州)で創設された英系商社である。起源は英国東インド会社体制の外縁に位置する私商であり、当初は茶・絹・綿花などの交易を行っていたが、清朝末期の国際貿易構造の中で、次第にアヘン貿易にも深く関与するようになった。アヘン戦争後、香港が英領となると、同商会は香港を中枢拠点として、港湾、海運、保険、銀行、不動産を含む東アジア最大級の商業ネットワークを構築し、事実上の帝国型アジア商社として機能した。
2.現在
20世紀以降、植民地体制の終焉とともに帝国商社から持株会社へと転換し、現在も存続している。傘下には、デイリーファーム(小売)、ジャーディーン・サイクル&キャリッジ(自動車・重工)、マンダリン・オリエンタルなどがある。事業内容は小売・不動産・自動車・ホテルを中核とする。創業家の血統的影響は薄れたが、旧商社がアジア型コングロマリットへ進化した代表例である。
3.日本との関係
この商会は、中国だけでなく日本の開国と近代化にも深く関与している。その象徴的人物が、幕末日本で知られる トーマス・グラバーである。グラバーはスコットランド出身の商人で、来日当初はジャーディーン・マセソン商会の代理人として長崎で活動し、同商会の東アジア交易ネットワークの一部を担っていた。彼は後に独立してグラバー商会を設立するが、武器・艦船・蒸気機関などを薩摩藩・長州藩に供給し、日本の倒幕勢力と深く結びついた。グラバーの活動は、英系商社資本が日本の政治・軍事・産業の転換点に関与した典型例であり、その背後にはジャーディーン・マセソン商会を中心とする英国商業ネットワークが存在していた。
さらに、ジャーディーン・マセソン商会と日本の近代政治を結びつける重要な事実として、戦後日本の首相となる吉田茂の実父が、同商会の横浜支店長を務めていた点が挙げられる。吉田茂の実父である竹内綱(竹内綱治郎)は、開港後の横浜において、ジャーディーン・マセソン商会の日本拠点を担う重要な役割を果たした人物であった。これは、英系巨大商社が単に貿易を行っていただけでなく、日本人エリートをその業務に組み込み、日本の政財界形成に間接的な影響を与えていたことを示している。
サスーン商会
サスーン商会(David Sassoon & Co.)は、19世紀半ばにバグダッド出身のユダヤ系商人であるダヴィッド・サスーンによって創設された。一族はオスマン帝国支配下のバグダッドで行政・財政エリート層に属していたが、政情不安と権力闘争を背景にインドへ移住し、英領ボンベイに拠点を移した。ここでサスーン商会は、英国植民地体制と強く結びつくディアスポラ商業資本として急成長する。
英領インドにおいて、サスーン商会は綿花・繊維・不動産と並び、アヘン取引を中核事業の一つとして展開した。これは単独の違法取引ではなく、当時の英国植民地経済が制度的に組み込んでいたインド産アヘンを中国へ輸出して銀で回収するという三角貿易構造の一部であった。サスーン商会は英国当局や植民地行政と協調関係を築き、アヘンの調達・輸送・金融を担う有力商社として位置づけられていた点で、ジャーディーン・マセソン商会などの英系商社と同じ枠組みに属していた。
特に重要なのが上海である。アヘン戦争後に開港された上海は、英米系商社とともに、サスーン商会が最も重視した拠点の一つとなった。同社は上海に巨大な倉庫、金融拠点、不動産を保有し、上海バンド(外灘)に残るサスーン系建築群は、同商会がアヘン貿易とそれに付随する金融・不動産で築いた富を象徴している。この点でサスーン商会はインド—中国—英国結ぶ英帝国型アヘン経済の中核プレイヤーであった。
サスーン商会は東洋のロスチャイルドとも称され、インド、中国、東南アジアを結ぶ交易と金融で繁栄したが、20世紀に入ると一族は英国社会に同化し、事業は分解・吸収されていった。今日、商会としてのDavid Sassoon & Co.は現存しないが、サスーン家の末裔は英国財界・文化界に広く散在し、サスーン・ドックス(ロンドン)など都市空間にその痕跡を残している。商社としては消滅したが、帝国交易時代を代表するディアスポラ商業資本であった。
クーン・ローブ商会
1.起源
クーン・ローブ商会(Kuhn, Loeb & Co.)は1867年、ニューヨークで創設された投資銀行であり、ドイツ系ユダヤ人金融家クーン家とローブ家を基盤とする。起源は米国鉄道資本の資金調達であり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ユニオン・パシフィック、ペンシルバニア鉄道などの再編・引受を通じて、米国産業化の中枢金融機関となった。
2.日本との関係
