パキスタン核開発の歴史
1.独立直後の原子力研究と平和利用
パキスタンの原子力開発は、当初から核兵器だけを目的として始まった訳ではない。1947年の独立後、同国は科学技術基盤の整備を国家建設の重要課題に据え、1956年にパキスタン原子力委員会を設立した。初期の目的は、原子力発電、医学、農業、工業への放射線利用と原子力科学者の育成であった。1960年代には、米国の平和のための原子力政策などの援助を受けながら、イスラマバード近郊のニロールに研究施設を整備し、研究炉を導入した。また、カナダから供給された重水炉型原子力発電所KANUPPがカラチ近郊に建設され、パキスタンは原子炉運転、核燃料管理、放射線防護などの基礎的能力を獲得していった。この段階では、民生用原子力計画と軍事計画の境界はまだ明確に分離されていた。しかし、原子炉を運転し、核燃料を扱い、科学者や技術者を育成する制度的基盤が形成されたことは、その後の核兵器開発を可能にする重要な前提となった。
2.印パ戦争とブットーの核構想
パキスタンの核兵器開発思想が明確になったのは、インドとの安全保障上の格差が意識されるようになった1960年代である。1965年の第二次印パ戦争は決着をもたらさず、人口、経済力、通常戦力で優位に立つインドに対し、パキスタンが長期的に通常兵器だけで対抗することの困難さを浮き彫りにした。当時外相であったブットーは、インドが核兵器を取得するなら、パキスタンも草を食べ、飢えに耐えてでも核兵器を持たなければならないという趣旨の発言をした。この言葉は、核兵器を単なる軍事装備ではなく、国家存亡を保証する究極の手段とみなすパキスタンの戦略思想を象徴するものとなった。
3.国家分裂と核兵器開発の決断
最大の転換点は1971年の第三次印パ戦争である。この戦争でパキスタンは敗北し、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。国土と人口の大きな部分を失ったこの経験は、パキスタン軍と政治指導部に深刻な国家的屈辱と安全保障上の恐怖を残した。首相となったブットーは1972年1月、ムルターンに主要科学者を集め、核兵器開発に必要な科学技術基盤を構築するよう指示した。ここから核兵器開発は、一部科学者の構想ではなく、国家の正式な安全保障事業へと変化した。当初の中心は、パキスタン原子力委員会によるプルトニウム方式であった。天然ウランを原子炉で照射し、使用済燃料からプルトニウムを分離して爆弾を製造する構想である。ムニール・アフマド・カーンを中心とする科学者集団は、原子炉、再処理、核爆発装置、爆薬、起爆技術などを研究した。パキスタンはフランスとチャシュマ再処理施設の建設契約を結んだが、米国などの強い圧力を受け、フランスは1970年代後半に協力を中止した。このため、プルトニウムを中心とする当初の計画は大きな障害に直面した。
3.インド核実験とA.Q.カーンの登場
1974年5月、インドが平和目的の核爆発と称する核実験を実施した。この実験は、パキスタンにとってインドが事実上の核兵器能力を獲得したことを意味した。1971年の敗戦と1974年のインド核実験が組み合わさることで、パキスタンの核兵器開発は後戻りできない国家目標となった。パキスタンの核計画がこの二つの出来事によって加速したことは、主要な核不拡散研究でも広く指摘されている。この時期に登場したのが、アブドゥル・カディール・カーン博士である。カーンはヨーロッパで冶金学を学び、オランダにあるURENCO関連企業でガス遠心分離機に関係する業務に従事していた。彼は、天然ウラン中のウラン235の比率を高める遠心分離技術に関する設計情報、部品供給企業、製造工程などの知識を得た。カーンは1975年にパキスタンへ帰国し、ブットー政権に対して、プルトニウム方式よりもガス遠心分離機を用いた高濃縮ウラン方式のほうが、秘密裏かつ比較的短期間に核兵器を製造できると提案した。これにより、パキスタンの核開発は、原子力委員会が担当するプルトニウム系統と、カーンが担当するウラン濃縮系統という二本立てになった。カーンの組織は後にカフータ研究所、後にA.Q.カーン研究所と呼ばれるようになった。
4.70年代後半から80年代の秘密調達
カーンはヨーロッパで形成した企業・技術者との関係を利用し、遠心分離機に必要な特殊金属、真空ポンプ、バルブ、周波数変換器、高精度工作機械、計測装置などを調達した。核兵器関連設備を一括購入するのではなく、民生用にも使用できる部品を複数の国と企業から分散して取得したことが、輸出管理を回避する上で有効であった。西ドイツ、オランダ、スイス、英国、ベルギー、フランスなどの企業や仲介業者が、この調達網に直接または間接に組み込まれた。ただし、これらの国々が国家政策としてパキスタンの核兵器開発を支援した訳ではない。多くの場合、輸出企業が用途を十分に確認しなかったか、仲介業者が最終使用者を偽装したか、当時の輸出管理制度に隙間が存在した。この調達網の成功によって、パキスタンは1980年代初頭から中頃までにウラン濃縮能力を確立し、核爆発装置を組み立てるための高濃縮ウランを生産できる段階に近づいた。
5.アフガニスタン戦争と米国の黙認
1979年にソ連がアフガニスタンへ侵攻すると、パキスタンは米国にとって対ソ戦争の最重要前線国家となった。米国はパキスタンの核開発を認識しながらも、アフガニスタンのムジャヒディーンを支援するため、パキスタンとの軍事・情報協力を優先した。米国政府は核不拡散上の懸念から制裁法を整備していたが、冷戦上の必要性によって、その適用は政治的に調整された。この期間、パキスタンは米国の圧力を受けつつも、決定的な妨害を受けずに核能力を高める時間を得た。したがって米国は、パキスタンに核技術を供与した協力国ではないが、核開発阻止よりも対ソ戦略を優先したという意味で、結果的にパキスタンの核完成を可能にした国際環境の形成に大きな役割を果たした。
6.80年代の核の敷居到達
1980年代半ばまでに、パキスタンは核兵器を組み立てられる技術的段階に達した。核爆発を伴わない低温実験、爆縮装置の試験、高濃縮ウラン生産、航空機による核爆弾投下方法の研究などが進められた。1987年頃には、A.Q.カーンが外国人記者との会話で、パキスタンが核兵器を製造できる能力を有していると示唆した。パキスタンは公然たる核実験を行わないまま、必要なら短期間で核兵器を完成・使用できるという曖昧な核抑止状態に入った。
