会沢正志斎の新論

目次

幕末日本を動かした国家危機論

1.新論はなぜ書かれたのか

会沢正志斎(1782–1863年)は水戸藩の儒学者である。「新論」は1825年(文政8年)に成立した後期水戸学の代表的著作であり、後世の尊王攘夷を体系化した最重要文献の一つである。元々は倒幕論ではなく、外国勢力の接近という危機を利用して、天皇を精神的中心としながら幕藩体制を立て直し、日本を強い国家に再編しようとした国家改革論であった。「新論」が書かれた直接的背景には、西洋列強の東アジア進出がある。1824年には水戸藩領の大津浜(※茨城県北茨城市大津町付近)にイギリス人が上陸する事件が起こり、会沢自身が対応に関与した。翌1825年、幕府は異国船打払令を出す。会沢は、西洋諸国の接近を単なる海防問題ではなく、日本という国家が存続できるかという文明的危機として捉えた。そのため新論は単純な外国人を追い払えという攘夷論ではない。外国の侵入に耐えられるよう、政治、軍事、経済、思想、宗教、国民意識を一体として再構築しようとする、かなり包括的な国家論である。

2.国体

新論の最も重要な概念が国体(国家をまとめる中心としての天皇)である。会沢は、日本の強さの根源を、古代から天皇を中心として国家が連続してきたことに求めた。天皇を頂点として忠孝の倫理が社会全体を貫き、武を尊び、民の生活を安定させることによって国家は強固になると考えた。新論は国体(上・中・下)、形勢、虜情、守禦、長計の五論七篇から構成されている。ここで注意すべきなのは、会沢が直ちに天皇親政や倒幕を主張した訳ではないことである。むしろ天皇-将軍-大名-藩士という秩序を維持しながら、その頂点にある天皇への尊崇によって国家全体を精神的に統合するという発想であった。したがって、本来の新論は尊王倒幕ではなく、むしろ尊王敬幕に近い思想であった。

3.形勢

会沢の興味深いところは、日本国内の儒学的秩序だけを論じているのではなく、世界情勢をかなり強く意識していたことである。西洋諸国は航海術、軍事力、通商を利用して世界各地へ進出している。このまま日本が太平の眠りを続ければ、いずれ西洋列強の圧力を受けることになる。会沢は、ペリー来航の28年前に、西洋を中心とした世界的な勢力拡張の波が日本にも到達すると警告していた。この点では、新論は単なる保守的な儒学書ではなく、幕末以前の早い段階で書かれた地政学的な国家安全保障論という側面を持っている。

4.虜情(西洋の本当の脅威)

会沢が特に警戒したのは、西洋の軍事力だけではなかった。むしろ重要なのは思想・宗教・通商を通じた民心の侵食である。西洋諸国はキリスト教や通商を利用して人々の心を引きつけ、社会内部に影響力を拡大し、最終的には国家を支配する可能性があると会沢は考えた。現代的に言い換えれば、軍事侵略以前に思想・文化・経済による浸透が起こることを恐れた。そのため外国に対抗するには大砲や軍艦だけでは不十分であり、国民自身が自分は何者で、何のために国家を守るのかという共通意識を持たなければならない、と考えたのである。

5.守禦(攘夷とは実際には富国強兵)

ここが新論を理解する上で重要である。攘夷という言葉だけを見ると、外国船を武力で追い払う思想のように見える。しかし会沢の議論を詳しく見ると、それだけではない。外国に対抗するためには、軍備を充実させ、海防を強化し、経済力を高め、民衆の生活を安定させ、人材を育成しなければならない。つまり、尊王→国民統合→民生安定→富国→強兵→外国からの独立という一連の国家戦略である。この意味では、後の明治政府が掲げた富国強兵とかなり近い問題意識が、既に1825年の新論に現れている。慶應義塾大学の解説も、新論が内外の危機を克服し富国強兵を実現するため、人々の心をまとめる手段として尊王と攘夷を主張したものと説明している。

6.長計(民衆の心をまとめること)

