私財による社会貢献と日本の制度的限界
ある人が生涯働き、事業を興し、投資を行い、その過程で所得税、法人税その他の税を負担し、最終的に一定のアフタータックス財産を築いたとする。その人が、その財産を子孫に残すのでも、豪邸や高級車に使うのでもなく、自分が価値を認める芸術、科学、教育、文化などのために自由に使いたいと考えた時、国家はどこまで介入すべきなのだろうか。この問題を、日本は規制が多く欧米は規制が少ない、という単純な比較で論じるべきではない。実際、米国のPrivate Foundationには極めて厳しいself-dealing規制が存在する。一方で、財団目的の遂行に合理的かつ必要な人的サービスについては、自由に支払える。日本と欧米の本当の違いは規制が厳しいか緩いかではない。より根本的な違いは、国家とは独立した私人が、自分自身の価値観によって公益を発見し、社会を作る主体であることを、社会制度がどこまで積極的に認めているかという思想にある。ここに日本の問題の核心がある。
欧米のフィランソロピー
1.国家の外にも公益は存在する
米国のPrivate Foundationの思想を理解する上で重要なのは、富裕者が好き勝手に財産を使えるということではない。一度公益目的の財団に移した財産を創設者が私物化することには厳しい規制をかける。しかし、その財産によって何を実現しようとするかについては、私人の判断に相当な領域を残す。これは非常に重要な思想である。政府だけが社会問題を発見するのではない。大学だけが重要な研究を発見するのでもない。一人の人間が、この研究者は天才かもしれない、この画家は100年後に評価されるかもしれない。この病気は政府が考えている以上に重要である。この思想を100年後に残したいと思うこと自体が、社会を変える出発点になり得る。その判断は間違っているかもしれない。しかし、間違える自由を私人から奪えば、まだ誰も理解していない未来を発見する自由まで奪うことになる。これが私人フィランソロピーの本質である。
2.欧米の国家と市民社会を分ける伝統
英国のCharity制度にも厳格なpublic benefitの原則がある。英国も自分のお金だから何をしてもCharityになるという社会ではない。それでも重要なのは、英国社会には国家とは別にCharity、Trust、大学、私人などが公共空間を構成するという長い市民社会の伝統が存在する。国家は公益の唯一の供給者ではない。国家の外側にも公共がある。米国はこれを更に私人中心に発展させた。政府、大学、企業とは別に、個人の財産と個人の思想から社会的価値が生まれることを制度として受け止めてきた。欧米のフィランソロピーを支えているのは、単なる税制優遇ではない。国家には社会の未来をすべて予見する能力などない、という国家に対する健全な不信である。
日本の問題
1.租税回避防止から始まる制度思想
日本にも一般財団法人という制度があり、一定の要件を満たせば行政庁の許可なしに設立できる。この改革は明らかな前進である。しかし、その先で税制上の非営利型法人となろうとすれば、特定個人への特別利益を排除し、各理事とその配偶者・一定の親族等を合計した人数を理事総数の3分の1以下にするなどの要件が課される。一つ一つを見れば合理性がある。財団を作り、そこへ100億円を移し、実質的には創設者一家が自由に100億円を使えるのであれば、相続税や贈与税を回避する巨大な抜け道になってしまう。しかし問題はその先にある。日本では悪用する人間をどう防ぐかという発想が、善意の私人にどこまで自由に社会を作らせるかという発想より強すぎる。
2.国家は私人より賢いのか
この問題を突き詰めると、非常に単純な問いになる。国家は私人よりも、何が社会に必要なのかを正しく判断できるのだろうか。そんな保証はどこにもない。国家が科学技術予算を決める。大学が研究費を配分する。文化庁が芸術を支援する。地方自治体が文化施設を作る。これらは必要である。しかし行政には行政の限界がある。前例が必要であり、公平性が必要であり、審査基準が必要であり、説明責任が必要であり、成果指標が必要になる。その結果、1000人の中からなぜこの一人なのかという問いに答えられない支出は難しくなる。しかし私人なら答えは簡単である。私がこの人を信じるからである。それでよいのである。