7.90年代の制裁と核戦力の統合
ソ連軍がアフガニスタンから撤退すると、米国にとってパキスタンの戦略的重要性は低下した。1990年には米国のプレスラー修正条項に基づく制裁が発動され、軍事援助やF16戦闘機の引き渡しが停止された。しかし、制裁は完成に近づいていた核計画を後退させることができなかった。むしろパキスタンは、中国や北朝鮮との関係を深め、弾道ミサイルと核弾頭を統合した抑止力の構築を進めた。この時期には、航空機搭載型の核爆弾だけでなく、インド領内の戦略目標を攻撃できる弾道ミサイルが必要とされた。中国系技術を基礎とする短距離弾道ミサイルと、北朝鮮のノドン系技術を基礎とするガウリ・ミサイルが、核兵器の運搬手段として開発された。
8.1998年の核実験
1998年5月、インドのバジパイ政権がポカランで一連の核実験を実施した。パキスタンは米国、日本、欧州諸国から自制を求められ、経済援助を含む見返りを提示されたが、国内世論と軍部は対抗実験を強く要求した。同年5月28日と30日、パキスタンはバロチスタン州チャガイなどで地下核実験を実施した。これによってパキスタンは、イスラム圏で初めて公然と核実験を行った国家となり、事実上の核兵器国として国際社会に登場した。核実験はインドとの戦略的均衡をもたらしたが、同時に経済制裁と国際的孤立を招いた。それでもパキスタン国内では、国家分裂の屈辱を克服し、インドと対等になった象徴として広く支持された。
9.核管理制度の整備
核実験後、パキスタンは核兵器を科学者中心の開発事業から、軍が管理する実戦的戦力へ移行させた。国家指揮機構と戦略計画部門が設置され、核兵器の保管、運搬、指揮命令、要員の信頼性審査などが制度化された。核弾頭と運搬手段は通常、平時には分離して保管されていると推定されるが、詳細は公表されていない。パキスタンは核不拡散条約に加盟しておらず、核兵器数や核物質量も公式には明らかにしていない。
10.A.Q.カーン・ネットワークの発覚
パキスタンが核兵器を完成させる過程で構築した秘密調達網は、1980年代後半以降、核技術を国外へ販売する供給網へと変質した。A.Q.カーン・ネットワークは、イラン、リビア、北朝鮮などに遠心分離機の部品、設計図、製造情報、核関連物質を提供したとされる。特にイランの初期遠心分離計画には、パキスタン由来のP1型とP2型遠心分離機技術が重要な役割を果たした。2003年、リビアが核兵器計画を放棄し、輸入した遠心分離機部品や核兵器設計資料を国際社会に提出したことで、ネットワークの全貌が明らかになった。2004年、カーンは国営テレビで拡散活動への関与を認めて謝罪し、ムシャラフ大統領から恩赦を受けた後、自宅軟禁となった。パキスタン政府は、カーンが個人的に活動したと説明した。しかし、核関連施設、軍用輸送機、国家管理下の物資や外交経路が利用された可能性を考えると、軍や情報機関がまったく知らなかったとする説明には疑問が残る。
11.現在の核戦力
パキスタンは現在も核戦力の近代化を続けている。公開資料に基づく推計では、2023年から2025年頃の核弾頭数は約170発とされるが、同国は、戦略核兵器だけでなく、インド軍の限定的侵攻に対抗するための短距離核ミサイルナスルなど、戦術核兵器も保有している。その結果、核抑止力はインドによる全面戦争を抑える一方、通常戦力による局地衝突が急速に核使用へ拡大する危険も高めている。
パキスタンはなぜ核兵器を実現できた
1.核開発を支えた国家存亡の意識
パキスタン核開発の最大の原動力は、インドに対する強い安全保障上の恐怖である。人口、国土、経済力、通常戦力でインドに劣り、しかも1971年には国家分裂を経験したパキスタンにとって、核兵器は大国としての名誉を得るための装置である以前に、国家が再び解体されることを防ぐ生存の保証と認識された。この認識があったからこそ、政権交代、軍事クーデター、経済危機、国際制裁が繰り返されても、核計画だけは中断されなかった。ブットー、ジア・ウル・ハク、ベナジル・ブットー、ナワズ・シャリフなど、政治的立場の異なる指導者の下でも核開発は継続された。核兵器開発が一つの政権の政策ではなく、軍、官僚、科学者、主要政党が共有する国家目標になったことが、長期的成功の第一の理由である。
2.二つの技術路線による危険分散
パキスタンは、高濃縮ウラン方式とプルトニウム方式を並行して進めた。A.Q.カーンが率いた遠心分離方式は、比較的小規模な施設で秘密裏に高濃縮ウランを生産できるという利点があった。一方、パキスタン原子力委員会が進めたプルトニウム方式は、より小型で高性能な核弾頭の製造に適していた。二つの組織には激しい競争があったが、この競争は技術的な冗長性をもたらした。一方の計画が外国の制裁や技術的失敗で遅れても、もう一方が核兵器完成への道を維持できた。
3.A.Q.カーンの秘密調達ネットワーク
核開発を可能にした最も重要な要因は、A.Q.カーンが構築した国際調達網である。カーンは、遠心分離機という完成設備を購入するのではなく、構成部品を複数国から別々に調達した。発注は民間商社や名義会社を通じて行われ、最終使用地を偽装し、民生目的の製品として輸出許可を取得した。この方式では、一つ一つの取引は通常の商取引に見える。しかし、特殊鋼、アルミニウム、真空装置、周波数変換器、精密軸受、工作機械を組み合わせれば、遠心分離機工場を建設できる。パキスタンの成功は、核兵器は完成品を密輸しなくても、グローバル市場から部品と知識を買い集めれば製造できることを示した。この調達方式が、後にイランやリビアへ輸出されるA.Q.カーン・ネットワークの原型となった。
4.中国による協力
