セザンヌのエチュード

Études cézanniennes
2006年(日本語版2009年)刊
Jean-Claude Lebensztejn著

著者とセザンヌの経歴

ジャン=クロード・レーベンシュテイン(1942年生)はフランスの美術史家であり、パリ第1大学(パンテオン=ソルボンヌ大学)名誉教授を務めた研究者である。伝統的な美術史の様式分類だけに依存せず、作品の細部、言葉、文学、社会的背景、芸術家自身の発言などを横断しながら作品を分析する独自の研究で知られる。その研究方法の特徴は、最初から一つの大きな理論を作品に当てはめるのではなく、一見些細に思える言葉や造形上の違和感から出発する点にある。本書でも、なぜセザンヌは完成度の高い自らの絵をエチュードと呼んだのかという小さな疑問から、セザンヌの芸術観全体へと考察を広げていく。レーベンシュテインにとって美術史とは、完成した作品に権威ある解釈を与える学問というより、作品の中に残された矛盾や不可解さを追跡する営みである。本書が通常のセザンヌ入門書とは大きく異なる理由もここにある。

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)は1839年、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。銀行家となった父の希望に従って一時法律を学ぶが、画家になる意志を捨てず、1861年にパリへ出た。幼少期からの親友には、後に自然主義文学を代表する作家となるエミール・ゾラがいた。初期のセザンヌは暗い色彩と激しい筆触による人物画や幻想的作品を制作した。その後カミーユ・ピサロとの交流を通じて戸外制作を行い、印象派の光と色彩の表現を吸収する。しかしセザンヌは、刻々と変化する光を捉えることだけには満足しなかった。自然の背後にある持続的な構造を絵画として成立させることを追求していった。その造形思想は後のピカソやブラックによるキュビスムをはじめ、20世紀美術に決定的な影響を与えた。1906年、戸外制作中に悪天候に遭い体調を崩し、同年10月23日に67歳で死去した。生前には理解されない時期が長かったが、晩年から死後にかけて評価は急速に高まり、近代美術の方向を決定した最重要画家の一人となった。

本書の内容

1.精力絶倫なるセザンヌ

本書の第一の特徴は、セザンヌを最初から近代絵画の父という完成された巨匠として扱わないことである。レーベンシュテインは、セザンヌをめぐって残された言葉、逸話、文学的資料などを検討し、後世によって作られた厳格で禁欲的な芸術家像の背後に、もっと複雑で矛盾した人間が存在したことを明らかにしていく。そこには欲望があり、攻撃性があり、ユーモアがあり、恐怖があり、女性への複雑な感情がある。セザンヌの芸術を理解するには、後世の美術史が作り上げた孤高の巨匠という神話を一度取り払わなければならない。重要なのは私生活上の逸話ではない。画家の身体感覚、欲望、不安、記憶などが、作品の造形と切り離せない可能性をレーベンシュテインは示そうとする。

2.消えない記憶

本書ではセザンヌの若い時代の文章や文学的教養も重要な研究対象となる。若きセザンヌにとって文学と絵画は完全に分離したものではなかった。ゾラとの友情に象徴されるように、彼は文学的想像力に満ちた青年であり、古典文学、ロマン主義、同時代文学などの影響を受けていた。レーベンシュテインはセザンヌに関係するテキストを文献学的に検討し、それらがいつ書かれたのか、どのような記憶や文化的背景を反映しているのかを考察する。ここから浮かび上がるのは、純粋に見ることだけから絵画を作った画家ではなく、言葉と記憶とイメージを内部に大量に蓄積したセザンヌである。

3.忘れられた発想源

セザンヌについては、自然を直接観察し、自らの眼だけを信じて絵画を作った画家というイメージが強い。しかしレーベンシュテインは、その単純な理解を修正する。セザンヌは自然だけを見ていたのではない。過去の巨匠の作品、ルーヴル美術館、版画、文学、同時代の画家たちなど、多様な視覚文化を吸収していた。自然に忠実であることと美術史から学ぶことは彼にとって矛盾しない。セザンヌはヴェロネーゼやルーベンスなどの巨匠を研究することを若い画家にも勧めていた。しかし、それを単なる模写として行うのではなく、あたかも自然を研究するのと同じように巨匠を研究する。自然も過去の絵画も、彼にとっては見るべき対象であり、そこから新しい絵画を生み出すための研究対象だった。

4.エチュードとは何だったのか

本書の核心がセザンヌのエチュードという論考である。通常、美術におけるエチュードとは、本作品を制作する前段階の習作や研究を意味する。完成作品が最終目的であり、エチュードはそこへ至る準備段階である。ところがレーベンシュテインがセザンヌの書簡を調べると、特に晩年の十年間、セザンヌは自分の作品を非常に頻繁にétudeと呼んでいる。これは単なる言葉遣いではない。セザンヌにとって絵画とは、自然について最終的な結論を示す行為ではなく、自然を見ることを継続する行為だったからである。彼は1906年、息子への手紙の中で、同じ場所にいても少し右を向いたり左を向いたりするだけで異なるモティーフが現れ、何か月でも研究できるという趣旨を述べている。自然は一つの視点によって完全に把握できる対象ではない。見る位置が変われば関係も変わり、光が変われば色も変わる。したがって一枚の絵によって自然を完成させることなど本質的には不可能なのである。

