告白

Confessiones
400年頃
Aurelius Augustinus著

アウグスティヌスの経歴

アウグスティヌスは354年、ローマ帝国領北アフリカのタガステ(現在のアルジェリア)に生まれた。父パトリキウスは異教徒であったが後にキリスト教に改宗し、母モニカは熱心なキリスト教徒であった。後に聖人となる母モニカの強い愛情は、アウグスティヌスの人生に大きな影響を与え、告白でも重要な位置を占めている。若いアウグスティヌスは当初から敬虔なキリスト教徒だった訳ではない。むしろ学問的野心と世俗的成功への欲望が強く、カルタゴで修辞学を学び、女性との関係を持ち、長年同棲して一児アデオダトゥスをもうけた。また、善悪二元論を説くマニ教に約九年間傾倒した。彼は修辞学教師としてカルタゴからローマ、更にミラノへ移った。当時の修辞学は政治家、官僚、法律家などになるための重要な技術であり、アウグスティヌスは知識人として社会的成功への道を歩んでいた。しかし、マニ教に次第に失望し、哲学的懐疑を経験する一方、ミラノ司教アンブロシウスの説教や新プラトン主義の思想に接したことで、キリスト教を知的にも受け入れるようになる。そして386年、ミラノで決定的な回心を経験し、アンブロシウスから洗礼を受けた。北アフリカに帰還した後、司教となった。告白を書き始めたのはこの頃であり、既に回心から約十年が経過していた。40歳代になったアウグスティヌスが自分の人生を振り返り、その意味を再解釈した著作である。その後430年に死去するまで、神学、哲学、倫理、政治思想について膨大な著作を残した。

告白の内容

1.告白とは何を意味するのか

告白という題名から、現代人は自分の罪や秘密を告白する自伝を想像しやすい。しかしラテン語の告白には、自らの罪を認めるという意味だけでなく、神への信仰を告白し、神を賛美するという意味が含まれている。したがって本書は単なる自伝ではない。アウグスティヌスが自分の過去を神に向かって語りながら、自分の人生に神がどのように働いていたのかを発見していく長大な祈りである。この点が通常の自伝と大きく異なる。

2.幼年期-人間はいつから欲望を持つのか

第1巻では幼年期から少年時代が描かれる。アウグスティヌスは、自分が言葉さえ話せなかった幼児期にまで遡り、人間の欲望について考える。子供は無邪気に見えるが、既に自分の欲求を満たそうとし、それが叶わなければ泣き、怒り、嫉妬する。

ここから彼は、人間の自己中心性は成人して突然生まれるものではなく、人間存在の深いところに根差していると考える。同時に教育についても鋭い批判を行う。学校では文学や修辞学を学び、社会的成功を競うが、どう生きるべきかという最も重要な問題は十分に教えられない。知識を増やすことと、人間として善く生きることは同じではない。

3.梨泥棒-なぜ人間は悪を行うのか

第2巻には告白で最も有名なエピソードの一つである梨泥棒が登場する。16歳頃のアウグスティヌスは仲間たちと他人の梨を盗む。しかし彼は貧しかった訳でも、空腹だった訳でもない。盗んだ梨が欲しかった訳ですらなく、多くを豚に与えてしまった。では、なぜ盗んだのか。この小さな事件からアウグスティヌスは人間はなぜ悪を行うのかという巨大な問題へ進む。利益を得るためだけに悪を行うのではなく、悪いことをすること自体に魅力を感じたり、仲間と一緒だから行ったりすることがある。悪とは合理的な損得計算だけでは説明できない、人間の意志の問題である。

4.カルタゴ-愛と欲望

第3巻以降では、青年アウグスティヌスの知的・性的・社会的欲望が描かれる。カルタゴで修辞学を学び、恋愛や享楽に没頭する一方、キケロの著作を読んだことから哲学への情熱を持つようになる。しかし聖書には知的魅力を感じることができず、代わってマニ教に接近した。ここで重要なのは、アウグスティヌスが欲望を単純に否定している訳ではないことである。人間は何かを愛さずには生きられない。しかし、何をどのような順序で愛するかによって人生は大きく変わる。富、名誉、性愛、知識など有限なものを究極的なものとして愛してしまえば、人間は不安定になる。この愛の秩序は、後のアウグスティヌス思想の中心となっていく。