国家レベルの協力国として最も重要だったと考えられるのは中国である。中国とパキスタンは、インドを共通の戦略的競争相手としており、1960年代以降、軍事・外交関係を深めてきた。米国政府資料や核不拡散研究では、中国が1980年代から1990年代にかけて、パキスタンの核兵器計画とミサイル計画に技術的支援を与えたと繰り返し指摘されている。中国が高濃縮ウラン、遠心分離機関連技術、核兵器設計情報、核実験データなどを提供した可能性がある。特に、中国の1960年代型核爆弾設計に由来するとみられる情報がパキスタンへ渡り、それが後にA.Q.カーン・ネットワークを通じてリビアで発見された核兵器設計資料につながったとの見方がある。より妥当な理解は、中国が核物質、設計情報、測定技術、原子炉、ミサイルなど複数の分野で、パキスタンの開発期間と技術的危険を大幅に縮小したというものである。中国の支援には、インドの核戦力を南北両面から牽制し、インドが中国だけに軍事力を集中できない環境を作る戦略的合理性があったと推察できる。中国にとってパキスタンの核兵器は、費用の少ない対インド均衡装置として機能した。
5.北朝鮮との核・ミサイル交換
北朝鮮も重要な協力相手であった。パキスタンは高濃縮ウラン技術を持っていたが、核弾頭を遠距離へ運ぶ弾道ミサイル技術では限界を抱えていた。北朝鮮はノドン型弾道ミサイルを提供し、これがパキスタンのガウリ・ミサイル開発の基礎となったと広くみられている。その見返りとして、パキスタン側から北朝鮮へ、ガス遠心分離機技術、部品、設計情報が提供された可能性が高い。米議会調査局の資料も、両国間にミサイルおよび核兵器関連の協力があったことを指摘している。軍用航空機や政府管理下の輸送手段が関係したことを踏まえると、少なくとも一定の公的関与または黙認があった可能性は排除できない。
6.西欧諸国は協力国だったのか
オランダ、西ドイツ、スイス、英国、フランスなどは、国家として核兵器開発を支援した訳ではない。しかし、これらの国々に存在した企業、技術、教育機関、貿易制度が、パキスタンの核開発に不可欠な資源を提供した。特にヨーロッパの遠心分離機産業から得た知識と供給企業名簿は、カーンの最大の資産であった。したがって西欧諸国は、意図的な協力国ではないが、輸出管理の不備と企業側の利益追求を通じて、結果的に核開発を可能にした供給源であった。
7.米国の戦略的黙認
米国も意図的な核協力国ではないが、パキスタンが核開発を完成させる過程で、米国の政策が一貫していなかったことは重要である。米国は核開発を停止させようと制裁や外交圧力を加えた一方、ソ連のアフガニスタン侵攻後は、パキスタンを対ソ戦争の前線基地として必要とした。このため、パキスタンの核開発が一定の水準を超えていると疑いながらも、関係を断絶しなかった。これは単純な黙認というより、核不拡散よりも冷戦での勝利を優先した選択であった。その結果、パキスタンは1980年代という決定的な10年間に、米国から全面的に孤立することなく核開発を継続できた。
8.サウジアラビアとリビアによる資金支援説
資金面では、サウジアラビアとリビアの関与が長年議論されてきた。リビアのカダフィ政権は1970年代にパキスタンの核開発を資金面で支援したとの説がある。ブットーはイスラムの核爆弾という表現を利用し、豊かなイスラム諸国から資金を得ようとしたとされる。しかし、リビアとパキスタンの関係はその後悪化し、継続的な支援には至らなかったとみられる。サウジアラビアについては、1970年代または1980年代からパキスタン核計画へ資金を提供したとの報道が繰り返されている。1998年の核実験後、国際制裁を受けたパキスタンに対し、サウジアラビアが優遇条件で石油を供給したことは、核実験による経済的損失を緩和する効果を持ったと考えられる。サウジアラビアがパキスタンの核爆弾を全面的に資金提供したと断定することはできないが、長期的な財政援助、石油供給、預金、融資、軍事協力が、パキスタン経済全体を支え、結果として核計画を維持する余力を与えた可能性は極めて高い。
9.軍による統制と秘密保持
パキスタン核開発の成功には、軍が国家の中核を占める政治構造も関係している。軍は資金、施設、要員、輸送、情報管理を優先的に配分できた。議会や報道機関による監視が弱く、核予算の詳細も公表されなかったため、経済状況が悪化しても核計画を保護することができた。民主主義の観点から見れば透明性の欠如であるが、秘密軍事計画を継続するという目的に限れば、この中央集権的な制度は有効であった。
10.国内科学者と技術者の蓄積
外国支援だけでパキスタンの成功を説明することも正確ではない。パキスタンは、数千人規模の科学者、技術者、軍人、官僚を動員し、海外から得た技術を国内で再現・改良した。国際制裁によって部品が入手できなくなると、国内企業に代替品を製造させた。カーン個人だけでなく、ムニール・アフマド・カーン、サマル・ムバラクマンドをはじめとする原子力委員会の科学者、爆薬・電子工学・冶金・ミサイル分野の技術者が参加した国家的事業であった。パキスタンの核兵器は、外国から買った完成品ではない。外国の設計、部品、資金、政治的庇護を組み合わせ、それを国内の科学技術組織が統合した結果である。
中東核拡散の台風の目パキスタン
パキスタンの核兵器開発は、1971年の国家分裂と1974年のインド核実験を契機に、国家存亡の計画として進められた。核兵器完成を可能にしたのは、国内科学者の長期的努力、軍による資源集中、A.Q.カーンの国際調達網、中国の技術支援、北朝鮮とのミサイル・核技術交換、米国による冷戦期の戦略的黙認、そして湾岸諸国などからの経済支援が複合した結果である。中国の協力は、国家レベルの技術支援として最も重要であった可能性が高い。北朝鮮は核兵器の運搬手段を補完し、西欧企業は意図せず重要部品を供給した。サウジアラビアの核開発資金提供については有力な報道と状況証拠があるものの、秘密契約や核弾頭の予約を証明する決定的な公開証拠はない。それでも、イランの核能力が高まり、サウジアラビアが対抗手段を求める現在、パキスタンの存在は過去以上に重要である。パキスタンはすでに核兵器、運搬ミサイル、核物質生産、人材、調達経験を持ち、サウジアラビアとは深い財政・軍事関係を有する。イランが核兵器を完成させた場合、サウジアラビアが最短期間で核抑止力を得る外部選択肢は、パキスタンである可能性が高い。しかし、その協力は核弾頭の単純な売買ではなく、軍事保証、共同運用、危機時展開、技術支援など、曖昧で段階的な形を取ると考えられる。総合的に考えパキスタンは、中東核拡散の台風の目となり得る。ただしそれは、自ら核拡散を主導するからではなく、イラン、サウジアラビア、中国、米国、インドの利害が交差する中心に位置し、その選択一つが中東の核秩序を大きく変えるからである。