3.アフタータックス財産にまで及ぶ国家の影
ここで特に問題にしたいのが、アフタータックス財産である。違法所得でもない。脱税した金でもない。税金を払った後に残った正当な私有財産である。その人が10億円の邸宅を購入してもよい。数億円の絵画を購入して自宅に飾ってもよい。世界中を旅行して数億円を使ってもよい。ところが同じ人が、10人の若い芸術家に10年間生活費を与えたい、無名の数学者に何の成果も要求せず研究させたい、詩人や哲学者を集めて、何の役に立つか分からないが考える研究所を作りたい、友人の中に面白い人物がいるので、彼に給料を払い、世界中を旅行して考えてもらいたいとなると、法人制度・税制上の扱い、報酬の合理性、受給者側の課税、利益供与、ガバナンスなど様々な問題が発生する。もちろん、個人が自己資金を使うこと自体を日本法が一般的に禁止している訳ではない。しかし問題は、それを個人的消費ではなく、継続的・組織的な社会事業として行おうとした瞬間に、国家の制度的論理が急速に入り込んでくる。これは考えてみれば奇妙である。自分のために浪費する自由は大きいのに、他人の可能性のために浪費する自由は途端に狭くなる。
4.日本社会は無駄を恐れすぎる
その背景には、日本社会特有の勤労倫理がある。働くことは善である。無駄は悪である。報酬には仕事が対応しなければならない。研究費には成果が必要である。補助金には報告書が必要である。組織にはガバナンスが必要である。一つ一つはすべて正しい。しかし、正しいことを全部徹底すると、創造性のない社会になる。芸術、科学、思想、文学、発明には、必ず巨大な無駄が伴う。100人の画家を支援して99人が歴史から消えても、一人のピカソが出ればよい。100人の研究者に好きな研究をさせ、99人が何も発見できなくても、一人が新しい物理学を作ればよい。行政には、このような資金配分は難しい。だから私人が必要なのである。
5.働かない人を養える社会
更に踏み込めば、社会には一見何もしていない人間が必要なのではないだろうか。詩人、哲学者、芸術家、発明家、夢想家、蒐集家、旅人、隠者。彼らは工場労働のように毎日の生産量を測ることができない。何年間も何も生み出さないことさえある。しかし人類文明を長期的に振り返れば、こうした非効率な人間から巨大な文化的・科学的価値が生まれてきた。豊かな社会とは、全員が効率的に働いている社会ではない。一定数の人間が、何の役に立つか分からないことを考えながら生きることを許容できる社会こそ、本当に豊かな社会である。
AI時代の価値観逆転
この問題はAI時代に決定的に重要になる。これまで人間社会は正確に仕事をする人を大量に必要としてきた。しかしAIとロボットが、文章作成、翻訳、プログラミング、会計、調査、分析などを急速に代替していけば、人間に残る希少価値は変化する。AIは与えられた問題を効率的に解く能力を益々高める。すると人間に重要になるのは、そもそも誰も問題だと思っていないことを問題だと思う能力である。遊び、寄り道、空想、異端、反抗、芸術、哲学。これらはすべて効率性とは真逆である。産業社会では働かない蜂は非効率だったかもしれない。AI社会では逆に、働かない蜂の中からしか生まれない価値が、人間の最大の価値になる可能性がある。
日本の規制思想の根本的な誤り
日本の問題は、役所が意地悪だから規制している、という単純な話ではない。もっと深刻である。国家が社会の合理性を設計できる、という思想が強すぎる。租税回避を防ぐ。不正を防ぐ。無駄を防ぐ。利益相反を防ぐ。親族支配を防ぐ。不適切な報酬を防ぐ。これらは一見すべて正しい。しかし防ぐという思想だけで社会制度を作れば、最後には何も新しいものが生まれなくなる。国家が本当に恐れるべきなのは100人の中の一人の不正者ではない。100人全員を規則に従わせることによって、その中にいた一人の異端者を潰してしまうことである。