この商会の実質的指導者として知られるのが、ジェイコブ・シフである。シフはクーン・ローブ商会のパートナーとして、同社をJ.P.モルガンと並ぶ存在へと押し上げ、金融資本と産業資本を結節する役割を担った。彼は単なる銀行家にとどまらず、国際政治・外交・民族問題に強い関心を持つ人物であった。
その象徴的事例が、日露戦争(1904–1905年)における日本国債の引受である。シフは、クーン・ローブ商会を通じて、日本政府が発行した外債の引受・販売を主導し、日本が戦費を国際金融市場で調達することを可能にした。これは、当時の日本にとって極めて重要であり、戦争遂行能力を左右する資金調達の要であった。一方、ロシア帝国は欧米市場での資金調達に苦戦しており、結果として日露戦争における金融面での非対称性が生じた。
この行動の真意については、複合的に理解する必要がある。第一に、金融家としての合理的判断がある。日本は明治以降、財政改革と近代化を進め、国際金融市場における信用力を着実に高めていた。シフは、日本国債を投資対象として十分に信頼できるものと評価していた。第二に、政治的動機である。シフはロシア帝国によるユダヤ人迫害に強い憤りを抱いており、専制的なロシア体制に対抗する国家として日本を支持したことを公言している。彼にとって日本への金融支援は、単なる利潤追求ではなく、帝政ロシアへの非軍事的対抗手段でもあったと言われるいる。日露戦争の敗戦を引き金として後にロシア革命が起きたことを勘案すると、そのような単純な動機ではなかったかもしれない。
3.現在
20世紀中盤以降、投資銀行業界の再編が進む中で、クーン・ローブ商会は独立性を失い、1977年にリーマン・ブラザーズと合併した。現在、クーン・ローブ商会としての法人は存在しないが、その系譜はリーマンを経由し、現代の米国投資銀行文化に大きな影響を残している。また、シフをはじめとする一族・関係者の末裔は、金融、学術、政策、慈善分野に広く散在しており、金融が産業と国際政治に影響を与え得た時代の象徴的存在として、歴史的評価の対象となっている。
アングロ・アメリカン
1.起源と事業
アングロ・アメリカン(Anglo American plc)は、1917年に南アフリカで設立された資源会社であり、20世紀を通じて南アの鉱業・金融・政治構造に決定的な影響を与えた存在である。アングロ・アメリカンは単なる鉱業企業ではなく、英国型植民地統治が民間企業を通じて実行された典型例である。同社の事業は資源開発にとどまらず、労働管理、土地支配、金融支配、さらには政治体制の維持にまで及んでいた。
アングロ・アメリカンの成立は、南アフリカが英国帝国の勢力圏に組み込まれた歴史と不可分である。金やダイヤモンドといった戦略的鉱物資源が発見された南部アフリカでは、資源を効率的に掘削・輸出するために、欧州資本・植民地行政・金融機関が三位一体で結びついた。アングロ・アメリカンは、こうした枠組みの中で誕生し、英米資本とロンドン金融市場の支援を背景に、南アフリカ鉱業を事実上支配する地位を確立した。
この企業構造の核心には、創業者であり長年の実質的支配者であったオッペンハイマーの存在がある。彼は、鉱業と金融を結合させることで、単なる採掘企業ではなく、国家に匹敵する経済的影響力を持つ資源資本を築いた。彼が率いたアングロ・アメリカンは、金・プラチナ・ダイヤモンドといった鉱物資源の生産・流通を通じて、英国帝国の産業基盤と通貨体制を支える役割を果たした。傘下のデビアス(De Beers)はダイヤモンド市場を事実上統制した。
2.植民地経営
アングロ・アメリカンの繁栄は、南アフリカの現地社会にとって深刻な犠牲の上に成り立っていた。同社は、黒人労働者を低賃金・長時間労働に従事させるため、人種隔離的な労働制度を制度化した。鉱山周辺には労働者居住区が設けられ、移動・居住・家族形成が厳しく制限された。これらの仕組みは、後にアパルトヘイト体制として法制化される人種分離政策と深く連動しており、アングロ・アメリカンはその経済的基盤を提供した主要企業の一つであった。
この点で、アングロ・アメリカンは植民地搾取の実例と評される。資源は南アフリカから掘り出される一方で、その付加価値と利益は、ロンドンを中心とする帝国の中枢へと吸い上げられた。現地には環境破壊、社会分断、貧困が残り、富と意思決定権は海外資本に集中するという、典型的な植民地経済の構図が形成されたのである。
さらに重要なのは、同社が単に植民地体制の受益者であっただけでなく、植民地統治を実務的に支える主体であった点である。鉱業から得られる税収、外貨、雇用管理は、南アフリカ政府と英国の対外経済政策に不可欠であり、企業と国家は相互依存関係にあった。これは、軍や官僚が直接統治するのではなく、民間企業が経済を通じて統治を代行するという、英国植民地支配の特徴を如実に示している。
3.現在の経営