会沢が最終的に行き着いた問題は、軍事でも経済でもなく、民心の統合であった。どれほど武器を揃えても、国民が国家への帰属意識を失えば外国勢力に対抗できない。そこで会沢は、天皇を祭祀の中心として神道的伝統を国家統合に利用することを考える。ここには儒教、神道、歴史意識、政治思想が融合している。この発想は後世に大きな影響を与えた。新論の民衆の宗教意識を天皇を祭主とする国家的祭祀へ取り込もうとする構想は、近代天皇制思想の原型の一つと位置づけられる。

7.なぜ新論が幕末の志士を動かしたのか

興味深いのは、会沢自身の意図と歴史的結果が大きく異なったことである。会沢は幕府を倒そうとして新論を書いたのではない。むしろ天皇の権威を精神的中心として利用することで、幕府を含む既存の政治秩序を再強化しようとしていた。ところが新論は当初公刊されず、写本によって全国へ広がった。そして幕末になると、吉田松陰ら尊王攘夷派の志士たちに読まれるようになる。そこで論理が変化する。日本の最高権威は天皇であるという新論の論理を突き詰めれば、では、外国に屈服する幕府は天皇の意思に反しているのではないかという疑問が生じる。更に、尊王→攘夷→幕府批判→尊王倒幕→王政復古という方向へ思想が展開していった。これは会沢が当初意図した結論ではない。新論は幕府を救うために書かれた思想書でありながら、結果として幕府を倒す思想的武器の一つになったという歴史的逆説となる。

新論が本当に言いたかったこと

新論を単に尊王攘夷を唱えた本と理解すると、その思想の半分しか見えない。会沢が本当に恐れていたのは外国船そのものではなく、外圧によって国内社会が分裂し、日本が国家として自立できなくなることであった。したがって彼の答えは、外国人を追い払えだけではない。天皇という歴史的・精神的権威を中心に国民を統合し、民生を安定させ、経済力と軍事力を強化し、西洋列強に依存しない国家を作れ、というものであった。現代的な言葉に置き換えるなら、新論とは外国の軍事・経済・宗教・思想的浸透に対抗するためには、国家としてのアイデンティティーを確立し、経済・軍事・社会を総合的に強化しなければならないという国家安全保障論である。1825年という早い時期に外圧への対応には軍事だけでなく、経済、民生、教育、思想、国家統合まで必要であると考えた点こそ、新論が幕末思想史において特別な位置を占める理由である。なお、新論は後期水戸学を理解する上で、藤田幽谷・藤田東湖、更に吉田松陰へと続く思想の流れの中で読むと非常に面白い。とり訳幕府を守るための尊王論が、なぜ尊王倒幕論へ反転したのかという視点から見ると、明治維新の思想的メカニズムがかなり鮮明に見えてくる。

会沢正志斎による欧米列強の認識 

会沢正志斎は欧米を単純に野蛮で弱い国と見下していた訳ではない。思想上は夷狄と蔑視しながら、現実の国際政治では日本よりはるかに強く、世界を植民地化しつつある恐るべき勢力と認識していた。 この理念上の蔑視と現実上の恐怖が同居していることが、新論の対外認識の核心である。

1.欧米列強は世界支配勢力

新論の虜情で会沢は、西洋勢力について西夷之跋扈海上、幾三百年矣と述べる。すなわち、西洋人は約300年間にわたって海上を跋扈し、その領土を拡大し続けてきたという認識である。重要なのは、会沢が西洋の海外進出を偶発的な通商活動とは考えていなかったことである。彼の目には、ポルトガル、スペイン、イギリスなどの活動は、通商→キリスト教布教→現地住民の懐柔→国内分裂→軍事介入→領土支配という一連の国家戦略として映っていた。したがって外国船が日本にやって来て貿易をしたいと言っても、それを額面どおりに受け取ってはならないと考えた。新論では、欲傾人国家、則必先因通市而窺其虚実と述べている。つまり他国を倒そうとする場合、まず通商を通じてその国の内情と弱点を探るというのである。これは今日の言葉でいえば、会沢は欧米列強を帝国主義的な複合戦略を行う国家と理解していたことになる。