1.イラン核開発とパキスタン由来の技術
イランのウラン濃縮計画とパキスタンの間には、歴史的に明確な技術的接点が存在する。1980年代後半から1990年代にかけて、A.Q.カーン・ネットワークはイランにP1型遠心分離機の設計情報、部品、製造技術を提供した。その後、より高性能なP2型遠心分離機に関する情報も伝わった。イランは独自に遠心分離技術を改良し、現在の計画はもはやパキスタンの支援だけに依存していない。しかし、濃縮計画の出発点を大きく短縮したのがカーン・ネットワークであったことは否定しにくい。2026年時点で、イラン核問題は極めて不透明な段階にある。IAEAは2026年2月の報告で、報告期間中にイラン国内の四つの申告済み濃縮施設へのアクセスを得られなかったとしており、査察能力が著しく制限されている。また、イランは核兵器を保有していない国家として唯一、60%濃縮ウランを生産している。60%は一般的な発電用燃料をはるかに超える濃縮度であり、90%前後の兵器級までの技術的距離を大きく縮める。兵器化には、高濃縮ウランの追加濃縮、金属化、核爆発装置の設計、起爆技術、弾頭小型化、ミサイルへの搭載、指揮統制体制の構築が必要である。それでも、査察が十分に行われず、濃縮物質の所在と量が確認できない状態が続けば、イランが政治決断後、比較的短期間に核爆発装置を製造できる核の敷居国家になる可能性は高まる。
2.パキスタンが再びイランへ協力する可能性
現在のパキスタン政府が、国家政策としてイランへ核兵器技術を提供する可能性は低いと考えられる。
第一に、パキスタンはA.Q.カーン事件によって国際的信用を大きく損なった。再度の核拡散が発覚すれば、米国、欧州、日本、国際金融機関から厳しい制裁を受ける可能性がある。
第二に、パキスタンはサウジアラビアおよび湾岸諸国から経済支援を受けており、サウジアラビアの最大の戦略的競争相手であるイランを核武装させることは、自国の経済利益に反する。
第三に、パキスタン国内には大規模なシーア派人口が存在し、サウジアラビアとイランの対立に過度に巻き込まれれば、宗派対立が国内へ波及する危険がある。ただし、国家の正式政策とは別に、退職した科学者、仲介業者、企業、軍関係者などが個人的利益や思想的動機から協力する危険は完全には消えない。A.Q.カーン事件の最大の教訓は、国家が拡散を命令しなくても、国家が育てた技術者と調達網が独自に国際市場へ流出し得ることである。
3.サウジアラビアとパキスタンの特殊関係
サウジアラビアとパキスタンの関係は、石油、金融、宗教、軍事、人材交流によって結ばれている。サウジアラビアは、外貨不足に陥ったパキスタンに対して、融資、中央銀行への預金、石油代金の支払い猶予などを繰り返し提供してきた。パキスタンはその見返りとして、軍事顧問、訓練要員、部隊をサウジアラビアへ派遣し、王国の安全保障を支えてきた。この関係は正式な同盟条約を超えた、長期的な相互依存といえる。サウジアラビアがパキスタン核計画を資金援助し、その見返りに将来核兵器または核抑止力を得る秘密了解が存在するという説は、数十年にわたって繰り返されてきた。疑惑を強めた出来事の一つは、サウジアラビアのスルタン国防相が1999年と2002年にパキスタンの戦略関連施設を訪問したとされることである。近年の安全保障分析でも、これらの訪問、サウジ指導者の核武装を示唆する発言、核弾頭搭載可能性のあるミサイル保有などが、パキスタン製核兵器への迅速なアクセス説の根拠として挙げられている。
4.秘密核取引の可能な形態
サウジアラビアとパキスタンの間で何らかの核協力が将来実施されるとしても、最初から核弾頭を売買するとは限らない。考えられる形態には、段階的な違いがある。最も穏健な形態は、パキスタンがサウジアラビアに対して通常戦力、ミサイル防衛、早期警戒、核・化学・生物兵器防護などの協力を提供することである。次の段階は、核危機発生時にパキスタンがサウジアラビアを軍事的に支援するという、非公式な拡大抑止である。これは米国が同盟国に提供する核の傘に近いが、正式条約を伴わない。さらに進んだ形態として、パキスタン軍が管理する核兵器または核搭載可能ミサイルを、危機時にサウジ領内へ展開する構想が考えられる。この場合、核兵器の所有権と発射権限をパキスタンが保持すれば、形式上はサウジアラビアへの核移転ではないと主張する余地が生じる。最も重大な形態は、核弾頭、核物質、核兵器設計、遠心分離技術をサウジアラビアへ移転することである。これは核不拡散条約体制に対する重大な違反となり、両国に大規模な制裁と国際的孤立をもたらす。現実的に最も可能性が高いのは、直ちに核弾頭を引き渡す取引ではなく、イランが核兵器を保有した場合、パキスタンがどのような支援を提供するかを曖昧にしたまま、軍事・技術協議を進める形である。
5.サウジアラビアは核兵器を買えるのか
技術的には可能であっても、政治的には極めて困難である。パキスタンの核戦力は、インドを抑止するために構築された国家存亡の手段であり、単なる輸出商品ではない。核弾頭の一部をサウジアラビアへ移転すれば、インドとの核均衡を損ない、米国や中国との関係も危険にさらす。特に中国は、イランとの関係も深く、中東で制御不能な核軍拡競争が起きることを望まない。パキスタンがサウジアラビアへ核兵器を供給すれば、中国の一帯一路関連投資や中東外交にも悪影響が及ぶ。また、パキスタンは国際通貨基金などの国際金融支援に依存する経済構造を持つため、核移転による金融制裁に耐えることは難しい。したがってサウジアラビアへの核移転は、パキスタンが経済的対価だけで決断できる問題ではない。イランの核武装、米国による安全保障保証の崩壊、サウジ王国への重大な軍事的脅威という三つの条件が同時に生じた場合に初めて、現実的な選択肢として浮上すると考えられる。
6.サウジアラビア自身の核開発
