芸術を創造する力

芸術を創造する力
イメージのダイナミックス
1986年4月刊
徳田良仁著

徳田良仁の経歴

徳田良仁は1925年生まれの日本の精神科医であり、芸術療法、表現精神病理学、病跡学の研究を長年にわたって進めた研究者である。東京慈恵会医科大学を卒業後、東京大学医学部附属病院精神神経科などで精神医学の臨床と研究に携わった。精神科医としての徳田の大きな特徴は、人間の精神状態を言葉や症状だけから理解するのではなく、絵画をはじめとする芸術表現の中から読み取ろうとしたことである。1960年代からすでに芸術療法について研究を発表し、日本におけるアートセラピー、表現精神病理学の形成に重要な役割を果たした。更に徳田自身も画家として制作を続けていた。この点が本書に独特の視点を与えている。芸術を外部から分析する精神科医ではなく、作る側の経験を持った精神科医だった。その研究領域は、精神疾患を持つ人々の表現、芸術家の創造性、夢と芸術、狂気と創造、芸術療法など広範囲に及ぶ。

本書の内容

1.芸術とは精神内部の運動を形にする行為

本書の副題はイメージのダイナミックスである。この言葉が本書全体を理解する鍵となる。徳田にとってイメージとは、頭の中に静止した写真のように存在するものではない。人間の記憶、感情、欲望、恐怖、夢、身体感覚、外界からの刺激などが複雑に作用しながら、絶えず変化する動的な心的現象である。芸術家は、その内面的運動を色彩、形態、線、空間、人物、象徴などへ変換する。したがって作品を見るということは、完成した形を見るだけではない。その形が生まれる以前に作者の精神内部でどのような運動が起きていたのかを想像することでもある。徳田が研究対象としているのは、まさにこの精神からイメージへ、イメージから作品へという変換の過程なのである。

2.アイデンティティの模索

第一部アイデンティティの模索では、ムンク、シーレ、ベーコンが取り上げられる。この三人に共通するのは、人間の姿を単なる外見として描かなかった点である。ムンクの人物には孤独、不安、愛、嫉妬、死への恐怖などが投影されている。そこでは顔や身体は人物を識別するための肖像ではなく、精神状態を外部化する装置となる。シーレの場合、自画像が自己認識の実験場となる。細く歪んだ身体、強調された手足、奇妙な姿勢、裸体などを通して、自分とは何者なのかという問いが繰り返し表現される。ベーコンになると、人間の顔や身体は更に激しく変形される。人物は安定した存在として描かれず、肉体そのものが崩れ、歪み、別の姿へ変容していく。自画像は自分の顔を似せて描くことではない。人間は自分自身を完全には理解できない。自己像には、他人から見た自分、自分が理想とする自分、自分が恐れている自分、自分でも認めたくない欲望などが重なっている。芸術家が自己を描く時、こうした複数の自己像が衝突する。その葛藤が創造を生み出す。

3.ムンク

ムンクの作品は、徳田の問題意識を理解するための典型的な例である。ムンクにおいて病、死、愛、嫉妬、不安は単なる題材ではない。それらは画面の色彩や人物の形を変えていく力となる。例えば強烈な心理状態にある人間にとって、世界は客観的な形のままには見えない。周囲の空間さえ歪み、色彩が異様に強く感じられ、人間の顔も別のもののように見えることがある。芸術とは、この心理的に変形された世界を可視化する能力でもある。徳田がムンクを見るとき、重要なのは作品が現実を正確に再現しているかどうかではない。その作品が人間の不安をどれほど強くイメージへ転換しているかである。

4.シーレ

エゴン・シーレでは身体とアイデンティティの問題がより直接的に現れる。シーレは自分自身を繰り返し描いた。しかし、その自画像は通常の肖像画とは大きく異なる。身体は細く、硬直し、時には傷ついたように見え、性器や裸体も露骨に描かれる。徳田の視点から見るならば、そこには身体を通して自己の存在を確認しようとする強烈な衝動がある。私はこの身体なのか、この身体は私なのか、他人は私をどう見ているのかという問いが、自画像の反復を生んでいる。芸術家にとって身体は単なる外形ではない。自己と世界が接触する境界である。

5.フランシス・ベーコン

ベーコンにおいては人物像が安定性を失う。顔は崩れ、身体はねじれ、人物と背景の境界も不安定になる。徳田はこのような表現を単なる奇怪なデフォルメとして見るのではなく、人間の心理的イメージが変形していく過程として考える。我々が人を見る時、実際には単なる網膜像を見ている訳ではない。記憶、感情、恐怖、欲望などが知覚に入り込んでいる。ベーコンの絵画は、その通常は隠されている心的変形を極端な形で画面上に露出させる。