2.最大の武器は大砲ではなくキリスト教

更に特徴的なのがキリスト教への警戒である。会沢は西洋列強が世界で勢力を拡大できた理由を考え、軍事力や政治制度だけに答えを求めなかった。彼はかなり極端に、西洋諸国が世界を支配する最大の武器はキリスト教であると考えた。虜情では、西洋人が頼みとしているものは独り一耶蘇教あるのみとまで述べている。もちろんこれは現在から見れば西洋帝国主義を過度に宗教中心に説明した議論である。しかし、彼が着目した軍事征服の前に、人々の価値観や忠誠心を変えるという発想は重要である。会沢は、宣教師が人々をキリスト教に改宗させれば、民衆の忠誠対象が日本の君主や伝統的秩序からキリスト教へ移ると考えた。その後で外国軍が来れば、内部から外国勢力に協力する者が現れる。したがって彼にとって国家安全保障とは、海岸に大砲を並べるだけではなく、外国による思想・宗教・文化的浸透から民心を守ることまで含んでいたのである。新論は、西洋の脅威を軍事侵略以上に、キリスト教と通商による民心の動揺として捉えていた。

3.欧米実力の冷静な判断

ここに会沢の思想の矛盾と面白さがある。儒学的世界観では西洋人を夷狄と呼んでいるが、現実の国際情勢については、夷狄だから大したことはないとは考えていなかった。むしろ正反対である。日本人が外国船など商船や漁船にすぎない。大した災いにはならないと油断していることを強く批判し、兵法を引いて、敵が来ないことを期待するのではなく、来ても撃退できる国を作らなければならないと説いている。会沢の危機感は、西洋人は野蛮だから怖いという単純なものではなく、我々は西洋を夷狄と呼んでいるが、現実にはその夷狄が世界各地を征服しており、日本もその対象になりつつあるというところから生まれている。

4.ロシアを巨大な脅威として見ていた

1825年当時の会沢の世界認識では、現代のようにアメリカが最大の脅威だった訳ではない。むしろ非常に重要なのがロシア帝国である。会沢はロシア、オスマン帝国、清を世界的大国として捉え、とり訳ロシアの拡張を警戒した。会沢はロシアを古代中国を最終的に統一した秦になぞらえ、将来的に世界的覇権を狙う勢力として考えていた。またイギリスやスペインについても、植民地を持つことによって貴金属や資源の面で日本より優位にあることを認識していた。したがって会沢の世界観には、既に一種の地政学的な勢力均衡論が存在していたと見ることができる。

5.アメリカをどう見ていたのか

ここは特に面白い。新論にはアメリカへの直接的な言及があり、会沢は当時のアメリカをそれほど高く評価していない。彼は地球が球形であること自体は認識していたが、その上に伝統的な華夷思想を重ね合わせ、日本を世界の上位に置き、西洋を下位に位置づけた。その中でアメリカを世界の後方に位置する国として論じている。英訳研究でもこのアメリカ観が確認できる。これは当然、現在のアメリカ像とはまったく違う。新論が成立した1825年はアメリカ独立からまだ半世紀ほどしか経っていない。ペリー来航は28年後の1853年である。したがって会沢にとって切迫した脅威は、ロシア>イギリスなど欧州海洋国家>新興国アメリカという感覚に近かった。皮肉なのは、会沢が相対的に軽視したアメリカが、その約30年後にペリー艦隊を送り込み、日本の開国を決定的に促したことである。

6.西洋文明を否定していた訳ではない

更に重要なのは、会沢の攘夷は西洋文明の技術をすべて拒絶する思想ではなかったことである。外国に勝つためには、西洋の軍事技術を研究し、海防を強化し、経済を豊かにし、軍備を整えなければならない。西洋の思想的支配は拒絶するが、西洋の強さの原因は研究し、その技術や知識は利用するという考え方である。これは後の幕末日本の和魂洋才や明治政府の富国強兵へつながっていく重要な発想である。西洋についての知識が会沢の伝統的な文明/夷狄観そのものを変化させ、日本と中国、西洋との関係を再定義する契機になった。