サウジアラビアは、公式には核兵器計画を保有しておらず、民生用原子力発電の導入を進めている。核不拡散研究機関によれば、同国は2040年までに二基の原子力発電炉を建設する計画を持つ一方、国内でのウラン濃縮への関心が核不拡散上の懸念を生んでいる。サウジアラビアが濃縮技術、研究炉、核燃料製造、人材育成を進めれば、直ちに核兵器を製造しなくても、将来の核武装に必要な時間を短縮できる。この点で、パキスタンとの関係は完成した核兵器を買う保険と自国核開発を支援してもらう保険の双方として価値を持つ。一方、米国などから厳格な保障措置の下で民生用原子力技術を導入できれば、サウジアラビアが秘密裏にパキスタンへ依存する必要性は低下する。逆に、米国との安全保障関係が悪化し、イランが核兵器を保有する方向へ進めば、パキスタンとの核協力説は再び現実味を増す。
7.中東核拡散の台風の目
パキスタン自身は南アジアの国家であり、その核兵器の主目的はインド抑止である。しかし、パキスタンが開発した技術、人材、調達網、外交関係は、中東の核問題と深く結び付いている。イランの遠心分離計画の起源にはA.Q.カーン・ネットワークがあり、リビアの核計画にもパキスタン由来の設備と設計情報が流入した。サウジアラビアは、パキスタンの長期的な財政支援国であると同時に、将来の核協力相手として繰り返し名前が挙がってきた。この意味でパキスタンは、過去には核技術を中東へ流出させた供給源であり、現在はサウジアラビアにとって潜在的な核保険であり、将来はイラン核武装後の地域秩序を左右する戦略的選択者となり得る。ただし、パキスタンがイスラム世界を意図的に核武装させようとしていると理解するのは単純すぎる。パキスタン軍の第一目標はインドとの均衡維持であり、中東への核拡散は自国に制裁、外交的孤立、宗派対立、核技術の管理不能をもたらす。したがって、パキスタンは中東核拡散の積極的な推進者というよりも、核拡散を加速させ得る能力と人脈を持ち、複数国から選択を迫られる国家である。
8.今後想定される核拡散の連鎖
最も危険な展開は、イランが公然と核実験を行うか、核兵器保有を宣言する場合である。その場合、サウジアラビアは米国の核抑止保証を求めると同時に、パキスタンとの軍事協力を拡大すると考えられる。トルコやエジプトも、直ちに核兵器を開発しなくても、原子力技術、ウラン濃縮、人材育成などの潜在能力を高める可能性がある。イスラエルは、核兵器保有を公式には認めない従来の曖昧政策を維持しつつ、イランの核施設や関連人物に対する軍事・秘密作戦を強化する可能性がある。この連鎖の中で、パキスタンは三つの立場の間で揺れることになる。第一は、サウジアラビアとの歴史的関係を優先する立場である。第二は、隣国イランとの関係悪化を避ける立場である。第三は、米国、中国、国際金融機関との関係を守り、核不拡散国としての信頼回復を目指す立場である。これらは完全には両立しない。パキスタンが一方へ大きく傾けば、中東の戦略均衡が変化する。
イスラエルの秘密協力の可否(付記)
パキスタンの核兵器開発にイスラエルが秘密裏に協力したという説は、パキスタンとイスラエルがともに核不拡散条約に加盟せず、核政策を秘密主義の下で進めてきたことから生じた推測である。両国は正式な外交関係を持たず、パキスタンはイスラエルを国家承認していないため、実際に秘密協力があったとしても、公的文書として確認されにくい構造にある。パキスタン核開発への主要な外国関与として確認または有力視されているのは、中国の技術支援、北朝鮮とのミサイル・遠心分離技術の交換、ヨーロッパ企業からの秘密調達である。1980年代のイスラエルはパキスタン核開発をイスラムの核爆弾として警戒し、むしろ阻止しようとしていたとする証言が存在する。したがって、イスラエル関与を論じる場合には、核兵器完成への直接協力と、秘密接触、情報交換、政治的黙認、第三国を介した間接的効果を分けて考える必要がある。
1.直接的な核技術協力説の信頼性
イスラエルがパキスタンに核兵器設計を提供した、あるいは核物質を供給したという説には、裏付けはない。A.Q.カーンのウラン濃縮計画は、オランダのURENCO関連企業から得た遠心分離機技術と、ヨーロッパに構築した調達網を基礎としていた。パキスタンの初期核兵器設計には中国由来の情報が利用された可能性が、イスラエル由来の情報よりもはるかに強く指摘されている。A.Q.カーン・ネットワークがリビア、イラン、北朝鮮へ核関連技術を移転したことは確認されているが、イスラエルがその供給側として登場した証拠はない。カーンが2004年に認めた移転先も、主としてイラン、リビア、北朝鮮であった。したがって、イスラエルがパキスタン核兵器の技術的起源であったと考える根拠は弱い。
イスラエル協力説が生じた理由の一つとして、秘密核開発では技術の出所が意図的に隠され、複数の経路が混同されやすいことが挙げられる。パキスタンが利用したとされる核兵器設計は、一般には中国の初期核兵器設計と関係するとみられている。一方、イスラエルも独自の核兵器能力を秘密裏に構築したと広く認識されており、両国とも核保有をめぐる曖昧性、秘密調達、第三国経由の技術取得という共通点を持つ。そのため、秘密核保有国同士で技術交換があったのではないかという推測が生まれやすい。
イスラエル関与説の中で比較的想像されやすいのが、南アフリカを介した間接協力である。アパルトヘイト期の南アフリカは核兵器を開発し、イスラエルとの軍事・核分野での秘密協力があったとする研究が存在する。一方、パキスタンにも南アフリカで教育を受けた科学者や技術者がおり、ウラン、冶金、軍需技術をめぐる国際的な人的接点が存在した。このため、南アフリカを経由してイスラエル由来の知識や測定情報がパキスタンへ流れたのではないかという推測はあり得る。
2.イスラエルによる阻止工作説
イスラエルがパキスタンの核開発に協力したという説と最も矛盾するのは、イスラエルがカフータのウラン濃縮施設を破壊しようとしたとの情報である。1981年、イスラエル空軍はイラクのオシラク原子炉を空爆した。これによってイスラエルは、敵対的な地域国家が核兵器能力を取得する前に軍事力で阻止するという先制攻撃政策を示した。その後、イスラエルがインドと協力してパキスタンのカフータ施設を攻撃する案を検討したとする報道や研究が現れた。攻撃にはイスラエル空軍機を使用し、インド国内の基地で給油や支援を受ける構想が含まれていた。ただし、インド側がパキスタンの大規模報復を恐れ、最終的に実行を承認しなかった。1982年当時にも、インドがパキスタン核施設への攻撃を検討しているとの情報が米国で報道されていた。イスラエル・インド共同攻撃計画の細部には未確認部分が残る。しかし、イスラエルがパキスタン核兵器の完成を歓迎するより、潜在的脅威として阻止しようとしたと考える方が、イスラエルの当時の核拡散政策と整合する。