20世紀後半、国際社会からの圧力や南アフリカ国内の反アパルトヘイト運動の高まりを受け、アングロ・アメリカンは次第に体制との距離を調整するようになる。しかし、それは同社が過去に果たした役割を消し去るものではない。現在のアングロ・アメリカンは、鉄鉱石、銅、ニッケル、プラチナなどを扱うグローバル鉱業大手であり、ロンドン証券取引所に上場している。創業家(オッペンハイマー家)の直接支配は後退したが、20世紀資源資本主義の象徴的企業としての位置づけは変わらない。
アイゼンバーグ
1.起源と概要
第二次大戦後から建国初期にかけてのイスラエルは、資本・技術・インフラが著しく不足しており、政府は海外ユダヤ系ディアスポラの資本・人脈を動員して国家建設を進めた。シャウル・アイゼンバーグはそうした中で重工業・エネルギー・輸送・インフラを中心に、海外資本や技術をイスラエルへ導入する役割を担った実業家として台頭した。1950~70年代、アイゼンバーグの事業は港湾・輸送・化学・エネルギー・機械へ多角化した。その特徴は、単独企業というより投資・仲介・調整のハブとして機能したことである。また政府と極めて近い関係を持ち、準国家的プロジェクトの実務を担った。このため、国内評価は国家建設への貢献と政官近接への批判が併存した。
2.日本との関係
アイゼンバーグの活動で特筆されるのは、日本との深い関係である。冷戦期、日本とイスラエルの公式関係は前面化しにくかったが、民間レベルの経済・技術交流は進み、アイゼンバーグはその仲介者であった。彼は日本に長期滞在し日本人と結婚もしている。日本企業・官界と緊密な関係を築いた。戦後日本の鉄鋼業拡大期には、オーストラリアからの鉄鉱石調達を含む資源ルート構築で、日本側との協業・調整に関与したとされる。重工業プラントや発電などのインフラ関連で、日本企業の技術導入で調整役を担ったとされる。日本の原子力発電政策への彼の関与が言及されることがあるが、イスラエルの原子力政策は高度に機密であり、民間人の役割を確認できる範囲は限定的である。
3.その後の様子と歴史的評価
1968年にはイスラエル・コーポレーション(Israel Corporation)が、イスラエル政府主導で設立されたが、アイゼンバーグが協力したとされる。同社は建国後間もないイスラエル経済において、国家戦略産業を一体的に管理・育成するための経済統治装置としての役割を担っていた。1970年代以降には政府保有株の整理と民営化が進む中で、アイゼンバーグが大株主となり、同社は実質的に民間主導のコングロマリットへ移行した。同社の事業内容は多岐にわたるが、中核となったのは、死海の鉱物資源を活用した化学産業である。また、エネルギー・電力分野では、発電や燃料供給といった基幹インフラに関与し、国家安全保障と直結する役割を果たした。さらに、海運輸送分野では、地政学的制約の大きいイスラエルにとって不可欠な国際物流網を支え、重工業・基礎素材分野では、国内産業育成とインフラ整備の基盤を提供した。1970年代、政府保有株の整理と民営化が進む中で、同社は徐々に国営色を弱め、民間主導のコングロマリットへと移行した。
90年代以降は、あらゆる産業を抱え込む国家型持株会社から、投資と資本管理を主とする純粋持株会社へと性格を変えていった。転機となったのは2010年代である。イスラエル国内で財閥解体とコングロマリット規制が強化されると、イスラエル・コーポレーションは抜本的な再編を余儀なくされた。その結果、化学事業の中核であった ICL は独立した上場企業として運営されるようになり、その他のエネルギー・新素材・投資事業は、新たに設立された Kenon Holdingsへと移管された。これにより、イスラエル・コーポレーションは事実上分解され、かつてのように国家戦略産業を束ねる巨大コングロマリットとしての姿は失われた。
現在、イスラエル・コーポレーションという名称は残っているものの、その役割は大きく変質している。建国期から成長期にかけて果たした国家経済を一体的に支える器としての機能は、ICLやKenon Holdingsといった後継企業に分散・継承され、市場原理とガバナンスを重視する体制へと移行した。 今日、アイゼンバーグの名を冠した企業が表立って国家経済を支配しているわけではない。むしろ重要なのは、国家×民間資本の協働モデルとして海外資本・技術を戦略産業へ導入する調整機能が、イスラエル経済の制度・慣行として構造的に残った点にある。
アイゼンバーグは、建国期イスラエルで国家建設と産業育成を結ぶ調整型資本家として活動し、日本を含む海外との重工・資源・インフラ連携で重要な媒介役を果たした。原子力・安全保障をめぐっては機密性の高い領域ゆえ断定はできないが重要な役割を果たしたであろう。歴史の中に大きな足跡を残しながら、ただその実態は謎に包まれたままである。