7.会沢が最も恐れていたもの

したがって、新論における欧米認識を一言で排外主義と片付けると、本質を見失う。会沢が本当に恐れていたのは、欧米の軍艦ではなく、欧米列強が軍事・通商・宗教・情報を組み合わせながら世界各国を内部から弱体化させ、最終的に支配下に置いていく力であった。だからこそ対抗策も軍備だけではない。国体による国家統合+民心の安定+経済力+軍事力+西洋研究が必要だと考えた。この観点から読むと、新論は非常に興味深い著作である。会沢の西洋観には明らかな偏見やキリスト教への過剰な敵視がある一方、世界秩序が変わり、日本もその巨大な変化に巻き込まれるという危機については、ペリー来航の約30年前にかなり正確に察知していた。そしてこの点こそ、後期水戸学を単なる尊王攘夷思想としてではなく、19世紀初頭の日本人による最初期の世界戦略論・国家安全保障論の一つとして読み直すと面白いところである。

会沢正志斎の現代への遺稿

 会沢正志斎の「新論」からは、欧米人は一神教のキリスト教よって動かされ、人間は神の国をこの地上に作ることを理想として、人間の力を過信した人々であると、理解していたことが明確に読み取れる。そしてその真意は、欧米人はいずれその論理に自ら絡め取られて、必然的に自滅すると見通していた。会沢の論理を現代のアメリカに適用した場合、英国の凋落も、米国の歴史的転落も必然であると言えよう。

1.会沢が見抜いた西洋の強さと弱さ

新論の虜情は非常に印象的である。会沢は、西洋諸国が約300年間にわたって海上に跋扈し、領土を拡大してきたのは、彼らの知勇が人間離れして優れているからでも、政治が特別に仁政だからでもない。そして結論として、彼らが依拠している最大の力をキリスト教に求めた。実際、新論は彼其所恃以逞伎倆者、独有一耶蘇教而已、すなわち彼らがその力を発揮するために頼るものはただ一つ、キリスト教であると述べている。ここで重要なのは、会沢がキリスト教を単なる宗教として見ていないことである。彼の理解では、キリスト教には異なる民族に共通の価値観を与え、人々の心を統合し、その共通理念の下で巨大な政治的・軍事的行動を可能にする力がある。したがって会沢は、西洋の強さを大砲の強さ以上に、普遍的理念によって人間を組織する能力に見ていた。

2.自分たちの価値観を他国にも適用する

会沢は西洋列強について、まず通商によって相手国の内情を探り、攻略可能なら軍事力を用い、それが難しければ宗教を広めて民心を動かし、内部から社会を変化させると考えた。しかも重要なのは、彼らが単純な略奪者として侵略するのではないということである。会沢は兼愛之言を借りて他国を呑み込む、と批判している。つまり西洋人は、われわれは善を行っている人々を救っている普遍的に正しいことを広めているという論理によって自己正当化しながら勢力を拡大する、と見ていた。ここには、現代のアメリカを考えるうえで非常に刺激的な視点がある。

3.キリスト教から民主主義という普遍宗教へ

会沢の分析をそのまま21世紀に適用することはできないが、構造だけを取り出してみると、驚くほど現代的である。19世紀のキリスト教を、20-21世紀の民主主義、自由、人権、市場経済、法の支配という普遍的価値に置き換えてみると分かりやすい。第二次世界大戦後のアメリカは、自国の政治制度を単なるアメリカ固有の制度とは考えなかった。自由民主主義は人類普遍の価値であり、市場経済は最も合理的な経済制度であり、人権は国境を越えて保障されるべきである、という思想を持った。もちろん、これらの理念には大きな価値がある。問題は、それをすべての社会が最終的に到達すべき普遍的な制度と考えたことである。ここから会沢的な問題が発生する。

