The Godfather
1969年刊
Mario Puzo著
マリオ・プーゾの経歴
マリオ・プーゾ(1920-1999年)は、ニューヨークのマンハッタンにイタリア系移民の家庭に生まれた米国の小説家・脚本家である。第二次世界大戦中には米陸軍航空軍に勤務し、戦後、大学で文学を学びながら作家を志した。初期にはイタリア系移民社会を題材とした文学性の高い作品を書いたが、商業的には成功しなかった。そこで家族を養うためにも、より大衆性の高い作品として執筆したのがゴッドファーザーである。プーゾ自身はマフィアの構成員ではなく、取材や資料、イタリア系アメリカ社会についての知識などを組み合わせて巨大な犯罪一家の世界を創造した。ゴッドファーザーは世界的ベストセラーとなり、コッポラとともに映画版の脚本を執筆した。その後もゴッドファーザーPART II、PART IIIの脚本に参加し、小説家であると同時に映画史に大きな足跡を残した。
原作ゴッドファーザーの内容
1.ファミリーという国家
物語は1945年、ニューヨークで行われるドン・ヴィトー・コルレオーネの娘コニーの結婚式から始まる。ヴィトーは巨大な犯罪組織を率いる一方、困窮した者から相談を受け、友情と忠誠を条件として問題を解決するゴッドファーザーである。彼の権力は単純な暴力だけによって成立しているのではない。政治家、警察、裁判官、労働組合、企業、芸能界などに人脈を張り巡らせ、恩義と忠誠を交換することによって一種の私的国家を形成している。
2.麻薬をめぐる戦争
ヴィトーのもとに麻薬商人ソロッツォが現れ、麻薬事業への出資と政治的保護を求める。しかしヴィトーは、麻薬に手を出せば政治家や司法関係者との長年の関係を失うと判断して拒否する。この決断を契機としてニューヨークの犯罪組織間の均衡が崩れ、ヴィトーは銃撃され重傷を負う。ここから物語の中心人物は、父ヴィトーから三男マイケルへと移っていく。
3.マイケルの変貌
マイケルは第二次世界大戦に従軍した英雄であり、当初は一家の犯罪事業から距離を置いている。恋人ケイ・アダムスにも、自分は家族とは違う人間であるという態度を示していた。ところが父が襲撃されると状況が一変する。マイケルは父を守るために組織の抗争へ入り、遂にはレストランでソロッツォと警察官マクラスキーを射殺する。これによって普通のアメリカ人として生きる道を自ら断ち切り、シチリアへ逃亡する。
4.シチリアと喪失
シチリアでマイケルはアポロニアと出会い結婚する。しかし敵対勢力による爆弾でアポロニアは死亡する。この経験によってマイケルの内面は浚いに更に冷徹なものとなっていく。一方、ニューヨークでは兄ソニーが激情的な行動を重ね、敵の罠にはまって料金所で殺害される。ヴィトーは息子を失ったことで抗争継続の無意味さを悟り、五大ファミリーとの和平を成立させ、マイケルを米国へ帰国させる。
5.父から息子へ
帰国したマイケルはケイと結婚するが、次第に父の後継者として組織を掌握する。老いたヴィトーはマイケルに権力の仕組と敵の見抜き方を教え、やがて庭で孫と遊んでいる最中に死ぬ。父の死後、マイケルは敵対勢力と内部の裏切り者を一挙に排除する。こうして、かつて犯罪世界を嫌っていた青年が新しいドン・コルレオーネとなる。本書の核心はマフィアそのものというより、権力が人間をどのように変えていくかという問題にある。ヴィトーは暴力を用いながらも家族を守るために権力を築いた。しかしマイケルは家族を守ろうとして権力を握り、その権力によって次第に家族を失っていく。その逆説こそゴッドファーザー全体を貫く最大の悲劇である。
原作と映画の違い
映画第1作は原作の中心的な筋をかなり忠実に映像化しているが、原作は映画よりはるかに多くの人物と脇筋を描いている。特に歌手ジョニー・フォンテーンのハリウッドでの人生、ソニーの愛人ルーシー・マンチーニと医師ジュールズ・シーガル、殺し屋ルカ・ブラージの過去、マイケルの腹心アル・ネリの警察官時代などは、小説では相当な分量を占めるが映画では大幅に削除されている。最も重要な違いの一つがヴィトーの若い時代である。原作ではシチリアでの幼少期、米国への移住、ニューヨークでの貧しい生活、ファヌッチ殺害、犯罪組織の形成までが描かれている。この部分は映画第1作から外され、後にゴッドファーザー PART IIでロバート・デ・ニーロ演じる若きヴィトーの物語として使用された。また小説は登場人物の心理や犯罪組織の仕組みを詳細に説明するのに対し、映画は説明を削り、表情、沈黙、照明、音楽、構図によって権力関係を表現する。とりわけ映画第1作の最後で、ケイの目の前でマイケルの部下たちが彼をドン・コルレオーネと呼び、扉が閉じられる場面は、マイケルが完全に別世界へ入ったことを一枚の映像で象徴している。原作の結末はこれとは異なり、ケイの心理と宗教的な受容まで描いている。したがって原作はマフィアという社会とそこに生きる人間たちの巨大な群像小説という性格が強く、映画はそこからヴィトーとマイケルという父子を抽出し権力と家族をめぐる悲劇へ凝縮した作品といえる。