6.創造性における時間と空間

第二部では時間のイメージ表現、空間のイメージ表現、時間と空間の総合表現が扱われる。通常、絵画は静止した二次元空間である。しかし人間の意識は常に時間の中で動いている。過去の記憶、現在の知覚、未来への予感が同時に意識の中に存在する。画家はこの本来目に見えない時間を、反復、運動、色彩の変化、人物配置、遠近法の破壊などによって表現しようとする。また空間についても、単なる幾何学的空間だけが問題になるのではない。不安を感じている人には部屋が狭く感じられることがあり、解放感を持つ人には同じ場所が広く感じられる。人間が経験する空間は心理状態によって変化する。芸術家は物理的空間ではなく心理的空間を描くことができるのである。

7.人間は時間と空間の中で自己を形成する

徳田が時間と空間を創造性の問題として取り上げる理由は、人間の自己認識が時間と空間によって成立しているからである。人間には記憶がある。過去を記憶するから現在の自分が成立する。同時に人間には身体があり、身体を通して空間の中に自分の位置を感じる。したがって時間感覚や空間感覚が変化すれば、自己イメージも変化する。芸術家はこの関係を通常の人間以上に敏感に感じ取り、それを作品に変換する。ここでも創造とは単なる技巧ではなく、世界の感じ方を形にする行為である。

8.夢とファンタジー

第三部ファンタジーと人間では、夢、吸血鬼、不安、恐怖、死といった主題が扱われる。徳田がファンタジーを重視する理由は、人間の精神が現実をそのまま受け入れるだけの装置ではないからである。人間は存在しないものを想像できる。未来を想像し、死者を思い出し、怪物を作り、神を創造し、夢を見る。この存在しないものを見る能力こそ芸術創造の根源的条件である。夢では、現実には結びつかない人物や場所が突然結びつき、時間と空間の秩序が壊れる。芸術家もまた、現実の世界を別の論理によって再編成する。この意味で夢と芸術創造には共通する精神機能が存在する。

9.吸血鬼というファンタジー

徳田は吸血鬼という西洋文化に繰り返し現れるイメージにも注目する。吸血鬼は、単なる怪物ではない。生と死の境界に存在し、他人の生命を奪うことによって自らが生き続ける。また血、性愛、誘惑、死、不死といった複数のイメージが結びついている。このような文化的ファンタジーが長期間にわたり存続するのは、人間の深い心理的欲望や恐怖と結びついているからである。芸術が利用する象徴には、個人の心理だけでは説明できない、文化全体に共有されたイメージの層が存在することを徳田は示している。

10.不安、恐怖、死はなぜ芸術になるのか

人間は本能的には不安や死を避けようとする。しかし芸術では逆に、死体、怪物、疾病、孤独、恐怖などが繰り返し描かれてきた。なぜ人間は見たくないものをあえて見るのか。ここに芸術の重要な心理的機能がある。現実の死は恐ろしい。しかし死をイメージとして描き、それを作品の中に閉じ込めることによって、人間は死を精神的に扱える対象へ変えることができる。言葉にできない恐怖を絵にすることによって、その恐怖と一定の距離を取ることができる。芸術は、不安を単に消すものではない。不安をイメージへ変換し、人間がそれと向き合える形にする働きを持つのである。

11.エロティシズムと創造

第四部エロティシズムの表現は、本書の中でも徳田の精神医学的視点が強く現れる領域である。ここではエロスの周辺、欲動と昇華、ポルノグラフィーと芸術性、性的倒錯のイメージ表現、サディズムとマゾヒズム、欲望の弁証法が扱われる。精神分析の伝統では、人間の欲動は芸術創造と深い関係を持つと考えられてきた。特に重要なのが昇華である。直接的には満たすことのできない欲望や衝動が、文化的・社会的に価値ある活動へ転換されることを意味する。芸術創造はその代表的な形態の一つである。

12.性的表現はどこから芸術になるのか

徳田は更に、エロティックな芸術とポルノグラフィーの境界という難しい問題へ踏み込む。裸体や性愛を描いたからといって、それだけで芸術になる訳ではない。一方、性的内容を含んでいるから芸術ではないとも言えない。重要なのは、欲望がどの程度イメージとして変換され、新しい意味や形式を獲得しているかという点である。単純に性的刺激を与えることを目的とする表現と、人間の欲望を問い直す芸術表現との間には違いがある。この問題を徳田は精神医学と芸術論の両方から考察する。

13.サディズムとマゾヒズム

サディズムとマゾヒズムも単なる病理分類として扱われるのではない。人間には支配したいという欲望と、逆に支配されたいという欲望、他人を傷つける衝動と、自分自身を傷つける衝動が複雑に共存する場合がある。徳田が欲望の弁証法と呼ぶのは、人間の欲望が単純な一方向の力ではなく、相反する衝動を内部に含んでいるからである。芸術は、その矛盾を消去するのではなく、一つのイメージの中に共存させることができる。ここに論理的言語とは異なる芸術表現の力がある。

