ザ・ネクサス

The Nexus
Augmented Thinking for a Complex World
2022年刊
Julio Mario Ottino/Bruce Mau著

著者の経歴

フリオ・マリオ・オッティーノはアルゼンチン出身の工学者、複雑系科学者、教育者であると同時に、画家でもある。幼少期から数学・物理学と視覚芸術の双方に強い関心を持ち、科学と芸術を別々の領域としてではなく、一つの創造的活動の異なる表現として捉えてきた。アルゼンチンのラプラタ国立大学で化学工学を学んだ後、米国へ渡り、ミネソタ大学で博士号を取得した。研究者としては流体混合、非線形力学、カオス、複雑系などの分野で国際的に高い評価を受けた。特に、流体が混合される際に生じる複雑なパターンをカオス理論と結びつけた研究で知られる。

ブルース・マウは1959年カナダ生まれのデザイナー、芸術家、著述家であり、現代を代表するデザイン思想家の一人である。グラフィックデザインから出発したが、次第に建築、都市などへ活動領域を拡大した。建築家レム・コールハースとの大著S,M,L,XLのデザインと共同制作でも広く知られる。マウにとってデザインとは、物を美しく見せる装飾技術ではない。複雑な問題を理解し、システム全体を再設計する思考方法である。

本書の内容

1.Nexusとは何か

Nexusとは、結合点、連結を意味する。本書では特に、科学、技術、芸術という三つの世界が交差する場所を指している。科学は世界はなぜそうなっているのかを理解しようとする。技術はそれをどう実現するかを考える。そして芸術は世界を別の仕方で見ることはできないかと問いかける。三者は異なるが、互いに補完できる。科学だけでは発想が限定される。芸術だけでは実行可能性を欠く。技術だけではそもそも何を作るべきかという目的を失う。三つを結びつけることで、人間の思考空間を拡張できる。

2.かつて芸術と科学は一つだった

著者たちはルネサンスを重要な歴史的出発点とする。レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるように、当時は芸術家、科学者、技術者という現代的な職業区分が明確ではなかった。人体を描くために解剖学を研究し、遠近法を理解するために幾何学を学び、水を描くために流体の運動を観察する。美しい絵を描くことと自然の法則を理解することが一つの知的活動だった。近代化とともに学問は細分化され、科学者、技術者、芸術家は別々の専門家になった。専門化によって知識は飛躍的に発達したが、同時に分野間の壁も生まれた。本書は、専門性を捨てるのではなく、高度な専門性を維持しながら再び領域を横断することを求めている。

3.複雑な世界を見る

オッティーノの専門である複雑系科学は、本書全体の思想的基盤となっている。複雑系では、全体を単純に部分へ分解しても、その全体像を理解できない。気候、経済、都市、インターネット、生態系、企業組織などでは、多数の要素が互いに作用し、その相互作用から予想外の現象が発生する。したがって現代の問題を理解するには、部分を見る能力と全体を見る能力の両方が必要になる。これは芸術にも通じる。優れた芸術家は細部を観察すると同時に、画面全体の構成を見る。複雑系科学者も、個々の要素だけでなく、要素間の関係から生まれるパターンを見る。科学と芸術には関係を見るという共通能力が存在する。

4.複雑さの中に単純さを見る

本書で象徴的に扱われるのがピカソの雄牛の連作である。ピカソは写実的な雄牛から出発し、段階的に線を削っていき、最後には数本の線だけで雄牛を表現した。重要なのは単なる単純化ではない。何を削除しても雄牛であり続けるのかを発見することである。複雑な対象から本質的構造を抽出する能力は、芸術だけでなく科学にも必要である。優れた理論とは、無数の現象を少数の原理によって説明するものである。したがってピカソの抽象化と科学者の理論化は、一見まったく違うようでいて、複雑なものから本質を抽出するという共通の思考を持っている。

5.単純さの中に複雑さを見る

しかし逆方向の能力も必要である。単純に見える問題の背後に巨大な複雑性が隠れている。例えば水道の蛇口をひねれば水が出るという行為の背後には、ダム、浄水場、電力、配管、都市計画など巨大なシステムが存在する。スマートフォン一台の背後にも、半導体、鉱物資源、通信網、ソフトウェア、サプライチェーンなど世界規模のネットワークが存在する。優れた思考者には複雑なものを単純に見る能力と、単純なものの中に複雑性を見る能力の両方が必要である。

6.バウハウス-境界を越える創造

歴史的事例として重要なのがバウハウスである。バウハウスでは絵画、彫刻、建築、家具、工芸などを分離せず、芸術と産業技術を結びつけようとした。美しい作品を作るだけではなく、大量生産、住宅、都市、生活をデザインしようとした。著者たちにとってバウハウスはNexusの一つの歴史的モデルである。異なる専門家が同じ場所に集まり、互いの思考方法に触れることで、それまで存在しなかった発想が生まれた。

