レス

Less
2017年刊
Andrew Sean Greer著

著者の経歴

アンドリュー・ショーン・グリアは1970年、米国ワシントンD.C.に生まれた小説家である。ブラウン大学で学び、モンタナ大学で創作文学の修士号を取得した。2017年の本書で2018年ピューリッツァー賞を受賞した。2022年には続編「Less Is Lost」を刊行した。愛情、時間、孤独、人生の偶然を、繊細な心理描写とユーモアを交えて描く作家である。

本書の内容

1.50歳の危機

主人公アーサー・レスは、サンフランシスコに暮らす49歳の小説家である。若い頃に発表した作品で一定の評価を得たものの、その後は文学界で大きな成功を収めることができず、最近完成させた小説も出版社から出版を断られている。彼は自分が才能ある作家なのか、それとも若い頃に偶然注目されただけの平凡な作家なのか、確信を持てずにいる。更に50歳の誕生日が近づき、若さや魅力、創造力が失われていくことに強い不安を感じている。周囲には成功した作家や幸福そうな人々がいるが、自分だけが人生の途中で取り残されたように感じている。作者は、レスを悲劇的な敗北者としてではなく、他人から見れば十分に恵まれているにもかかわらず、自分の欠点や失敗ばかりを意識してしまう人物として描く。彼の苦悩は、年齢を重ねるにつれて理想の人生と現実の人生の違いを認めざるを得なくなる、多くの人間に共通する問題なのである。

2.失恋と招待状

レスのもとに、かつて9年間にわたって交際していた年下の恋人フレディ・ペルから結婚式の招待状が届く。フレディはレスよりかなり若く、二人の関係は長く続いていたものの、レスは結婚や将来の約束について明確な決断を下すことができなかった。やがてフレディは別の男性と結婚することになり、レスは自分が本当に愛していた相手を失ったことを思い知らされる。結婚式に出席すれば、かつての恋人が別の男性と新しい人生を始める姿を目の当たりにしなければならない。しかし、出席を断れば、失恋から立ち直れずにいることを周囲に知られてしまうようで耐えられない。そこでレスは、机の上に積まれていた世界各地の文学祭、講演会、授賞式、創作講座などへの招待状を全て受け入れ、結婚式の日程を含む長期間、米国を離れることにする。彼の世界旅行は、新しい人生を積極的に求める冒険ではなく、失恋という現実から逃げ出すための計画として始まる。

3.過去の恋人

レスの人生を理解する上で重要なのが、若い頃に深い関係を持った著名な詩人ロバート・ブラウンバーンの存在である。ロバートはレスよりかなり年上で、文学界で高い評価を受けているピューリッツァー賞受賞詩人であった。若いレスは彼の才能と名声に強く惹かれ、長年にわたって恋人として生活をともにした。しかし、偉大な作家のそばにいることは、レスにとって幸福であると同時に、自分自身の才能に対する劣等感を深める経験でもあった。彼は文学界でロバートの恋人として知られることが多く、自分自身の作品が正当に評価されているのか疑問を抱いていた。二人の関係が終わった後も、レスはロバートの影響から完全には自由になれず、自分の人生を彼の成功と比較し続けている。作者は、愛する相手への尊敬が、時として自分自身への不信や劣等感に変わることを描く。レスは他人から愛される経験を重ねてきたにもかかわらず、自分が本当に愛される価値のある人間なのかを信じることができない。

4.メキシコの文学祭

世界旅行の初期にレスはメキシコシティを訪れ、文学関係の催しに参加する。そこでは、かつての恋人ロバートの文学的業績が話題となり、レスは再び自分が偉大な作家の影に隠れた存在であることを意識する。彼は文学について真面目に語ろうとするが、周囲の作家や批評家との会話は思うように進まず、言葉の行き違いや場違いな発言によって滑稽な状況に陥る。作者は、文学界の人々が高尚な芸術論を語りながら、実際には名声、嫉妬、他人からの評価に強く支配されていることを風刺する。レスもまた、文学を純粋に愛している一方、自分がどのように評価されるかを過剰に気にしている。彼は自分を失敗した作家だと考えているが、その自己評価は客観的な事実というよりも、他人との比較によって生まれた思い込みに近い。メキシコでの経験は、レスが逃げようとしている劣等感や過去の記憶が、場所を変えただけでは消えないことを示している。