14.現実を超える芸術

第五部では、フックス、クビーン、ダッド、ガウディ、ダリという非常に個性的な芸術家が扱われる。彼らに共通するのは、日常的現実をそのまま表現するだけでは満足せず、現実とは別の世界を作品によって作り上げた。フックスは幻想的リアリズムによって神話的・宗教的・幻想的世界を精密に描いた。クビーンは夢、悪夢、死、不安に満ちた幻想世界を描き続けた。リチャード・ダッドは精神疾患を発症しながら、極めて精密な幻想絵画を制作した。ガウディは建築を、通常の幾何学的世界とは異なる有機的空間へ変貌させた。そしてダリは夢、無意識、性的欲望、恐怖などを超現実的イメージとして可視化した。

15.狂気と創造性

リチャード・ダッドなど精神疾患を持った芸術家を取り上げることで、本書は当然狂気と創造の問題に接近する。しかし、精神疾患が芸術的才能を生み出す訳ではない。病的体験が特殊なイメージを生み出すことはあり得る。しかし、それを持続的な芸術作品へ変換するためには、技術、構成力、記憶、文化的経験、制作への意志など別の能力が必要である。したがって狂人だから天才なのだというロマン主義的な説明だけでは芸術は理解できない。重要なのは、通常なら精神を混乱させるほど強い体験を、ある人間がどのように作品へ組織し直すのかという点である。

16.ガウディ

第五部で画家ではないアントニ・ガウディが取り上げられていることも本書の特徴である。ガウディの建築には、植物、骨格、洞窟、波、生命体を思わせる形態が現れる。それは通常の直線と平面を中心とする建築とは大きく異なる。徳田にとって重要なのは、ガウディが頭の中のイメージを単なる絵にとどめず、人間が実際に内部へ入ることのできる三次元空間へ変換した点である。創造的イメージは絵画だけに存在するものではない。建築、文学、音楽その他の芸術にも、人間の内面的イメージを外部世界へ実体化する共通した機能がある。

17.ダリ

サルバドール・ダリは本書の問題意識を象徴する芸術家の一人である。ダリの作品では、現実的に精密に描かれた物体が、現実にはあり得ない関係によって組み合わされる。時計が柔らかく溶け、身体が変形し、異なる像が一つの形の中に重なって見える。ここでは現実と幻想を分ける境界が揺らいでいる。しかしそれは単なる混乱ではない。ダリは夢や無意識の論理を高度な技術によって視覚化する。徳田のいうイメージのダイナミックスを最も劇的に示す例である。

18.創造とは心のエネルギー変換

本書には一つの大きな流れがある。最初に自己像があり、次に時間と空間があり、夢と恐怖があり、性愛と欲望があり、最後に現実を超えた幻想世界へと進む。徳田が描こうとしているのは、芸術家の精神が内面から外部へ拡大していく過程である。自己についての不安が自画像になる。記憶が時間表現になる。恐怖が怪物になる。性的欲望がエロティックなイメージになる。夢が幻想世界になる。そして、それらが造形的秩序を与えられた時、個人的な心理体験が他人にも共有可能な芸術作品となる。ここに徳田が考える創造の核心がある。

本書が言いたかったこと

芸術作品は単に美しいものを作る技術から生まれるのではない。作品の背後には、常に人間の精神の運動がある。人間は自分が何者なのかを問い、不安を抱き、死を恐れ、性愛に引きつけられ、夢を見、現実には存在しない世界を想像する。その精神内部の動きがイメージを作る。しかし、心の中にイメージが生じただけでは芸術にはならない。創造とは、その混沌とした精神的エネルギーを形あるものへ変換する能力だからである。恐怖をそのまま恐怖として吐き出すのではなく、叫びのような視覚的構造へ変える。自分への不安をそのまま抱えるのではなく、シーレの自画像のような身体像へ変換する。夢の不可解さをそのまま放置するのではなく、ダリのように精密な画面へ組織する。ここに芸術家特有の能力が存在する。したがって本書の題名にある芸術を創造する力とは、人間の内部にある不安、欲望、死への恐怖、幻想といった、時xcには破壊的でさえある精神的エネルギーを、他者が見ることのできるイメージへ変換する力である。この意味で徳田は、精神の正常と異常を単純に切り分けない。夢を見ることも、恐怖を抱くことも、性的幻想を持つことも、現実には存在しないものを想像することも人間精神の一部である。その力が制御不能になれば精神病理へ近づく場合がある一方、一定の形式と秩序を与えられれば芸術創造の源泉にもなり得る。芸術と精神病理は同じものではない。しかし両者は、ともに人間の心が通常の現実を超えてイメージを作り出す能力と深く関係している。徳田が精神科医として芸術を研究し続けた理由もここにある。芸術作品を理解することは、芸術家個人の病気を診断することではない。作品を通して、人間という存在がどのように自己を形成し、不安を処理し、欲望を変換し、死を受け止め、現実を超える世界を想像してきたのかを理解することである。本書は美術評論である以上に、人間はなぜ創造するのかを精神医学、心理学、美術の交差点から考えた人間論である。

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