更に、1980年代にパキスタンの核開発へ部品を供給していたドイツやスイスの企業に対し、爆破や脅迫が行われ、イスラエル情報機関モサドの関与が疑われた。これらの事件では、パキスタンへの供給を停止するよう要求する匿名の脅迫が企業関係者へ届き、一部施設で爆発事件が起きたとされる。スイス紙の調査を基礎とする報道では、イスラエル情報機関がパキスタンの秘密調達網を妨害しようとした可能性が指摘された。仮にこの疑惑が正しければ、イスラエルはパキスタン核開発に協力したのではなく、企業への威嚇、破壊工作、情報収集によって開発を遅延させようとしていたことになる。
イスラエルがパキスタン核開発を警戒したにもかかわらず、カフータ施設への攻撃が実行されなかった理由はいくつか推察できる。第一に、イスラエルからパキスタンまでの距離が長く、イラクのオシラク原子炉攻撃よりも作戦がはるかに困難であった。航路、給油、帰投、インド側基地の使用、アラブ諸国上空の通過など、多くの政治的・軍事的問題が存在した。第二に、パキスタンの濃縮施設は、単一の大型原子炉とは異なり、地下化、分散化、復旧が比較的容易であった。空爆に成功しても、核計画全体を完全に破壊できる保証はなかった。第三に、パキスタンは米国にとって、ソ連軍と戦うアフガニスタン・ムジャヒディーン支援の中心国家であった。イスラエルがパキスタンを攻撃すれば、米国の対ソ戦略を損なう可能性があり、ワシントンが強く反対したと考えられる。第四に、パキスタンはイスラエルから遠く、当時の運搬手段ではイスラエル本土に対する直接的核攻撃能力を持っていなかった。イスラエルにとって、イラクやイランほど差し迫った脅威ではなかった。軍事作戦の危険と政治的費用が、期待される効果を上回ったと判断された可能性が高い。
3.秘密接触が存在した可能性
パキスタンとイスラエルは正式な外交関係を持っていなかったが、情報機関レベルでまったく接触がなかったとは考えにくい。ソ連のアフガニスタン侵攻後、米国のCIA、パキスタンの軍統合情報局、英国情報機関などはムジャヒディーン支援に関与した。イスラエルも、ソ連製兵器に関する情報や、第三国で取得した兵器を通じて間接的に反ソ陣営へ関与した。パキスタンとイスラエルの情報機関が、米国を仲介として限定的な接触を持ったとする情報も存在する。イスラエルがパキスタン軍部の意図、核施設の位置、核兵器の管理状態を把握するため、秘密連絡経路を維持していた可能性は高い。パキスタン側にも、イスラエルの対インド関係、米国政界への影響力、中東情勢に関する情報を得る利益があった。したがって、敵対的な公式関係の裏側で、限定的な情報交換や危機回避の連絡が行われていた可能性は十分に考えられる。
イスラエルの関与について最も現実的に推察できるのは、積極的な核技術協力ではなく、一定段階からの消極的受容である。1980年代初頭には、イスラエルはパキスタン核施設への攻撃を検討した可能性がある。しかし、1980年代後半になると、パキスタンの核能力は分散・地下化され、一度の攻撃で除去することが困難になった。また、パキスタンの核戦略がインドに集中しており、イスラエルを直接標的としていないことが理解されれば、イスラエルにとっては、危険な攻撃を行うよりも、パキスタン軍との秘密連絡を確保し、核技術がアラブ諸国やイランへ流出しないよう監視する方が合理的になる。この段階で、イスラエルがパキスタンの核保有を事実上受け入れた可能性はある。
より大胆な仮説として、イスラエルがパキスタンの核保有を、インドとイスラム世界の双方を一定程度拘束する均衡要因として利用できると判断した可能性が考えられる。冷戦期から1990年代にかけて、イスラエルはインドとの関係を徐々に深めており、パキスタン核兵器がインドを牽制することは、イスラエルの長期的利益に必ずしも合致しなかった。また、パキスタンはアラブ諸国に軍人や顧問を派遣し、イスラエルとの戦争に一定の形で関与した歴史を持つ。パキスタン核兵器が将来サウジアラビアなどへ拡大抑止を提供する可能性も、イスラエルにとって懸念材料であった。したがって、イスラエルが対インド均衡のためにパキスタン核武装を積極的に支援したという説は、戦略的合理性に乏しい。
パキスタンとイスラエルの利害が部分的に一致し得るのは、イランの核開発とイスラム過激派の問題である。A.Q.カーン・ネットワークがイランへ遠心分離技術を移転したことは、イスラエルにとって重大な安全保障上の脅威となった。その後のイスラエルにとって重要なのは、パキスタンの核兵器より、パキスタン由来の技術がイランや中東へ再流出することであった。このためイスラエルは、パキスタン軍や情報機関から、イランへ渡った遠心分離技術、部品、仲介業者、科学者などの情報を得ようとした可能性がある。パキスタン側も、A.Q.カーン事件による国際的孤立を軽減し、自国の核戦力がイスラエルを標的としていないことを秘密裏に説明する必要があったと考えられる。したがって、2000年代以降にイスラエルとパキスタンの間で核拡散情報に関する限定的な秘密協力があった可能性は、1970年代から1980年代の核兵器開発協力説よりもはるかに現実的である。
4.イスラエル協力説が生まれた背景
イスラエルとパキスタンには、核開発を秘密裏に進め、核不拡散条約の外側で事実上の核保有国となったという共通点がある。イスラエルは核兵器保有を公式には確認も否定もしない曖昧政策を維持し、パキスタンも1998年の核実験以前は核能力を明言しなかった。両国とも、米国との重要な安全保障関係を維持しながら核兵器を取得した。米国が地政学上の理由から、イスラエルとパキスタンに対する核不拡散政策を厳格には適用しなかった。この類似性が、両国は裏で協力していたのではないかという推測を生みやすくした。しかし実際には、両国がそれぞれ異なる脅威認識と異なる技術経路で核兵器を開発し、米国が別々の地政学的理由から対応を弱めたと見る方が自然である。