日本に必要な私人公益財団
日本には、一般財団法人と公益財団法人の間に、思想的にはもう一つの領域が必要ではないだろうか。仮に「私人公益財団」と呼ぶ。創設者は納税済みの財産を不可逆的に財団へ移す。財産を本人へ戻すことは禁止する。相続人へ分配することも禁止する。その代わり、その財産で何をするかについては、原則として創設者に任せる。親族を理事にしてもよい。友人を理事にしてもよい。合理的な報酬を払ってもよい。無名の画家を支援してもよい。売れない詩人を10年間養ってもよい。数学者に成果を求めなくてもよい。研究報告書を要求しなくてもよい。100のプロジェクトのうち99が失敗してもよい。なぜなら、その財産は国家の税金ではないからである。
失敗する自由こそフィランソロピー
政府のお金は失敗してはいけない。国民の税金だからである。だから公平性、透明性、説明責任、競争入札、成果評価が必要になる。しかし私人のお金は違う。私人には失敗する権利がある。ここを混同してはいけない。10億円を100人に配り、全員失敗するかもしれない。それでもよい。その代わり101回目に、人類を変える研究が生まれるかもしれない。政府にはできない。企業にもできない。大学にも難しい。だからこそ私人の財産が社会に存在する意味がある。フィランソロピーとは政府予算の民間版ではない。政府にはできない失敗を引き受ける制度である。
国家だけが公益を知っている訳ではない
最終的に問われているのは財団法人制度ではない。国家と個人の関係である。日本では長い間、国家が社会を設計し、行政が基準を作り、国民がそれに従うことで高度な秩序を作ってきた。それは日本の強さでもあった。しかしAI時代には、その成功体験が弱点になり得る。合理性、効率性、標準化、正確性という国家や企業が得意としてきた領域を、AIが猛烈な速度で代替していく。その時人間社会に必要になるのは、その反対側である。無駄、遊び、失敗、異端、空想、哲学、芸術である。そして、それを政府予算だけに期待することには根本的な矛盾がある。政府には公平性が必要である。だからこそ私人が必要になる。自分で築き、税金を払い終えた財産を持つ人間が、私はこれが人類にとって大切だと思うという理由だけで、自分の財産をそこへ投じられる社会でなければならない。私人が考える公益を規制する理由はない。日本の問題は規制が多いことだけではない。国家が公益を定義しすぎる。欧米から本当に学ぶべきなのは税率でも法人形態でもない。国家とは別に、私人もまた社会の未来を発見する主体であるという市民社会の思想である。国家が全てを知っている訳ではない。官僚が未来を予測できる訳でもない。専門家が天才を必ず発見できる訳でもない。だから社会には複数の判断主体が必要である。国家が間違っても、企業が間違っても、どこかの一人の変人が正しいかもしれない。そして、その変人をもう一人の変人が自分の財産で支える自由がなければならない。それこそが豊かな市民社会であり、私人フィランソロピーの本質である。AI時代の日本に必要なのは、国民を更に細かな規則で管理することではない。あなたは税金を払った。その後のあなたの財産について、他人を害さないのであれば、あなた自身が信じる未来のために使ってよいと国家が一歩退くことである。それは富裕者のための自由ではない。国家にも市場にも発見できない未来を社会の中に残すための自由である。
贈与税は本当に必要なのか(付記)
1.私有財産を渡す自由と国家の限界
世界的に見て贈与には当然に税金をかけるという統一した常識は存在しない。贈与税を持つ国もあれば、独立した贈与税を持たない国もあり、生前贈与を相続税の一部として扱う国もある。OECDの比較でも制度は大きく異なる。したがって、税引後の私有財産を他人に無償で渡しただけで、なぜ再び国家が課税するのかという疑問には、十分な理論的根拠がある。ただし、贈与税が存在する最大の理由は、実は贈与そのものを課税すべきだからではない。相続税を維持するなら、贈与税もなければ相続税が簡単に回避されてしまうからである。この点から考えると問題の構造が非常に明確になる。
