絵そして人、時

絵そして人、時
1986年9月刊
麻生三郎著

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麻生三郎の経歴

麻生三郎(1913–2000年)は、東京市京橋区(現・中央区)に生まれた日本を代表する洋画家である。若い頃から洋画を志し、1930年代には梅原龍三郎らの影響を受けながらも独自の写実表現を模索した。戦前にはヨーロッパを旅し、美術だけでなく建築や歴史、文化にも深い関心を寄せ、その経験は後の芸術観の基礎となった。第二次世界大戦を経て、麻生は華やかな表現ではなく、人間存在を問い続ける絵画へと向かう。人物像、裸婦、自画像、室内、窓辺、都市風景など身近な題材を繰り返し描きながら、人間の孤独、不安、死、生の尊厳を静かに見つめる作品を数多く制作した。その画面には派手な物語性はないが、厚い絵肌と重い色調によって、人間が生きることの根源的な重さが表現されている。戦後は自由美術家協会を中心に活躍し、日本の具象絵画を代表する存在となった。評論や随筆も数多く執筆し、単なる画家ではなく、芸術と思索を往復する知識人としても高く評価された。晩年まで制作を続け、2000年に死去したが、その芸術は現在も日本近代洋画の重要な到達点として位置づけられている。

麻生三郎
麻生三郎

本書の内容

1.絵画は人生を映す営み

本書は、麻生三郎が長年にわたって執筆した約60篇の随筆・評論・紀行文・講演録を、自ら選び編集した文集である。戦前のイタリア旅行記から晩年の画論までが収録され、画家の人生と思想の歩みを一冊で辿ることができる。単なる画集の解説ではなく、なぜ人は絵を描くのかという問いを軸に構成されている。

麻生三郎

2.自然を見るということ

麻生は自然を単なる風景ではなく、人間に問いを投げかける存在として捉えている。自然を忠実に写すことが写実ではなく、自然と対話し、その奥にある生命の秩序や時間の流れを感じ取ることが画家の使命であると説く。見ることは受動的な行為ではなく、対象と自分自身を同時に見つめ直す能動的な営みである。

麻生三郎

3.デッサンは思考の訓練

本書の中でも繰り返し論じられるのがデッサンである。麻生にとってデッサンとは単なる技術練習ではなく、対象の本質へ迫るための思考そのものであった。線一本にも精神の状態が現れ、描くという行為は対象の形を理解すると同時に、自分自身を理解する過程でもある。

4.平面とは何か

麻生は絵画が三次元世界を二次元に置き換える作業ではないと考える。画面は独立した世界であり、そこでは色彩、形、空間、構図が新たな秩序を形成する。現実を忠実に再現することではなく、画面が生命を持つことが重要であり、この視点から絵画空間の構築について論じている。

5.戦争体験と人間観

戦争は麻生の芸術観を決定づけた出来事であった。本書には直接的な戦争文学は少ないものの、人間の弱さや死への意識が文章全体に深く流れている。芸術とは美しいものを飾るためではなく、人間が現実と向き合うための精神活動である。

6.時代とともに生きる画家

芸術家は流行を追うべきではなく、自らの時代を生き抜かなければならない。社会や文化が変化しても、人間への問いは変わらない。だからこそ画家は、自らの時代を誠実に見つめ続ける責任を負う。

7.芸術と人生の一致

本書には制作技法の説明だけではなく、生活、人間関係、旅、読書、歴史、美術教育など幅広い話題が収められている。しかし、そのすべては芸術と人生は切り離せないという一つの思想へ収斂していく。芸術は特別な場所に存在するものではなく、生き方の中から生まれるという信念が全編を貫いている。

巨匠たちとの対話

本書ではレオナルド・ダ・ヴィンチ、ルオー、セザンヌなど、西洋美術史上の巨匠についても数多く語られる。麻生は彼らを歴史上の偉人としてではなく、同じ描く者として読み解いている。それぞれの画家が何に苦しみ、何を見ようとしたのかを考察し、その姿勢を自身の制作と重ね合わせて論じている。

1.レオナルド・ダ・ヴィンチ

麻生が最も尊敬する画家の一人がレオナルド・ダ・ヴィンチである。彼はレオナルドを万能の天才としてではなく、見ることを極限まで追究した画家として評価している。レオナルドは自然を既成概念で理解することを拒み、自分の眼で確かめることを徹底した。人体、植物、水流、雲、光などを科学者のように観察したのも、知識を得るためではなく、本当に見えているものを描くためであった。画家とは目の前の世界を初めて見る人間でなければならず、その姿勢こそ現代の画家にも最も必要である。