4.相手を自分と同じ社会にする思想

冷戦終結後のアメリカ外交には、とり訳この傾向が強く現れた。独裁国家を民主化すれば平和になる、市場経済を導入すれば豊かになる、自由な制度を導入すれば親米国家になるという発想である。その典型がアフガニスタンやイラクであった。軍事的に政権を倒すこと自体には成功しても、その後に西欧型の民主国家を構築しようとすると、部族、宗派、宗教、歴史、民族、地域共同体など、その社会固有の秩序と衝突した。ここを会沢的に言い換えれば、自分たちの道を普遍的な道と考え、異なる文明をその論理に合わせて作り替えようとしたということになる。

5.自分自身も普遍主義に拘束される

他国を普遍的理念によって改造しようとすると、やがてその理念が自国自身を拘束するようになる。自由を掲げれば、なぜ自国と同盟国の行動には例外を認めるのかという問題が生じる。人権を掲げれば、外交上必要な権威主義国家との協力との矛盾が生じる。民主主義を掲げれば、民主的選挙によって反米政権が成立した場合にも、その結果を尊重しなければならない。民族自決を認めれば、それをどこまで適用するのかという問題が生じる。普遍的理念を外交政策の根拠にすればするほど、現実政治との矛盾が蓄積する。これはまさに、自分の論理に絡め取られる。

6.最大の問題は自己矛盾

したがって、会沢的な視点から現在のアメリカを見るなら、単純なアメリカ帝国主義批判とは少し違った結論になる。アメリカが衰退するとすれば、その原因は悪い国だからではない。むしろ逆説的に、自らの理念を普遍的に正しいと信じる力があまりにも強かったため、それを世界に拡張しすぎ、その理念と現実の国益との矛盾を処理できなくなることに問題がある、と考えられる。この構造は非常に重要である。理念によって世界を動かす力は、覇権国家の強さであると同時に弱さにもなる。

アメリカ再生の道

会沢は西洋文明を全面否定した訳ではない。むしろ西洋の軍事技術や国家組織の強さを学びながら、日本は日本固有の国体を守るべきだと考えた。新論自体が、西洋との直面を避けられない状況で、日本の安全保障と国家再建を考えた政策提言書であった。これを逆にアメリカへ適用すると興味深い。アメリカが、世界をアメリカ化する国家から、アメリカ自身の共和政を維持しながら、異なる文明が異なる価値体系を持つことを認める国家へ転換できれば、会沢的な意味での自滅を回避できる可能性がある。中国をアメリカ化しようとせず、イスラム世界を西欧化しようとせず、ロシアを自由民主主義国家に改造しようとせず、それでも軍事・経済・技術面では自国の力を維持する。これは普遍主義的覇権国家から多文明世界における最強国の一つへの転換である。したがって、アメリカの没落は必然であるという結論より、なぜ覇権国家の理念が、その覇権国家自身を弱体化させ得るのかという問題として捉えると非常に示唆に富む。会沢は1825年、西洋の最大の力を軍艦や大砲だけに見ず、自らの価値を普遍的真理と信じ、それによって人々の心を統合し、更に他国までその原理の中へ組み込んでいく力に見た。その洞察を200年後に反転してアメリカ自身へ向ければ、次のような命題になる。普遍的理念は覇権を生み出す。しかし自国の理念を世界と同一視した瞬間、その理念を維持するための介入が膨張し、現実との矛盾が蓄積し、やがて覇権国自身を拘束する。その意味では、会沢正志斎の新論は単なる尊王攘夷の古典として読むよりも、なぜ普遍主義を掲げる帝国は強大になり、そしてなぜその普遍主義によって限界に直面するのかという観点から読み直すと、現代アメリカを考察するための意外に強力な思想的レンズになる。

新論から尊王倒幕へ(付記)

1.幕府守護が倒幕に反転した理由

水戸学の歴史には大きな逆説がある。藤田幽谷から会沢正志斎、藤田東湖へ受け継がれた尊王論は、本来、徳川幕府を否定する思想ではなかった。むしろ天皇の権威を頂点に置くことで、将軍、大名、藩士、民衆という既存の秩序を再統合し、内憂外患に耐えられる国家を作ろうとする幕藩体制再建論であった。それが幕末には吉田松陰らに受け継がれ、最終的には尊王倒幕、王政復古へ向かっていく。なぜそのような反転が起きたのか。最大の理由は、幕府の権威より天皇の権威が上位にあるという原理を水戸学自身が強化した結果、幕府が国家を守れなくなった瞬間、その原理が幕府を裁く論理へ変わってしまったことにある。