2.世界では贈与税は当然の税ではない
OECDの2021年の調査では、36か国中24か国が相続遺産に対する資産移転税を課していた。逆にいえば、すべての先進国が相続税を当然視している訳ではない。また、相続・遺産税を課す国の多くは生前贈与にも課税するが、その方法、控除額、税率、親族間の扱いは大きく異なる。更に重要なのは、相続・贈与課税を廃止した先進国も存在する。OECDによれば1970年代以降に9か国が相続・遺産税を廃止している。たとえばノルウェーは2014年から相続税を廃止し、同時に贈与についても旧相続税を課さなくなった。オーストラリアも非常に対照的である。純粋な金銭贈与は原則として所得ではなく、贈与者にも受贈者にも贈与を理由とする税はなく、金額にも一般的な上限はない。ただし不動産や株式などを贈与すればキャピタルゲイン課税など別の税問題が生じ得る。したがって、人から財産をもらったのだから当然課税するというのは世界共通の原則ではない。
3.英国を見ると日本との違いがよく分かる
英国は相続税を持つ国である。しかし、生前贈与に対する思想は日本とはかなり異なる。英国では、個人から個人への通常の贈与はPotentially Exempt Transferとされ、贈与者がその後7年間生存すれば、原則としてその贈与について相続税はかからない。生前に本当に財産を手放し、その後十分長く生きたなら、それは相続財産ではないという考え方である。もちろん抜け道防止は厳しい。たとえば家を子供に贈与して名義だけ移し、本人がその家に無償で住み続けるようなgift with reservationは別扱いになる。形式だけ贈与して実質的には本人の財産であり続けるような行為を認めない。ここには興味深い原則がある。本当にあげたのなら認める。あげたふりをして自分で使い続けるなら認めない。これは非常に筋の通った考え方である。
4.なぜ贈与税が存在するのか
贈与税を擁護する最大の理由は、相続税との一体性である。仮に相続税率が50%で、贈与税がゼロだとする。80歳で10億円持っている人なら、死亡する前日に子供へ10億円を贈与すればよい。翌日死亡すれば相続財産はゼロになる。これでは相続税制度が成立しない。だから、相続税がある以上、その回避防止税として贈与税が必要になる。これは日本だけの発想ではない。OECDも、多くの国で生前贈与と相続課税が連動しているのは、まさにこうした税負担回避との関係がある。贈与税は、独立した税というより、相続税の防波堤として存在する。
5.二重課税という疑問
ここからが思想的に重要である。ある人が事業で10億円を稼いだとする。その過程で所得税等を負担し、最終的に5億円が手元に残ったと仮定する。その5億円で自宅を買えば、基本的には所得税をもう一度払う訳ではない。絵を買ってもよい。世界旅行をして使い切ってもよい。ところが、自分にはもう必要ないので、長年世話になった友人に5億円をあげるとなると、受贈者側に贈与税の問題が生じる。ここで、「私はこの財産を得る際にすでに税金を払った。それを誰に渡すかまで、なぜ国家が課税するのか」という疑問が生まれる。この疑問は税哲学として十分成立する。私有財産権という思想から見れば、本当にそれでよいのかという問題は残る。
6.贈与税を正当化する三つの論理
贈与税を正当化する考え方には、大きく三つある。第一は先ほどの相続税回避防止である。これは最も強い理由である。第二は機会の平等である。自分で働いて1億円を得た人には所得税がかかるのに、親から1億円をもらった人が完全非課税なのは公平なのかという議論である。第三は富の世襲的集中の抑制である。巨大財産が何世代にもわたり無税で移転されれば、経済力だけでなく教育、政治的影響力、投資機会まで特定家系に集中する。この固定化を税によって弱めるべきだという思想である。これらには一定の合理性がある。
7.それでも贈与税にも重大な問題がある