7.ベル研究所-科学と技術のNexus

もう一つの重要な例がベル研究所である。ベル研究所では物理学者、数学者、化学者、電気技術者、通信技術者などが同じ環境で研究した。そこからトランジスタ、情報理論、通信技術など20世紀を変えた革新が次々と生まれた。重要なのは、単に優秀な研究者を集めたことではない。異なる専門家が偶然出会い、互いの問題を知り、異なる知識を組み合わせられる環境が作られていたことである。イノベーションは一人の天才だけから生まれるのではなく、異質な知識が接触する場所から生まれるというのが本書の重要な視点である。

8. 相補性-矛盾するものを同時に持つ

本書の中心概念の一つが相補性である。世界を理解するためには、一見矛盾する二つの考えを同時に持つ必要がある。分析と直観、論理と感情、専門性と総合性、競争と協力、効率と冗長性、単純さと複雑さなどである。通常、人間はどちらか一方を選びたがる。しかし複雑な問題ではどちらが正しいかではなく、両方が必要ではないかと考える能力が重要になる。これがNexus Thinkingの核心の一つである。

9.一つの眼鏡から複数の眼鏡へ

通常、教育とは一つの専門分野の眼鏡を身につけることである。物理学者は物理学の眼鏡で世界を見る。経済学者は経済学の眼鏡で見る。芸術家は芸術の眼鏡で見る。専門教育は必要である。しかし問題は、一つの眼鏡しか持たない人間は、世界をその方法でしか理解できなくなる。Nexus Thinkingでは、別の眼鏡を意識的に身につける。科学者が芸術家の見方を学び、芸術家が技術者の考え方を理解し、経営者が複雑系を学ぶ。すると同じ問題がまったく違って見えてくる。思考を拡張するとは知識量を増やすだけではなく、世界を見る方法を増やすことである。

10.デザインは知らないことから始まる

ブルース・マウのデザイン思想も本書の重要な柱である。デザインとは、答えを知っている人間が答えを形にする作業ではない。むしろまだ答えが存在しない問題に向き合う方法である。優れたデザイナーは、分からないという状態に耐える能力を持たなければならない。すぐに答えを出さず、問いを変え、観察し、試し、失敗し、別の可能性を探す。科学研究にも同じ姿勢が必要である。真の研究とは既知の答えを確認することではなく、誰も答えを知らない問題に向かうことである。

11.対象ではなくシステムをデザインする

従来のデザインは一つの製品や建物を対象にすることが多かった。しかし現代では、製品そのものよりも、その製品が存在するシステム全体を考えなければならない。例えば自動車を設計するなら、車体だけでなく、道路、都市、エネルギー、環境、交通事故、駐車場、公共交通まで考える必要がある。気候変動も同様である。発電技術だけを改善して解決できる問題ではない。エネルギー、産業、金融、都市、食料、政治、人間行動が相互に結びついている。したがって21世紀のデザインとは物をデザインすることからシステムをデザインすることへ変わる必要がある。

12.管理者は地図を使いリーダーは羅針盤を作る

既知の世界では地図が役立つ。過去のデータ、マニュアル、成功事例を使えば目的地へ到達できる。しかし未知の世界には地図が存在しない。気候変動、AI、パンデミック、地政学的変化など、前例のない問題では過去の成功方法が通用しない。その場合、必要なのはどちらへ進むべきかを判断する羅針盤である。21世紀のリーダーには、既存の方法を効率的に運用する能力以上に、未知の状況で方向を発見する能力が求められる。

本書が言いたかったこと

現代社会の問題が複雑になった以上、人間の思考方法も変えなければならない。近代社会は専門化によって巨大な成果を上げてきた。医学者、物理学者、技術者、芸術家、経済学者、経営者がそれぞれ専門知識を深めた結果、人類の知識と技術は飛躍的に発展した。しかし専門化には弱点がある。専門家は自分の領域の内部を深く見ることはできても、領域と領域の間で起きていることを見落とす。ところが現代の重要問題は、ほとんどすべて領域の境界を越えている。必要なのは万能の天才になることではない。自分の専門性を持ちながら、異なる専門家がどのように世界を見ているかを理解し、複数の思考方法を自分の中に持つことである。芸術からは、既存の枠組を疑い、別の世界を想像する力を学ぶ。科学からは、現実を観察し、法則を発見し、検証する力を学ぶ。技術からは、アイデアを現実に実装する力を学ぶ。そしてデザインからは、人間と社会全体を見ながら、それらを一つの解決策へ統合する方法を学ぶ。この四つを結びつけることで、単独の専門分野では見えなかった可能性が見えてくる。したがってNexusとは、単なる学際研究を意味する言葉ではない。それは、異なる知性を自分の中で衝突させ、その緊張から新しい発想を生み出す思考方法である。芸術と科学は対立するものではない。論理と直観も対立するものではない。単純さと複雑さ、専門性と総合性、創造と実行も、どちらか一方を選択する必要はない。むしろ両極を同時に保持できる人間ほど、未知の問題に対して強くなる。本書が提示する21世紀の知性とは、膨大な知識を持つ人間ではない。一つの専門を深く持ちながら、必要に応じて別の眼鏡を掛け、問題の見え方を変えることのできる人間である。

未来の輪郭