5.完成作品と習作の境界が消える

ここからレーベンシュテインは非常に重要な問題へ進む。伝統的な西洋絵画では、エスキースやエチュードは最終的な完成作品へ向かう途中の段階だった。アカデミズムにおいて画家は習作を重ね、それを基礎として完成されたタブローを制作する。しかしセザンヌでは、この階層関係が崩れていく。エチュードが永遠に続くのであれば、最終的完成作品は存在しなくなる。セザンヌ晩年の絵には、キャンバスの地が残っていたり、描き込まれていない部分が存在したりする。それを単なる未完成と見ることはできない。その空白はセザンヌの能力不足や制作中断の結果ではなく、彼の絵画観と関係している。自然を見るという行為に終点がない以上、絵画にも絶対的な完成は存在しない。

6.自然に従うとはどういうことか

セザンヌは自然を極めて重視した。しかし彼は自然を写真のように再現しようとした訳ではない。彼の有名な考え方に、芸術とは自然と平行する調和を作るものだという発想がある。ここにセザンヌの重要な矛盾がある。自然に従わなければならない。しかし絵画は自然そのものではない。自然には奥行きがあり、絵画は平面である。自然は時間とともに変化するが、絵画は一つの画面として固定される。したがって画家は自然をコピーするのではなく、色彩、形態、筆触、画面構成によって、自然に対応する別の秩序をキャンバス上に作らなければならない。この困難な課題を解決するために、セザンヌは生涯エチュードを続けた。

7.ロマン主義から近代絵画へ

レーベンシュテインは、セザンヌのエチュードという考え方を19世紀美術全体の歴史の中にも位置づける。ロマン主義以降、完成作品、エスキース、習作の境界は次第に曖昧になっていった。画家の直接的な筆触や制作過程に価値が認められるようになった。印象派はその傾向を更に進めた。セザンヌはこの流れを極端な地点まで押し進める。作品を完成させることより、見ることと、描くことを持続させることに価値を置く。この意味でレーベンシュテインは、セザンヌを単なる印象派以後の画家ではなく、ロマン主義以来続いてきた未完成の問題を近代絵画へ決定的に引き渡した存在として捉えている。

8.追いつき追い越せ

本書最後の論考は、セザンヌと他の画家との関係を考察する。セザンヌはピサロから多くを学んだ。とりわけ1870年代、ピサロとの共同制作を通して明るい色彩や戸外制作を身につけた。しかしセザンヌにとって他人から学ぶことは、その画家の様式に従属することではなかった。模倣しながら差異を発見し、その差異を拡大することによって、自分自身の絵画を作っていく。過去の巨匠に対しても同様である。ルーヴルで古典を研究する一方、それをそのまま再現するのではなく、自らの感覚によって再構成した。したがってセザンヌにとって美術史とは、崇拝するだけの過去ではない。追いつき、対話し、最終的には乗り越えるべき巨大な研究対象である。

9. 20世紀美術の出発点

以上の議論を通して、レーベンシュテインはセザンヌの近代性を単純な形態の幾何学化だけに求めない。確かにセザンヌの造形はキュビスムへ大きな影響を与えた。しかし、より根本的な革新は、作品というものに最終的完成が存在するという伝統的な考えを揺るがしたことにある。描くとは答えを出すことではなく、見ることを続けることである。一枚の作品とはその最終回答ではなく、その時点における一つのエチュードである。この発想によって絵画は、完成された世界を提示するものから、世界を認識し続ける過程へと変化する。そこにこそ、セザンヌがピカソ、ブラック、マティスをはじめとする20世紀の画家たちに決定的な影響を及ぼした根本的理由がある。

本書が言いたかったこと

完成した芸術作品とは何か。通常我々は、美術館に展示されているセザンヌの絵を完成された名作として見る。しかしセザンヌ自身は、少なくとも晩年、自分の絵画を繰り返しエチュードと呼んだ。そこには単なる謙遜以上の意味がある。セザンヌにとって自然は、一度見れば理解できるものではなかった。同じ山、同じ木、同じリンゴであっても、見るたびに違って現れる。だから彼はサント=ヴィクトワール山を何度も描き、同じような静物を何度も配置し、水浴する人物という主題を何十年にもわたって追究した。重要なのは完成させることではなく、見ることをやめないことだった。ここからセザンヌの革新性について別の姿が見えてくる。彼は完成された新様式を発明したから近代絵画の父になったのではない。むしろ絵画が最終的に完成できるという考えを疑う地点まで進んだからこそ、近代絵画の出発点となった。レーベンシュテインが描くセザンヌは、すべてを理解した巨匠ではない。自然を前にして最後まで分からないものを抱え、描き続けることでそこに留まり続けた画家である。したがって本書のエチュードという言葉には、単なる習作以上の意味が込められている。それはセザンヌにとっての絵画であり、世界を完全には理解できない人間が、それでも見ること、考えること、描くことを続ける行為である。セザンヌの偉大さとは、完成された答えを残したことではない。永遠に完成しない問いを絵画として残したことにある。それこそが本書から浮かび上がるセザンヌ像である。

未来の輪郭