反対側から見ると問題も大きい。最大の問題は、財産所有権には本来処分する自由が含まれていることである。自分で稼ぎ、納税し、合法的に所有している1億円なら、自分で使うだけでなく、子供に渡す、友人に渡す、芸術家に渡す、研究者に渡す、困っている人に渡す、という自由も財産権の重要な一部であると考えることができる。この立場からすると、所有する自由は認めるが、他人に無償で渡すときには国家が大きく取り分を要求するという制度には緊張関係がある。更に贈与税にはもう一つ問題がある。それは人間同士の助け合いに国家が入り込むことである。親が子供を助ける。成功した人が友人を助ける。資産家が無名の芸術家を助ける。高齢者が若者の起業を支援する。本来こうした行為は市民社会の自発的な資源移転である。そこへ高率の贈与税を課せば、私人間の資金循環を阻害する。
8.日本は国際的に見ても負担感が強い
OECDの比較で特に注目すべき数字がある。相続・遺産・贈与課税を持つ国でも、これらの税収は平均すると総税収の約0.5%にすぎない。日本は10億円だとすると半分以上を納税することになり、苛烈な財産移転を強いる国である。問題は単純に最高税率が高いことだけではない。私人間の財産移転について国家が強く関与する税思想そのものを考える必要がある。
9.合理的なのは相続回避を規制すること
先の英国型の発想には合理性がある。死亡直前の贈与は相続とほとんど同じである。だから相続税に取り込む。しかし30年前に子供へ財産を渡し、本人は完全に所有権を失い、その後30年間生きたのであれば、それを死亡時の相続と同一視する必要性はかなり弱くなる。贈与を課税対象とするのではなく、実質的な相続を課税対象にするという考え方である。英国の7年ルールはまさにこの発想に近い。これなら相続税逃れを防ぎながら、生前に本当に財産を手放す自由を相当程度認めることができる。
10.受贈益をどう考えるか
もっと根本的には、相続税・贈与税という独立した税目を疑う考え方もある。たとえば、贈与された現金には課税せず、その資金を投資して生じた利子、配当、事業利益、キャピタルゲインなどに通常どおり課税するという制度設計も考えられる。これは、財産を持つこと・渡すことではなく、その財産が新しく生み出した所得に課税するという思想である。ノルウェーが相続・贈与税を廃止した際にも、資産の取得価額等を受贈者・相続人が原則引き継ぐ税務上の継続性を採用しており、資産移転を完全に税制から切り離した訳ではない。このような仕組は無税にするというより、課税時点を財産移転時から所得実現時へ移すという考え方である。
11.財団の問題とも実は同じ
これはここで論じた財団法人と同じ問題に行き着く。自分で稼ぎ、税金を払った財産について、誰に渡すのか、何に使うのか、誰を支援するのか、どんな社会的実験をするのかというところまで国家が強く介入するべきなのか、という問題である。本当に所有権を手放した真正な贈与まで、高率の税によって強く制限する必要があるのか。これは別問題である。
12.贈与税の本質は自由と平等の衝突
したがって、贈与税を単純に正しい税、間違った税と決めることはできない。贈与税を支持する側には、相続税逃れを防止し、世襲による富の固定化を抑え、機会の平等を確保するという論理がある。しかし反対側には、それと同じくらい重要な原則がある。合法的に取得し、既に課税を受けた財産を誰に渡すかは、本来その所有者の自由ではないのか、という私有財産権の原則である。世界を見ても答えは一つではない。相続・贈与課税を維持する国もあれば、廃止した国もあり、英国のように一定期間を経過した真正な生前贈与を相続税から切り離す国もある。贈与には当然税金を取るという世界標準は存在しない。日本について問うべきなのは、贈与税をゼロにするかどうかだけではない。相続税逃れを防止するための税が、いつの間にか私人が自分の財産を自由に他人へ渡すことを強く制約する税になっていないか、ということである。制度改革を考えるなら、死亡直前の財産移転や名目的贈与には厳しく課税する一方、相当期間を経た真正な生前贈与については大幅に自由化する方向には十分な検討価値がある。それなら租税回避防止と私有財産の処分自由を、現在よりはるかに明確に切り分けることができる。