5.イタリアの文学賞

レスは次にイタリアのトリノを訪れ、自分の小説の翻訳版が候補となった文学賞の授賞式に参加する。彼は受賞をほとんど期待しておらず、文学界では自分の存在が忘れられつつあると考えている。しかし、意外にも彼の作品が賞を受賞し、レスは予想外の栄誉を手にする。この出来事は、彼が自分自身を評価する基準と、他人が彼の作品を評価する基準が必ずしも一致していないことを明らかにする。レスは米国では成功しなかった作家だと感じているが、別の国では彼の作品が読者の心を動かし、文学的な価値を認められている。それでも、受賞したからといって彼の不安が全て消える訳ではない。彼は喜びを感じながらも、その成功を偶然の結果ではないかと疑ってしまう。作者は、社会的な評価によって自信を得ようとする人間の心理を描き、他人から称賛されても、自分自身を受け入れることができなければ不安は解消されないことを示している。

6.ベルリンの授業

ドイツのベルリンでは、レスは大学の創作講座で教えることになる。しかし、彼のドイツ語は十分に流暢ではなく、学生たちに自分の考えを正確に伝えることが難しい。彼は文学について真剣に語ろうとするが、文法の間違いや不自然な表現によって、意図しない笑いを引き起こしてしまう。自分では洗練された知識人として振る舞っているつもりでも、周囲から見れば滑稽な外国人になっているのである。作者は、この言語的な失敗を通して、人間がどれほど教養や経験を積んでいても、環境が変われば簡単に無力な存在になりうることを描く。しかし、レスは学生たちや周囲の人々との交流を通じて、完全な言葉を持たなくても人間同士が理解し合える瞬間があることを知る。また、彼は新しい出会いを経験し、自分の人生が既に終わりに近づいている訳ではないと感じ始める。ベルリンでの出来事は、失敗や恥ずかしさが必ずしも人間の価値を損なうものではなく、むしろ他者との距離を縮めるきっかけにもなることを示している。

7.パリの偶然

レスは旅の途中でパリに立ち寄り、旧知の人物との思いがけない再会や、新しい出会いを経験する。パリは恋愛や芸術の都として知られるが、レスにとっては、かつての若さや恋愛の記憶を呼び起こす場所でもある。彼は自分がまだ魅力的な人間であることを確かめようとする一方、新しい恋愛に踏み出すことにはためらいを感じている。若い頃であれば、恋愛は未来に向かって無限の可能性を開くものに思えたが、50歳を目前にした彼には、過去の失敗や失われた時間が重くのしかかっている。しかし、作者はレスの感傷を深刻な悲劇として描くのではなく、彼の不器用な行動や誤解をユーモラスに表現する。レスは、自分の人生を終わりに近づいた物語として考えているが、実際には予想外の出来事が次々に起こり、人生がまだ変化し続けていることを示される。パリでの経験は、過去の恋愛を美化して現在の可能性を見失うことの愚かさを、優しく浮かび上がらせている。

8.砂漠の誕生日

レスはモロッコを訪れ、サハラ砂漠で50歳の誕生日を迎える。彼は人生の節目を華やかに祝うつもりで旅を続けてきたが、現実には様々な不便や失敗に見舞われる。砂漠では厳しい自然環境や砂嵐に遭遇し、普段の生活で当たり前だと思っていた快適さや安全が簡単に失われることを経験する。広大な砂漠の風景は、彼が日常生活で抱えていた文学界の評価や恋愛の悩みを、相対的に小さなものとして感じさせる。50歳になることを人生の衰退の始まりと考えていたレスは、実際にその日を迎えても、自分が昨日までとは別の人間になる訳ではないことに気づく。年齢は確かに時間の経過を示すが、人間の幸福や可能性を一つの数字によって決定するものではない。作者は、レスが誕生日を迎える場面を通して、老いに対する恐怖の多くが、年齢よりも、年齢について社会が作り上げた固定観念から生まれていることを描いている。

9.インドの滞在

インドでは、レスは南部のキリスト教系施設に滞在し、作家として創作活動に取り組むことになる。しかし、彼が期待していた静かで快適な創作環境とは異なり、現地での生活には様々な不便や予想外の出来事が待ち受けている。彼は異国の文化や生活習慣に戸惑い、時には自分が何のために世界を旅しているのか分からなくなる。旅の当初は、失恋の痛みを忘れ、自分を新しい人間に変えたいと考えていたが、どこへ行っても自分の性格や過去の記憶から逃れることはできない。作者は、この経験を通して、人生の問題を解決するために遠くへ旅立っても、問題の根本が自分自身の考え方にある限り、場所を変えるだけでは十分ではないことを示す。しかし、レスは旅を重ねるうちに、自分の欠点を以前ほど深刻に受け止めなくなっていく。失敗する自分、他人から笑われる自分、思いどおりに行動できない自分を、少しずつ受け入れ始める。

