Peter the Great
His Life and World
1980年刊
Robert K. Massie著
マッシーの経歴
ロバート・キンロック・マッシーは1929年、米国ケンタッキー州レキシントンに生まれた。イェール大学でアメリカ史を学び、その後オックスフォード大学に留学し、ヨーロッパ史を研究した。歴史学の専門教育を受けながら、一般読者にも歴史を物語として読ませることのできる優れたノンフィクション作家として名声を確立した。マッシーがロシア皇室史に深い関心を持つようになった背景には、個人的な事情もあった。息子が血友病を患っていたことから、同じく血友病であったロシア最後の皇太子アレクセイと、その病気がロマノフ王朝末期に与えた影響に関心を持ち、1967年にニコライとアレクサンドラを発表した。同書の成功によってロシア史の著述家として広く知られるようになった。その後、長年にわたる研究を経て1980年にピョートル大帝を刊行した。マッシーの特色は、政治制度だけで歴史を説明するのではなく、指導者の性格、家庭、友情、恋愛、病気、恐怖、野心といった人間的要素を国家の変化と結びつけて描くところにある。この手法が最も壮大な形で実現した作品が本書である。
本書の内容
1.古いモスクワ国家に生まれた異端児
ピョートルは1672年、ロシア皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの息子として生まれた。当時のロシアは巨大な領土を持っていたものの、西ヨーロッパ諸国とは社会制度、軍事技術、海軍、産業、文化などの面で大きな隔たりがあった。幼いピョートルの人生を決定的に変えたのが、1682年の銃兵隊ストレリツィの反乱である。少年ピョートルの目前で母方の親族や支持者が殺害され、この凄惨な経験は彼の人格形成に大きな影響を与えた。異母姉ソフィアが実権を握ると、ピョートルは母とともにモスクワ郊外で生活するようになる。しかし、この宮廷中心から外れた生活が、逆に彼の好奇心を自由にした。少年ピョートルは宮廷儀礼よりも、船、武器、大砲、築城、機械、外国人に興味を持った。外国人居留地に出入りし、オランダ人、ドイツ人、スコットランド人らと交流する。そして自分と同年代の仲間を集め、軍事演習を始めた。後のロシア近代軍は、こうした少年時代の遊びの延長から生まれていく。
2.海への執念
ピョートルの最大の特徴の一つが海への強烈な憧れである。当時のロシアは広大な領土を持ちながら、ヨーロッパにつながる良好な海への出口をほとんど持っていなかった。南にはオスマン帝国とクリミア・ハン国、北西には強国スウェーデンが存在し、バルト海への出口を塞いでいた。ピョートルは、ロシアが大国になるためには海への出口と海軍が不可欠だと考えた。1696年にはオスマン帝国側の要塞アゾフを攻略する。その経験によって、強力な海軍なしにはロシアの安全も発展もないという確信を深めた。ここから陸の帝国ロシアを海洋国家へ変えるという壮大な国家改造が始まる。
3.大使節団-皇帝が職人になる
1697年から1698年、ピョートルは大使節団と呼ばれる大規模な外交使節を西ヨーロッパへ派遣し、自らも身分を隠す形で同行した。彼が特に関心を持ったのはオランダとイングランドであった。オランダでは造船所で実際に働き、船の建造方法を学んだ。イングランドでも造船所、海軍施設、工場、兵器、科学技術などを熱心に視察した。単に外国の王侯と会談するだけでなく、職人から直接技術を学ぼうとしたところにピョートルの異例さがある。彼にとって西欧旅行は観光ではなかった。なぜ西欧は強いのか、ロシアには何が欠けているのかを自分の目で確認する国家調査であった。そして彼が導き出した答えは、海軍、軍隊、技術、教育、行政制度、産業を根本から変えなければ、ロシアは大国になれないというものであった。