2.藤田幽谷

後期水戸学の思想的出発点となったのが藤田幽谷(1774-1826年)である。幽谷は1791年の正名論などを通じて、儒学の正名(君臣上下の名分を正すこと)を重視した。幽谷にとって日本の政治秩序の頂点に存在するのは天皇である。しかし、だからといって将軍の存在が否定される訳ではない。将軍は天皇から政治を委任された存在である。したがって、天皇→将軍→大名→藩士→民という上下秩序がそれぞれ正しく機能することこそ重要であった。水戸学の尊王論では、各階層の者が直接の上位者へ忠誠を尽くすことが基本であり、尊王はむしろこの階層秩序を維持する思想であった。最初の水戸学には、天皇を尊敬するから幕府を倒すという発想はない。むしろ、天皇を最高権威として尊ぶからこそ、その下で将軍にも忠誠を尽くすのである。これが後に大きな矛盾を生み出すことになる。

3.会沢正志斎の新論

藤田幽谷の思想を国家論として大きく発展させたのが弟子の会沢正志斎である。1824年の大津浜異人上陸事件を経験した会沢は、翌1825年に新論を書いた。新論は、欧米列強の進出に対抗するため、国民統合、民生、軍事、経済、思想を総動員して日本を強化することを論じている。ここで幽谷の尊王論に重要な変化が起こる。天皇は単なる儒学的な君臣関係の頂点ではなく、日本という国家を統合する精神的中心として位置づけられるようになった。会沢の論理を簡略化すれば、外国の脅威→日本を一つにまとめなければならない→日本をまとめる最高の原理は天皇である→天皇を中心として国民を統合するとなる。しかし会沢自身は倒幕論者ではない。新論は徳川政治を肯定しており、倒幕や王政復古を展望した著作ではなかった。むしろ幕藩体制を再建し、強化することが目的であった。会沢は幕府を守るために天皇の権威を強化した。ところが、そのことが後に幕府を倒す論理を準備してしまった。

4.藤田東湖

次に重要なのが藤田幽谷の子、藤田東湖(1806-1855年)である。東湖は単なる学者ではなく、徳川斉昭の側近として水戸藩政改革を実際に進めた政治的人物であった。弘道館の設立などにも関与し、その思想は弘道館記述義に集約されている。そこでは敬神崇儒、尊王攘夷、忠孝無二、文武不岐、学問と実践の一致など、後期水戸学の思想が体系化された。ここで水戸学は、歴史研究→国家論→政治改革論へと進んでいく。特に重要なのが学問と事業の一致である。正しい思想を持っているだけでは意味がない。それを現実の政治で実行しなければならない。この思想を若い武士たちが受け取れば、当然、尊王が正しいなら尊王を実行せよ、攘夷が正しいなら攘夷を実行せよという政治運動へ向かう。藤田東湖の段階で、水戸学は思想から行動へ踏み出すためのエネルギーを持ち始めたのである。

5.ペリー来航

決定的な転換点が1853年のペリー来航である。それまでの水戸学では、天皇=最高の権威、幕府=天皇の下で政治を担当する実際の政府という二重構造を両立させることができた。なぜなら幕府が外国から日本を守っている限り、両者は矛盾しなかったからである。ところがペリーが来航する。幕府は欧米諸国との軍事力の差を認識し、1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約へと進んだ。ここで水戸学の論理から重大な疑問が生じる。幕府は本当に日本を守っているのかという疑問である。後期水戸学の尊王攘夷論は当初、既存の政治体制を再編・強化するための思想だったが、ペリー来航後、幕府が開国へ向かうにつれて、朝廷を政治統合の中心へ押し上げ、攘夷を実行しない幕府を批判する思想へ変化していった。ここから思想の反転が始まる。