5.マニ教からの離脱-知性だけでは救われない

第4巻から第7巻では、マニ教への失望、友人の死、ローマへの移住、ミラノでのアンブロシウスとの出会い、新プラトン主義との接触が描かれる。アウグスティヌスは次第にキリスト教を知的には理解できるようになる。しかし、理解したからといって生き方を変えられる訳ではなかった。ここに告白の最も重要な問題の一つが現れる。人間は何が正しいかを知っていても、その通りには生きられない。理性では変わるべきだと分かっていても、欲望や習慣がそれを妨げる。人間の問題は単なる無知ではなく、意志にある。

6.ミラノの庭-取って読め

第8巻は本書の劇的な頂点である。386年、ミラノの庭でアウグスティヌスは激しい内面的葛藤に陥る。キリスト教に従うべきだと理解しているにもかかわらず、それまでの生活を捨てる決心ができない。そこで聖書を開き、パウロのローマの信徒への手紙を読んだことを契機として、長年の葛藤が終わり、回心を決意する。この回心は単なる宗教変更として描かれていない。それは自分の欲望を中心に生きる人間から、自分を超えるものを中心に生きる人間への転換である。

7.母モニカの死

第9巻では洗礼と母モニカの死が描かれる。回心後、アウグスティヌスは387年に洗礼を受ける。その後、北アフリカへ帰ろうとしていた途中、ローマ近郊の港町オスティアで母モニカと語り合う。母子は永遠の生命について語り、やがてモニカは病に倒れて死去する。長年息子の回心を願い続けてきた母が、その実現を見届けた直後に世を去るという構成になっている。ここでは愛する者を失うという経験を通じて、有限な人間への愛と、永遠なるものへの愛との関係が深く考察される。

8.記憶とは何か

第10巻になると本書は通常の自伝から大きく変化する。アウグスティヌスは記憶とは何かを考え始める。人間の心には、風景、音、言葉、感情、知識、経験など膨大なものが保存されている。しかし記憶を完全に理解することはできない。ここから問いは私は誰なのかへと発展する。自分自身ほど身近な存在はないはずなのに、人間は自分自身さえ完全には理解できない。告白はここで自伝から人間精神についての哲学へ変わっていく。

9.時間とは何か

第11巻には哲学史上有名な時間論が登場する。過去は既に存在せず、未来はまだ存在しない。そして現在も瞬間的に過去へ消えていく。それでは時間とは一体何なのか。アウグスティヌスは、過去は記憶、未来は期待、現在は注意として人間の精神の中に存在すると考える。したがって時間とは単に時計で測る外的なものではなく、人間の意識と深く結びついた存在である。第11巻が創世記の解釈から時間論へ展開することは、全13巻の構成上も重要な転換点となっている。

10.創造論-自分の人生から宇宙へ

第11巻から第13巻では創世記冒頭の天地創造が詳しく論じられる。一見すると、それまでの自伝とは無関係に見える。しかしこれは告白全体の思想を完成させる部分である。アウグスティヌス自身も後年、告白全13巻のうち最初の10巻は自分について、最後の3巻は聖書について論じたと説明している。一人の人間が混乱した欲望の世界から秩序を発見していく過程と、混沌から世界が創造され秩序づけられていく過程が重ね合わされる。したがって告白は放蕩青年がキリスト教徒になった話で終わらない。一人の人間の魂の歴史から始まり、記憶、時間、存在、宇宙、神へと問いが拡大していく壮大な哲学的自伝である。

本書が言いたかったこと

人間は何を求めて生きているのだろうか。人間は富、名誉、性愛、知識、社会的成功などを求める。しかし、それらを手に入れても次の何かを欲しがる。欲望を満たすことによって幸福になろうとしながら、欲望が次々と生まれ、心は安定しない。アウグスティヌス自身も、性愛、学問、修辞学者としての成功、哲学、マニ教などを次々と追求した。しかし、どれも最終的な安息を与えなかった。その経験から導き出されたのが、本書冒頭に置かれた有名な思想である。人間の心は、自分を超えた究極的な存在に出会うまで満たされない。人間は外の世界を征服する前に、自分が本当に何を欲しているのかを知らなければならない。だから告白は成功した人物が自分の業績を振り返る通常の自伝とは正反対である。自分の弱さ、欲望、失敗、矛盾を徹底して見つめることによって、自分とは何者なのかを探究する。その意味で本書の最大の特色は、世界史上の偉人の偉業を描いたことではなく、一人の人間が自分自身の内面を深く掘り下げることによって、人間の欲望、意志、記憶、時間、幸福という普遍的問題に到達したことにある。

座右の書