4.西欧化という革命
帰国したピョートルは、猛烈な勢いで改革を始める。軍隊を西欧式に再編し、海軍を創設し、造船所や兵器工場を建設する。外国人技術者を招聘する一方、ロシア人青年を西欧へ留学させた。改革は軍事や産業だけではなかった。貴族に西欧式の服装を求め、伝統的な長い髭を切らせ、髭を残す者には税を課した。暦を変更し、宮廷儀礼や社会習慣まで変えようとした。現代的に言えば、ピョートルは単なる制度改革ではなく、ロシア人の生活様式と意識を国家権力によって変革しようとしたのである。当然、強烈な抵抗が起こった。しかしピョートルは妥協しなかった。反対者には処罰、拷問、処刑を用い、改革を強制した。
5.カール12世との対決
ピョートルの人生最大の軍事的敵が、スウェーデン国王カール12世である。当時のスウェーデンはバルト海の軍事大国であり、若きカール12世はヨーロッパでも屈指の軍事的才能を持った君主であった。1700年に始まった大北方戦争で、ロシア軍はナルヴァの戦いにおいてスウェーデン軍に壊滅的敗北を喫する。普通の君主なら政権を揺るがしかねない敗北であった。しかしピョートルは敗北を分析し、軍隊を再建する。徴兵制度、将校教育、大砲、武器生産、兵站を改善し、時間をかけてロシア軍を作り直した。ここにマッシーが描くピョートルの重要な特徴がある。彼は失敗しない指導者ではなく、失敗から猛烈な速度で学ぶ指導者だった。
6.サンクトペテルブルク
1703年、ピョートルはバルト海沿岸のネヴァ川河口に新しい都市を建設し始める。それがサンクトペテルブルクである。湿地帯で、冬は厳しく、建設条件は極めて悪かった。それでもピョートルは大量の労働力と資材を投入し、要塞、造船所、港湾、宮殿、行政施設を建設した。やがて首都をモスクワからサンクトペテルブルクへ移す。これは単なる遷都ではない。モスクワが伝統的ロシアを象徴する都市だとすれば、サンクトペテルブルクはピョートルが創造しようとした新しいロシアを象徴する都市であった。バルト海を通じてヨーロッパへ開かれた西への窓であり、都市が国家改革の宣言だった。
7.ポルタヴァの戦い
大北方戦争最大の転換点が1709年のポルタヴァの戦いである。ロシアへ侵攻したカール12世のスウェーデン軍に対し、ピョートルの再建したロシア軍が決定的勝利を収める。ナルヴァで惨敗してから約9年。その間にピョートルは軍隊を根本的に作り替えていた。ポルタヴァは単なる一つの戦闘の勝利ではない。それまで北東ヨーロッパの周辺国家とみられていたロシアが、ヨーロッパの勢力均衡を左右する大国として登場する歴史的転換点となった。1721年、大北方戦争が終結するとロシアはバルト海沿岸領土を獲得し、ピョートルは全ロシア皇帝の称号を得る。ロシア帝国の時代が始まったのである。
8.国家を作り直す
軍事改革の成功を背景に、ピョートルは国家制度の改革を進めた。旧来の官僚機構を再編し、元老院を設置し、中央行政機関を整備した。官僚と軍人を国家への奉仕によって序列化する方向を強め、貴族を皇帝に奉仕する国家エリートへ変えようとした。教会にも国家統制を及ぼした。モスクワ総主教座を事実上廃止し、宗務院によってロシア正教会を国家行政機構の中に組み込んだ。ピョートルの近代化とは、単に西欧文化を輸入することではなかった。軍隊、官僚、産業、教育、教会、貴族社会を皇帝中心の国家機構へ統合することだった。
9.妻エカチェリーナと側近メーンシコフ