2.ポール・セザンヌ

本書で最も深く論じられる巨匠がセザンヌである。麻生はセザンヌを近代絵画の父といった歴史的評価ではなく、一生をかけて自然を見る方法を問い続けた画家として評価している。セザンヌはリンゴや山を描いたのではない。リンゴを見るとは何か、山を見るとは何か、その知覚を描こうとした。だから同じモティーフを何十回も描き直したのであり、それは技術不足ではなく、自然が決して一度では捉え尽くせない存在だからである。麻生自身も人物を何度も描き続けたが、それはセザンヌと同じく、人間という存在を描き切ることは決してできないという認識に基づいていた。セザンヌから学ぶべきものは画風ではなく、終わることのない探究である。

3.ジョルジュ・ルオー

ルオーについて麻生が強く共感するのは、その宗教性よりも、人間への深い眼差しである。ルオーは娼婦、道化師、裁判官など社会の周縁にいる人々を繰り返し描いた。しかし、それらは社会批判ではなく、人間は誰もが弱く、傷ついた存在であるという理解に基づいていた。麻生は、自分が描き続ける人物像もまた、英雄ではなく、ごく普通の人間であると語る。芸術は人間を裁くものではなく、人間を理解しようとする営みであり、この点でルオーは最も共感できる画家の一人として論じられている。

4.レンブラント

レンブラントについては、とりわけ晩年の自画像が取り上げられる。若い頃の成功や技巧ではなく、老年になってなお自分自身を見つめ続けた姿勢に麻生は深い敬意を示す。レンブラントの自画像には美化がない。老いも衰えも、そのまま受け入れて描いている。その誠実さこそが偉大であり、画家は自分を飾るためではなく、自分という存在を理解するために描くのだという考えを麻生は読み取っている。

5.ジャコメッティ

麻生三郎はジャコメッティを、細長い人体をつくった特異な彫刻家としてではなく、人間を見るとはどういうことかを生涯問い続けた芸術家として高く評価している。麻生が注目するのは、ジャコメッティが作品を何度も壊し、また作り直したことである。それは技術が未熟だったからではなく、人間の姿は見れば見るほど捉え難くなり、これで完成したと言える瞬間が存在しないからである。制作とは、対象を支配することではなく、対象の前で絶えず見直し続ける行為である。麻生は、この姿勢を芸術家にとって最も誠実な態度として受け止めている。画家は知っているものを描くのではなく、描きながら初めて対象を理解しようとする。したがって、制作とは答えを示すことではなく、問いを深め続ける営みである。また、ジャコメッティの人物像は極端に細く、空間の中に孤独に立っている。しかし麻生は、その細さや造形的特徴よりも、人間が世界の中でただ一人立ち続ける存在として表現されていることに本質を見ている。人間は決して英雄でも理想像でもなく、不安や孤独を抱えながら、それでも生き続ける存在であるという理解に深く共感している。更に麻生は、ジャコメッティの仕事には見ることと存在することが切り離せないという思想を読み取っている。人を真に見るとは、その人を形として把握することではなく、その人がそこに存在しているという事実を受け止めることである。そのためジャコメッティの彫刻は細部の写実性ではなく、そこにいるという存在感を表現しているのであり、それこそが近代芸術の到達点の一つである。麻生は、ジャコメッティから学ぶべきものは、生涯にわたって人間を見ることをやめなかった精神である。芸術とは新しい様式を発明することではなく、目の前の人間を昨日よりも深く見ようとする不断の努力であり、その意味でジャコメッティは現代芸術の最も誠実な探究者の一人である。

本書が言いたかったこと

絵画とは技術や様式ではなく、人間が世界とどのように向き合い、自分自身をどのように見つめるかという精神の営みである。優れた作品は技巧の巧拙によって生まれるのではなく、画家が現実を誠実に見つめ続ける姿勢から生まれる。自然も人物も歴史も、画家にとっては自己を映す鏡であり、描くという行為は生きることと不可分である。芸術は人生を飾るものではなく、人生を深く理解するための方法である。

未来の輪郭

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