10.日本への旅

旅の終盤、レスは日本を訪れ、旅行雑誌の仕事として食文化についての記事を書くことになる。彼は日本の料理や習慣に接しながら、これまでとは異なる文化の中で生活することの面白さと難しさを経験する。言葉や習慣が分からず、思いどおりに行動できないことも多いが、彼は以前のように全てを自分の失敗として深刻に受け止めるのではなく、旅の一部として楽しめるようになっている。作者は、日本での経験を通して、レスの内面に起きた小さな変化を描く。彼は依然として有名な作家になった訳ではなく、失恋の痛みも完全に消えていない。しかし、自分の人生を失敗の連続として考えることから、予想外の出来事に満ちた一つの物語として受け止める方向へと変わり始めている。彼にとって重要なのは、世界を旅して別人になることではなく、以前と同じ自分のままで、人生に対する見方を変えることなのである。

11.語り手の正体

本書には、物語の大部分が三人称で語られながら、ときおり語り手がレスについて個人的な感情や記憶を示すという独特の仕掛がある。読者は最初、語り手を主人公の人生を客観的に見つめる存在だと考えるが、物語が進むにつれて、語り手がレスの過去や性格を非常によく知っていることに気づく。終盤になって、その語り手がかつての恋人フレディであることが明らかになる。これによって、読者がそれまで読んできたレスの滑稽な失敗や不器用な行動は、単なる作者による風刺ではなく、彼を深く愛する人物の視点から語られた物語であったことが分かる。フレディはレスの欠点をよく知っているが、それを軽蔑するのではなく、愛情とユーモアを込めて描いている。作者は、この構成によって、同じ人物の欠点でも、誰の視点から見るかによって意味が大きく変わることを示す。レスが自分自身を失敗者だと考えていても、彼を愛する人間にとっては、その不器用さや弱さこそが魅力の一部なのである。

12.帰郷と再会

世界各地を旅したレスは、やがてサンフランシスコへ帰ることになる。彼は旅に出る前、50歳になることを恐れ、作家としての失敗を恥じ、失った恋人の結婚式から逃れようとしていた。しかし、旅の終わりに彼が手に入れたのは、文学的な大成功でも、若さを取り戻す方法でもない。彼は自分の弱さや不完全さを以前よりも受け入れられるようになり、人生は自分が思い描いていたほど悲惨なものではないと気づき始める。そして帰宅した彼を待っていたのは、結婚するはずだったフレディである。フレディは別の男性との結婚を取りやめ、レスのもとへ戻ってきていた。レスは、自分が見捨てられたと考えていた相手から、実は深く愛され続けていたことを知る。物語は、失恋から逃げるために始まった世界旅行が、最終的には愛情を受け入れるための旅となったことを示して終わる。作者は、人生の幸福とは、全ての失敗を克服して理想的な人間になることではなく、不完全な自分を受け入れ、他者からの愛情を信じることにあると描いている。

13.人生という喜劇

本書の大きな特色は、老い、失恋、孤独、文学的な挫折といった深刻な問題を、悲劇ではなく喜劇として描いていることである。レスは旅先で繰り返し失敗し、誤解され、恥をかき、自分の思いどおりにならない状況に陥る。しかし、読者は彼を軽蔑するのではなく、その不器用さに親しみを感じ、失敗を重ねながらも前へ進もうとする姿に共感する。作者は、人間の尊厳が成功や能力だけによって決まる訳ではなく、弱さや欠点を持ったまま生きる姿にも価値があることを描く。また、50歳という年齢を人生の終わりではなく、新しい幸福を発見する出発点として位置づけている。若い頃の恋愛や成功が人生の頂点であり、その後は衰退していくだけだという考え方を、本書はユーモアによって覆している。人生は必ずしも計画どおりに進まず、失敗や偶然に満ちているが、だからこそ予想もしなかった幸福が訪れるのである。

本書が言いたかったこと

人生の幸福は成功や若さによって決まるのではなく、不完全な自分を受け入れ、他者からの愛情を信じることによって生まれる。人間は年齢を重ねるほど、実現できなかった夢や失敗した恋愛を振り返り、自分の人生を過小評価しがちである。しかし、他人から見れば、その弱さや不器用さも魅力の一部かもしれない。グリアは、人生の苦しみを深刻な悲劇として描くのではなく、ユーモアによって相対化することで、人間が自分自身を許す可能性を示している。また、幸福とは過去を取り戻すことでも、理想の自分になることでもない。自分の限界を認め、それでも新しい出会いや愛情に心を開くことである。人生は50歳になっても終わる訳ではなく、失敗や喪失を経験した後にも、新しい喜びや愛が生まれる。

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