マッシーの伝記が単なる政治史に終わらない理由は、ピョートルの周囲の人物を生き生きと描いていることにある。特に重要なのが後の皇帝エカチェリーナ1世と、側近アレクサンドル・メーンシコフである。エカチェリーナは身分の低い出自からピョートルの伴侶となり、激しい性格を持つ皇帝を精神的に支えた。メーンシコフも低い身分から皇帝の信頼によって権力者へ上昇した人物であり、優れた行政・軍事能力を示す一方、汚職にも手を染めた。ピョートルは血統や伝統よりも、自分が能力を認めた人物を登用する傾向があった。ここにも古いロシア社会の身分秩序を壊そうとする彼の性格が現れている。
10.皇太子アレクセイの悲劇
しかしピョートルの改革には暗い側面があった。その象徴が息子アレクセイとの対立である。アレクセイは父親の西欧化政策や軍事国家化に馴染まず、伝統的ロシアを支持する勢力から期待される存在となった。ピョートルにとってこれは単なる父子対立ではなかった。自分の死後、アレクセイが改革をすべて元に戻すのではないかという恐怖があった。国外へ逃亡したアレクセイは連れ戻され、尋問と拷問を受け、1718年に死亡した。国家改革のためなら実の息子さえ犠牲にする。この事件はピョートルの偉大さと残酷さが最も極端な形で交差する場面である。
11.偉大な改革者と残酷な専制君主
マッシーはピョートルを単純な英雄として描かない。彼には驚異的な好奇心、体力、行動力、技術への関心があった。船を造り、大砲を撃ち、歯を抜き、建築を学び、外国人職人と語り、自ら現場へ出た。一方で、激怒すると暴力を振るい、反対者を拷問し、処刑し、改革のために膨大な犠牲を要求した。この矛盾こそが本書の核心である。近代国家ロシアを生み出した人物は、近代的な自由主義者ではなかった。むしろ絶対的権力を利用して、上から強制的に近代化を進めた専制君主だった。
本書が言いたかったこと
本書は単なる一人の偉大な皇帝の成功物語ではない。国家はどこまで一人の指導者の意志によって変えることができるのか、そして、その変革にはどれほど大きな代償が伴うのかという問題である。ピョートルが即位した頃、ロシアはヨーロッパの東端に位置する伝統的なモスクワ国家であった。しかし彼が死去した1725年には、近代的軍隊と海軍を持ち、バルト海に新首都を築き、ヨーロッパ政治に重大な影響を及ぼす帝国へ変貌していた。その変化を可能にした最大の力は、ピョートル自身の異常なほどの好奇心と行動力であった。彼は外国の成功を羨むだけではなかった。自ら外国へ行き、造船所で働き、技術を学び、専門家を招聘し、自国の若者を留学させ、軍隊を作り直した。そしてナルヴァで敗北すれば、その敗北から学んで軍隊を改革した。ピョートルの本質は、単なる西欧化にあるのではない。外部世界から徹底的に学び、それを自国の力へ転換する能力にあった。しかしマッシーは、その成功の裏側も描く。サンクトペテルブルク建設、大北方戦争、強制的な社会改革、重税、弾圧、拷問、処刑、そして息子アレクセイの死まで、近代化には巨大な人的犠牲が伴った。ここから浮かび上がるのは、国家改革の根本的な矛盾である。強力な指導者は、停滞した国家を短期間で大きく変えることができる。しかし、その力が強ければ強いほど、改革と専制、創造と破壊の境界は曖昧になる。したがって本書はピョートル大帝は偉大だったと称賛するだけの伝記ではない。むしろ、巨大な個人が歴史を動かす時、その人物の長所も欠点も国家規模に拡大されることを描いた作品である。ピョートルの好奇心はロシアに科学技術を導入し、その海への執念は海軍とサンクトペテルブルクを生み、その敗北から学ぶ能力はポルタヴァの勝利をもたらした。しかし同じ強烈な意志は、反対者への弾圧と家族の悲劇も生み出した。この意味でピョートル大帝とは、偉大な指導者とは何かを考えさせると同時に、偉大さの代償とは何かを問いかける伝記である。