6.幕府守護の論理が倒幕の論理へ

ここが最も重要なところである。元々の論理は、天皇→将軍→大名→武士であった。したがって将軍への忠誠は、最終的には天皇を頂点とする国家秩序への忠誠でもあった。しかし逆に考えることもできる。将軍の権威が天皇より下位にあるなら、将軍が天皇の意思に反した場合、どちらに従うべきなのかという問題が発生する。答えは水戸学の論理から導かれてしまう。天皇である。幕府が朝廷の意向を十分に得ないまま外国と条約を結び、しかも攘夷を実行できないとなれば、幕府に従うことと天皇に従うことが一致しなくなる。この瞬間、それまで隠れていた水戸学内部の矛盾が表面化したのである。尊王=佐幕(※幕府をたすけること)だったものが、尊王か、佐幕かという二者択一へ変わってしまった。

7.吉田松陰

ここに吉田松陰(1830-1859年)が登場する。松陰は1851年、水戸を訪れ、会沢正志斎らと交流しており、水戸学から大きな刺激を受けた。会沢の思想が藩外へ広がる過程では、松陰をはじめ全国から会沢を訪れる者が現れた。しかし松陰は水戸学をそのまま受け継いだ訳ではない。会沢にとって最終目的は幕藩体制の再建であった。しかし松陰の関心は次第に、徳川幕府をどう守るかではなく、日本という国家をどう守るかへ移っていく。ここには重要な飛躍がある。藩への忠誠より日本への忠誠、幕府への忠誠より天皇を中心とした国家への忠誠を上位に置けば、幕府が国家防衛の障害になった場合、幕府を批判することが可能になる。こうして水戸学から生まれた尊王思想は、幕府という政治組織を超えていった。水戸学が吉田松陰らに影響を及ぼし、明治維新の思想的推進力となっていったことは研究上も重視されている。

8.安政の大獄

更に決定的だったのが1858年以降の政治対立である。大老井伊直弼のもとで幕府は日米修好通商条約を締結し、それに反対する勢力を安政の大獄で弾圧した。ここで尊王派から見る幕府の姿は大きく変わった。それまでは、外国から日本を守る幕府だった。ところが、外国と条約を結び、天皇の意思を軽視し、それに反対する尊王派を弾圧する幕府になった。これによって尊王と佐幕の分離は決定的になっていく。更に1860年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、幕府の政治的権威が大きく揺らぐ。

9.最大の皮肉

この歴史の面白さを象徴しているのが、晩年の会沢正志斎自身である。尊王攘夷運動が過激化すると、会沢はむしろそれを抑える側へ回った。1858年の戊午の密勅をめぐって水戸藩内が激しく対立すると尊攘激派の鎮圧側に立ち、性急な攘夷論を批判し、時勢から開国はやむを得ないと論じた。これは思想的転向というより、会沢の本来の立場を考えれば一貫している。彼が新論で目指したものは、幕藩体制を壊すことではなく、幕藩体制を強くすることだったからである。ところが若い尊王攘夷派は、新論から天皇、国体、攘夷、国家防衛という部分を取り出し、それを幕府批判へ転用した。会沢の思想から会沢自身が望まなかった革命思想が生まれてしまった。

10.なぜ倒幕論へ反転せざるを得なかったのか

この変化を単純に尊王思想が過激化したと理解するだけでは十分ではない。もっと構造的な理由がある。徳川幕府の政治的正統性は、実際に日本を統治しているという実効性に大きく依存していた。一方、水戸学はその上に天皇という、幕府を超える理念的正統性を置いた。平時には両者は共存できる。幕府が国家を統治し、天皇を尊崇している限り、権威=天皇、統治=幕府という分業が成立する。しかし国家的危機が発生すると、最終的に日本を代表するのは誰なのかという問題が避けられなくなる。そこで水戸学自身が用意していた答えが、天皇である。幕府が外国問題を処理できなくなればなるほど、幕府の実効的正統性は低下する。一方で、水戸学が数十年間かけて強化してきた天皇の理念的正統性は逆に上昇する。この二つが交差したところに明治維新があった。

朱子学と水戸徳川家(付記)

