酔って候

酔って候
1981年刊
鴨居玲著

鴨居玲の経歴

鴨居玲(1928-1985年)は石川県金沢市に生まれた日本を代表する洋画家である。金沢美術工芸専門学校を卒業後、宮本三郎に師事し、1959年には渡欧してスペインを中心に長期間滞在した。スペインの厳しい自然や庶民の生活、酒場で出会う老人や道化師、酔客、修道士などを繰り返し描き、人間の孤独や絶望、老い、死といった普遍的な主題を追究した。鴨居の作品には華やかな色彩よりも深い褐色や灰色が多く用いられ、人物の表情には人生の重みや精神的苦悩が刻み込まれている。その一方で、人間への温かな共感も失われることはなく、日本洋画壇において独自の地位を築いた。本書は画家自身を対象とした自伝的随筆集であり、自らの半生、絵画への信念、酒との付き合い、ヨーロッパ生活、芸術論、人間観などを率直に綴っている。作品だけでは読み取れない鴨居玲の精神世界を知るための重要な資料となっている。

本書の内容

1.絵を描くことは生きること

本書全体を貫いているのは、絵を描くことと生きることが完全に一致しているという思想である。鴨居は絵画を職業としてではなく、生きる理由として考えていた。良い絵を描けなければ生きる意味も失われるというほど、制作に人生のすべてを懸けていた。そのため文章には成功談よりも、自分の未熟さへの苛立ちや、理想に届かない苦しみが数多く語られている。

鴨居玲

2.酒と孤独

タイトルにもなっている酔って候は、単なる酒好きという意味ではない。酒は孤独を忘れるための逃避でもあり、同時に孤独と真正面から向き合うための媒介でもあった。酒場で出会う無名の老人や酔客の姿に、自らの未来や人生を重ね合わせ、人間の本質を見ようとした。酒を飲む場面は数多く登場するが、その背後には人生への不安や死への恐怖、創作への焦燥感が常に存在している。

3.スペインで学んだもの

スペインでの生活は鴨居の芸術を決定づけた。フラメンコ、闘牛、教会、美術館、田舎町の酒場など、日常のあらゆる風景から彼は芸術を吸収していく。特にスペインの人々が持つ、生と死を同時に受け入れる精神性に深く感銘を受け、それが作品にも反映されていった。華やかな観光地ではなく、名もない老人や労働者に美しさを見出す視点が育まれた。

4.人物画への執着

鴨居は風景画よりも人物画を描き続けた。彼にとって人間の顔は人生そのものであり、一人ひとりの表情には過去も現在も未来も刻まれている。老人の皺、疲れた眼差し、酒場で俯く男などを描くことで、人間存在そのものを描こうとしたのである。

5.芸術家としての苦悩

本書では画家という職業の華やかな面はほとんど描かれない。むしろ毎日の制作への苦しみ、納得できない作品への怒り、自信と絶望の繰り返しが率直に語られる。創作とは才能だけではなく、終わりのない自己否定の連続であり、その苦しみから逃げないことが芸術家の宿命であると述べている。

6.人間への共感

本書には有名人よりも、市井の人々が数多く登場する。酒場の老人、物乞い、道化師、労働者など社会の片隅で生きる人々に対して、鴨居は強い親近感を抱いていた。彼らを憐れむのではなく、人間としての尊厳を感じ取り、その姿を芸術として残そうとする姿勢が全編に流れている。

7.死を意識した人生観

文章の随所には死への意識が現れる。しかしそれは悲観ではなく、死があるからこそ今日を真剣に生きなければならないという覚悟として語られている。人生は有限であり、その限られた時間の中で本当に描きたい絵を描かなければならないという切迫感である。

本書が言いたかったこと

芸術とは技巧や名声ではなく、人間がどれほど真剣に生き、自らの弱さや孤独と向き合えるかによって生まれる。鴨居玲は酒や旅、人々との出会いを通じて人間の本質を見つめ続け、その苦しみも歓びもすべて絵画へと昇華しようとした。本書は一人の画家の自伝ではなく、本当に生きるとは何かを問い続けた一人の人間の魂の記録である。

未来の輪郭