映画ゴッドファーザーPART I
1972年公開の第1作は、原作の中心部分を映画化した作品である。監督はフランシス・フォード・コッポラ、ヴィトーをマーロン・ブランド、マイケルをアル・パチーノが演じた。最大の見どころはマイケルの変貌である。冒頭では軍服を着た戦争英雄として恋人ケイと結婚式に参加していた青年が、父への襲撃を契機に殺人を犯し、シチリアへの逃亡を経て、最後には父以上に冷徹なボスとなる。一方、マーロン・ブランド演じるヴィトーは、声を荒らげることなく相手を従わせる。暴力を振るう人物ではなく暴力を使えることを相手に理解させる人物として描かれ、これがヴィトーの圧倒的な存在感を生んでいる。映画の頂点が終盤の洗礼の場面である。マイケルが教会で甥の洗礼に立ち会い、神の前で悪を否定すると同時に、彼の命令によって敵対するボスたちが次々に殺されていく。宗教的儀式と殺人を交互に映すことで、マイケルが表面的には社会的な家長となりながら、裏では完全な犯罪組織の支配者となったことを示す。そして最後にケイの前で扉が閉じる。この瞬間、家族を守るため犯罪世界に入った男が、その犯罪世界によって妻との間に見えない壁を作ったことが示されるのである。
映画ゴッドファーザーPART II
1974年公開のPART IIは極めて独特な構成を持つ。若きヴィトーが20世紀初頭のニューヨークで勢力を築いていく物語と、1950年代のマイケルが巨大化した組織を支配する物語が交互に描かれる。若きヴィトーをロバート・デ・ニーロ、マイケルをアル・パチーノが演じる。映画は作品賞を含む6部門でアカデミー賞を受賞した。ヴィトー編は原作小説に含まれていた過去の物語を基礎としているが、マイケルのその後の物語は主としてコッポラとプーゾが映画のために発展させた。最大の見どころは父と息子の対照である。若きヴィトーは犯罪によって権力を獲得するが、それとともに仲間や家族を増やしていく。対照的にマイケルは権力を拡大すればするほど人を疑い、妻ケイとの関係を破壊し、ついには実兄フレドーの殺害まで命じる。したがってPART IIは単なる続編ではない。同じドンでありながら、ヴィトーは権力によって家族を形成し、マイケルは権力によって家族を破壊するという逆方向の人生を描いている。最後にマイケルが一人で座っている姿は、権力を完全に手にした男が人間としてはほとんど全てを失ったことを象徴する。
映画ゴッドファーザーPART III
1990年公開のPART IIIでは、物語は1979年へ進む。老境に入ったマイケルは犯罪事業から離れ、コルレオーネ家を完全に合法的な企業へ変えようとしている。巨額の慈善活動を行い、ヴァチカンと関係する国際不動産会社インモビリアーレへの投資を通じて、過去から脱出しようとする。しかしマイケルは自分が築いた世界から逃れることができない。ヴァチカンをめぐる金融上の陰謀、旧来のマフィアとの抗争、そしてソニーの息子ヴィンセントの台頭によって、再び暴力の世界へ引き戻されていく。この作品の中心は権力獲得ではなく贖罪である。マイケルはフレドー殺害をはじめとする過去の罪に苦しみ、告解の中でそれを認める。若き日のマイケルが父を守るために犯罪世界へ入ったことを考えれば、老いた彼が最も望んでいるものは金でも権力でもなく、失われた家族と自分自身を取り戻すことである。しかしその願いは実現しない。シチリアのオペラ劇場で息子アンソニーが出演するカヴァレリア・ルスティカーナの上演と、敵味方の殺害が同時進行し、最後にはマイケルを狙った銃弾によって娘メアリーが死亡する。ここで三部作全体の悲劇が完成する。マイケルは家族を守るために人を殺し、家族を守るために権力を握り、家族を守るために兄まで殺した。しかしその結果、最後には最愛の娘まで失う。PART Iが権力の獲得、PART IIが権力による孤独、PART IIIが権力から逃れようとしても逃れられない贖罪の悲劇と考えると、三部作の構造は非常に分かりやすい。そして最後に残るのは、シチリアで孤独に老いて死んでいくマイケルである。かつて周囲に巨大なファミリーを従えた男の最期には誰もいない。ヴィトーが家族に囲まれて庭で死んだことと鮮烈な対照をなしている。ゴッドファーザー三部作は犯罪映画であると同時に、権力とは何かを描いた壮大な悲劇である。権力は家族を守る手段として始まりながら、やがて権力を守ることが目的となり、その過程で最初に守ろうとした家族を破壊してしまう。そこに本作が単なるマフィア映画を超えて長く評価されてきた理由がある。