1.特別だった水戸徳川家

尾張・紀州・水戸は御三家である。しかし三家の性格は同一ではなかった。尾張家と紀州家は将軍家に後継者がいない場合の将軍継承候補として特に重要であった。これに対して水戸家は御三家ではあったものの、尾張・紀州より家格・石高とも低く、原則として水戸家から将軍を出す家とは位置づけられていなかった。水戸家当主の極官も権中納言で、尾張・紀州両家の権大納言より低かった。それにもかかわらず、水戸家は別の意味で特別な存在となっていく。その最大の理由が二代藩主徳川光圀である。光圀は「大日本史」の編纂を開始した。この歴史研究を通じて、日本の歴史において正統な君主とは誰なのかという問題が追究される。そこで当然浮上するのが天皇である。将軍は時代によって交代する。しかし天皇は日本国家の歴史的連続性を象徴している。この歴史観が、後の水戸学における尊王思想の基礎となった。

2.朱子学の名分論

徳川家康は戦国時代を終わらせた後、武力だけでは長期的な統治ができないことを理解していた。そのため林羅山ら儒学者を登用し、君臣、父子、上下の秩序を重視する儒学を政治秩序の形成に利用した。林羅山は家康から家綱まで四代の将軍に仕え、将軍への講義だけでなく、儀礼・典礼、法律、外交文書などにも関与した。幕府と朱子学との結びつきは家康期から始まっている。朱子学には名分という重要な考え方がある。君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの立場に応じた役割を果たさなければならない。これを日本の政治秩序に適用すると難しい問題が生じる。日本の君は誰なのか。将軍なのか、それとも天皇なのか。徳川幕府の日常政治では将軍が最高権力者である。しかし将軍は征夷大将軍という朝廷の官職を持ち、朝廷から宣下を受ける。したがって名分論を徹底すると、天皇=究極的な君主、将軍=天皇の下で実際の政治を担当する存在という理解が成立し得る。平時には何の問題もない。むしろ非常に安定した構造である。天皇が権威を担い、将軍が統治を担う。ところが、この仕組には重大な潜在的問題があった。藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖ら後期水戸学は、この名分論を更に発展させた。特に会沢正志斎の1825年新論では、西洋列強の進出という新しい危機が加わる。会沢の発想は、外国勢力が日本に迫っている、幕藩体制のままバラバラでは対抗できない、日本全体を統合する原理が必要である、その中心となり得るのは天皇であるというものであった。重要なのは、会沢は幕府を倒そうとして天皇を持ち出したのではないことである。むしろ逆である。幕府を含む日本全体を強化するために天皇の権威を利用しようとした。したがって本来の水戸学では、尊王=反幕府ではない。尊王+佐幕だったのである。

3.歴史の皮肉

家康は武力だけでなく儒学的秩序を徳川統治に取り入れた。その儒学的名分論が水戸徳川家の歴史研究と結合し、日本の最高の君主は天皇であるという尊王思想へ発展した。更に欧米列強の接近によって会沢正志斎らが、日本という国家全体を天皇の下に統合しなければならないと考えるようになる。ところが幕府が外国勢力に十分対抗できなくなると、天皇の下で日本を守るために存在する幕府が、日本を守れないなら、その統治体制は変更されてもよいという論理が生まれる。そして最後に将軍となったのが、まさに水戸徳川家に生まれ、水戸学的環境の強い影響を受けた徳川慶喜であった。最大の歴史的皮肉は、徳川幕府が外部からまったく異質な思想によって倒されたのではなく、徳川政権が秩序維持のために取り込んだ儒学、その儒学を徳川一門の水戸家が突き詰めて生み出した尊王思想、そしてその水戸家に生まれた徳川慶喜によって、260年以上続いた幕府が政権返上へ踏み切った。幕府を守るための忠と名分を突き詰めていった結果、最後には徳川家への忠誠よりも、その上位にある天皇・国家への忠誠を優先するという結論が導かれてしまった。この自己反転こそ、水戸学と明治維新を理解する上で最も興味深い構図の一つである。

歴史に関する考察

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