パキスタンの政治言説では、インド、イスラエル、米国が共同してパキスタン核兵器を破壊しようとしているという見方が長く存在した。一方で、イスラエルが秘密裏にパキスタンと取引しているという反対方向の説も流布した。正式な外交関係が存在せず、情報が秘密化されていることが、相互に矛盾する陰謀論を成立させた。
1998年にパキスタンが核実験を成功させた際、外国から計測装置や実験診断技術が提供されたのではないかという憶測も生じた。核実験には、爆発装置だけでなく、地下空洞の設計、地震波測定、放射線計測、高速電子機器、データ解析などが必要である。イスラエルが高度な核・電子・計測技術を有しているため、技術支援説が語られた可能性がある。しかし、パキスタンは1980年代から核爆発を伴わない低温実験を重ね、原子力委員会内部に爆薬、計測、地質、電子工学の能力を蓄積していた。1998年の核実験成功を説明するために、イスラエルの支援を仮定する必要はない。
パキスタン核爆弾開発の軌跡(書評)
草を食べても パキスタン核爆弾開発の軌跡
Eating Grass
The Making of the Pakistani Bomb
2012年刊
Feroz Hassan Khan著(パキスタン陸軍退役准将)
著者フェローズ・ハッサン・カーンは、パキスタン陸軍で約30年間勤務した軍人である。最終的にはパキスタン統合軍司令部戦略計画部門において軍備管理・軍縮担当部長を務め、核政策や戦略安定化政策の立案に直接関与した。その後は米国モントレーの海軍大学院で国家安全保障論を教えるとともに、スタンフォード大学、ブルッキングス研究所などで研究活動を行い、南アジア核問題の第一人者として国際的に知られている。本書は数十年に及ぶ実務経験に加え、科学者、軍人、外交官、政治家への多数の独占インタビューをもとに執筆された、パキスタン核開発史の代表的研究書である。
アブドゥル・カディール・カーン博士(Abdul Qadeer Khan、1936–2021年)は、パキスタンの冶金学者であり、パキスタン核開発の父と称される人物である。ヨーロッパで冶金工学を学び、オランダのウレンコ(URENCO)関連企業で遠心分離機技術に接した後、1975年に帰国してパキスタンのウラン濃縮計画を主導した。彼の指導のもとでカフータ研究所は高濃縮ウラン製造能力を確立し、1998年のパキスタン核実験成功の技術的基盤を築いた。一方で、後年にはイラン、リビア、北朝鮮などへの核技術拡散問題が明らかとなり、2004年には国家テレビで謝罪声明を発表するなど、その功績と責任の双方を背負う極めて複雑な人物とされている。
1.草を食べても核を持つという国家意思
本書の題名は、ブットー首相がたとえ草を食べても核兵器を持つと語ったとされる有名な言葉に由来する。この言葉は、国家が極度の経済的犠牲を払ってでも核抑止力を獲得するという決意を象徴している。著者は、この思想が単なる政治的スローガンではなく、国家戦略として数十年間継続されたことを示している。
2.平和利用から核兵器開発への転換
1956年、パキスタンは原子力の平和利用を目的として原子力計画を開始した。当初は発電や科学研究が中心であったが、1965年戦争、1971年の第三次印パ戦争による東パキスタン(現在のバングラデシュ)の分離独立、1974年のインドによる核実験が国家安全保障認識を決定的に変えた。著者は、この時期こそがパキスタンの核政策が平和利用から核抑止へ転換した歴史的分岐点であると位置付けている。
3.政治家・軍・科学者の協力体制
本書では核兵器開発を一人の英雄による物語としてではなく、多数の政治家、軍人、科学者、技術者、外交官が関与した巨大国家プロジェクトとして描いている。ブットー政権による政治決断、ムニール・アフマド・カーン率いる原子力委員会、A.Q.カーン率いる濃縮計画、軍による資金・安全保障体制など、多数の組織が互いに競争しながらも国家目標のために協力した過程が詳細に分析される。著者は、内部対立や官僚間競争すらも最終的には技術発展を促した側面があると評価している。
4.技術開発の苦闘
本書では核兵器そのものよりも、それを可能にした工業技術の蓄積が詳しく説明される。ウラン濃縮用遠心分離機、高真空技術、高強度特殊鋼、高精度工作機械、爆縮レンズ、電子制御装置など、多くの分野で海外輸入が困難となる中、自国技術によって代替しなければならなかった経緯が紹介される。国際的な輸出規制や経済制裁は開発を遅らせた一方で、自主技術開発能力を高める結果にもなった。
5.国際社会との対立
アメリカを中心とする核不拡散政策は、パキスタンに対して経済制裁や軍事援助停止など様々な圧力を加えた。しかしソ連のアフガニスタン侵攻後には、米国は対ソ戦略上パキスタンを重視するようになり、核問題への対応も時期によって変化した。本書は、このような国際政治の二重基準や現実主義外交がパキスタンの核政策に与えた影響を多角的に論じている。
6.1998年核実験への道
1998年5月、インドが再び核実験を実施すると、パキスタン政府は国際社会からの強い自制要求を受けながらも、チャガイで地下核実験を断行した。著者は、この決断は単なる軍事競争ではなく、国家としてインドとの戦略均衡を維持するための最終的選択であったと説明する。核実験成功によってパキスタンは事実上の核保有国となり、国家安全保障政策は新たな段階へ移行した。
7.核抑止力と安全保障
後半では核兵器完成後の運用体制について詳しく論じられる。核指揮命令系統、戦略計画部門の設立、核兵器管理システム、危機管理、インドとの抑止理論などが分析され、著者は核保有後こそ安全管理と統制が重要になることを強調する。また、テロ組織による核兵器奪取や偶発的核戦争の危険にも言及し、安全保障制度の制度化が不可欠であると論じている。
8.A.Q.カーン事件の位置付け
世界的に注目されたA.Q.カーンの核技術拡散事件についても、本書は一章を割いて検討している。著者は事件の重大性を認めつつも、それだけでパキスタン核開発全体を評価することは適切ではないとし、国家全体による長期的努力こそが核保有実現の本質であったと論じている。そのため、本書は英雄伝でも暴露本でもなく、国家プロジェクト全体を客観的・制度的観点から描いた包括的研究としてまとめられている。
カーン博士と核の国際闇市場(書評)
Shopping for Bombs
Nuclear Proliferation, Global Insecurity, and the Rise and Fall of the A.Q. Khan Network
2011年刊
Gordon Corera著
ゴードン・コレラは、イギリスを代表する安全保障・情報機関専門のジャーナリストであり、BBCの安全保障担当編集委員として長年にわたり国際テロ、核拡散、諜報活動、サイバー戦争などを取材してきた。オックスフォード大学で哲学・政治学・経済学を学んだ後、BBCに入局し、9・11同時多発テロ後の国際安全保障問題やイラク戦争、イラン核問題、ロシア・中国の情報活動などを継続的に報道している。彼の著作は、綿密な取材に基づくことで知られ、一般向けの読みやすさと学術的な信頼性を兼ね備えている。本書は、その代表作の一つであり、A.Q.カーン博士を中心とした世界最大級の核拡散ネットワークを詳細に解明したノンフィクションである。単なる人物伝ではなく、国家、企業、闇市場、情報機関が複雑に絡み合う国際的な核拡散システム全体を描き出した作品として高く評価されている。
1.核兵器は市場で買える時代の到来
本書の中心的テーマは、核兵器開発はもはや国家だけの秘密計画ではなく、国際市場を通じて購入可能な技術になってしまったという衝撃的な現実である。冷戦期には、核兵器は米国やソ連など限られた超大国のみが保有する極秘技術と考えられていた。しかし著者は、1970年代以降、世界各国の民間企業、技術者、仲介業者、金融機関、輸送会社などが国境を越えて結び付くことによって、核兵器関連技術が国際商品となっていった過程を描いている。本書は、核兵器が完成品として売買されたという意味ではなく、核兵器製造に必要な部品、設計図、工作機械、専門知識が世界市場から少しずつ調達できるようになった現実を象徴している。
2.A.Q.カーン・ネットワークの誕生
物語の中心人物は、パキスタン核開発の父と呼ばれるアブドゥル・カディール・カーン博士である。著者は、1970年代にオランダで遠心分離機技術を学んだカーン博士が、帰国後にパキスタンの核開発を飛躍的に前進させた過程を描く一方、その後形成された国際的な調達・販売ネットワークにも焦点を当てる。カーン博士は単なる科学者ではなく、ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカに広がる企業や商社を利用して、高精度工作機械、特殊金属、高真空装置、電子機器などを秘密裏に調達する巨大なサプライチェーンを構築した。このネットワークは国家の枠を超えて拡大し、後には核技術を他国へ供給する基盤となった。
3.国際企業と闇市場の形成
本書では、核拡散は秘密工作だけで進んだのではなく、合法的な民間企業や貿易会社が結果として重要な役割を果たしたことが詳しく説明される。遠心分離機の部品一つを製造する企業は、自社製品が最終的に核兵器へ利用されるとは必ずしも認識していなかった。しかし、複数の企業から部品を集めることで、一つの巨大な核開発システムが形成されていった。このデュアルユース(軍民両用)技術の流通こそが現代の核拡散問題を極めて複雑にしている。
4.イラン・リビア・北朝鮮への拡散
本書の中核部分では、A.Q.カーン・ネットワークがイラン、リビア、北朝鮮へどのように核技術を提供したかが詳しく描かれる。イランには遠心分離機設計図や関連部品が供給され、その後のウラン濃縮計画の基礎となった。リビアでは、カダフィ政権が核兵器保有を目指し、ほぼ一式の核関連設備を購入していたことが明らかになる。しかし2003年、リビアが核開発放棄を決断したことで、この秘密計画は国際社会へ公開され、ネットワーク全体が露見する契機となった。北朝鮮については詳細がなお不明な部分もあるが、遠心分離機技術やミサイル技術を含む相互協力が存在した可能性が高いことが、多数の証言や資料をもとに論じられている。
5.情報機関による追跡
本書では、CIA、MI6、ドイツ情報機関、オランダ情報機関、IAEAなどが長年にわたりネットワークを追跡していた過程も描かれる。輸出記録、貨物船、銀行送金、衛星写真、通信傍受など、多様な情報を組み合わせながら少しずつネットワークの全貌が解明されていく様子は、まるで国際スパイ小説のような緊張感を伴って語られている。著者は、情報機関が早い段階でカーンの活動を把握していたにもかかわらず、アフガニスタン戦争やパキスタンとの外交関係など政治的事情から直ちに摘発できなかった側面も指摘している。
6.リビア事件とネットワーク崩壊
2003年、リビアが大量破壊兵器計画を放棄したことで、秘密裏に輸送されていた遠心分離機部品や設計図が押収され、A.Q.カーン・ネットワークの全貌が一気に明らかとなった。この事件を契機として国際社会は関係企業や仲介業者を次々と摘発し、パキスタン政府も2004年にカーン博士を自宅軟禁とした。著者は、この崩壊は一人の科学者の失脚ではなく、20年以上続いた世界最大級の核技術密輸ネットワークの終焉であったと位置付けている。
7.核拡散対策の限界
本書の後半では、核不拡散条約(NPT)、IAEA査察、輸出管理制度、国際制裁など既存の核拡散防止体制についても検討している。冷戦期の制度は国家対国家の拡散には有効であったが、民間企業や個人ネットワークを利用する現代型の拡散には十分対応できなかった。技術の国際化とグローバル経済の進展によって、核関連部品や知識は世界中を移動するようになり、従来型の輸出規制だけでは完全な防止は困難になっている。
8.世界安全保障への警鐘
本書が最も強調しているのは、核兵器以上に、核技術を流通させるネットワークが21世紀最大級の安全保障上の脅威であるという点である。著者は、A.Q.カーン事件を歴史的な特殊事例としてではなく、グローバル経済の中では同様のネットワークが再び形成される可能性を示す象徴的事件として捉えている。そのため、今後の国際社会に求められるのは、国家間の軍備管理だけではなく、企業、金融機関、輸送業者、情報機関、国際機関が連携して技術流通全体を監視する新しい核不拡散体制である。本書は、A.Q.カーン個人の活動を描くだけではなく、グローバル化した世界経済が核拡散という新たな脅威を生み出した構造を解明し、21世紀の国際安全保障の課題を多角的に考察した優れたノンフィクションである。
